88. サワント公国
「このまま先に行ってもな」
シャヒードの一言だ。グプタ村からの一団を街道の合流地点で待っていたのだ。
ジンたちが街道に戻ると、荷駄隊が昼間だというのにのんきに街道端で休んでいた。馬車の傍で子供たちが走り回り、焚火で干し肉をあぶったりしながら、大人たち、いや、主にヤダフだが、エールをがぶ飲みしていた。
重いエールをどれだけ持ち込んだのだ、とジンはヤダフを責めたくなったが、この平和な雰囲気をぶち壊したくないと思い、目をつぶった。
ジンだって、周りの雰囲気を大切にすることがあるのだ。
冬が迫っていることを考えれば、出来るだけ今のうちに進んだ方がいい。かと言って、一日くらい無駄にしたって、そんなに大きな問題にはならないはずだ。フィンドレイの襲撃に時間を間に合わせたり、ノオルズ公爵軍の到着より前に街を脱出した時のように一日一刻を争う旅ではないのだ。
「シャヒード、ありがとう。おかげでグプタ村のみんなを助けることが出来た」
「ああ、事情は一度戻って来たマイルズに聞いている。良かったな、ジン」
「それに、こう言っては何だが、グプタ村のみんなは役に立つぞ。子供たちは良い戦士になるだろうし、大人たちは働き者だ。それに免じて、老人たちを頼む」
「なんだ、ジン、お前はグプタ村の保護者にでもなったのか? 俺にそんなに気を遣うな。それにな、もともと一〇〇人を想定した荷駄隊だ。なんとかなるだろう」
「重ね重ね礼を言う。シャヒード」
照れ屋のシャヒードは正面切って礼を言われると、どうもうまく対応できない。
「ふん。距離を取り戻すぞ」
◇
ジンたちが荷駄隊に合流して六日、ファルハナを出発して十五日目にアンダロス王国とサワント公国の国境に達した。
サワント公国やスカリオン公国などは辺境公国群と呼ばれ、もともとアンダロス王国の一部だったのが、あまりにも王都から遠い上に、地政学上、ラスター帝国との緩衝地帯になるということで、五十年ほど前に時のアンダロス王が自治権を与えて独立した。公国、と呼ばれるのはそのころの名残である。
そんな事情もあって、アンダロス王国との国境での入国管理はさほど厳しくない。もっと言えば、アンダロス王国のとの交易がなければ困るのは公国側であったのだから。
そう言った経済的事情についていえば、津波で事情は変わった。事情は変わったが、移民団がサワント公国に到着した時には、津波からまだそれほど日が経っていないこともあって、まだ国境の警備は甘いままだった。ラオ男爵から渡されたサワント公王に宛てた手紙を出す必要すらなく、入国できた。
〈移民団〉はグプタ村の生き残りを合わせて、六十五人に増えていたが、ラオ男爵から託された予算も潤沢だったし、一度アンダロスの辺境を離れて、人里に出ると旅はむしろ楽になった。
サワント公国に入って、最初の街はルッケルトという街だった。ここはサワント公国においては二番目に大きい都市で、規模的にはファルハナより少し小さかったが、人口は四万人とファルハナの倍はいる。
国境沿いに東のスカリオン公国に向かう道とサワント公国を北に縦断して、ラスター帝国に至る道に分岐するポイントにこの街はあった。
「ジン、なんだか津波とかノオルズ公爵軍とかなんにも関係のない街だね」
ニケは久しぶりに家族水入らずで、いや、家族ではないのだが、二年以上も一緒に過ごしたもう家族と言ってもいい二人と一匹で久しぶりに賑やかな街の通りを歩きながら、屋台でなにかおいしいものなどないかと物色していた。
ジンはずっと殺伐とした危機に見舞われていた気がする。日本にいたときからそうだ。よくよく考えてみると、伏見奉行所に赴任した時は平穏だったが、それが、幕軍に奪われてからというもの、ずっと戦続きだった。伏見の戦い、グプタ村での防衛戦、フィンドレイとの戦い、そしてつい先日、またグプタ村の人々を守るために戦った。
(いや、待て、森の小屋、あの二年は平穏だった。なぜあそこを俺は出てきたのだろう?)
そんなことを考えながら、自然にジンの眉間にはしわが寄っていたのだろう。
「ジン? どうしたの?」
背の低いニケがジンを見上げて、訊いた。
「……ん? いや、うん、なんでもない」
「ジン、あれ、おいしそうじゃない?」
「ああ、ちょっとつまんでいくか?」
歩き食べは会津武士道からは外れるが、ジンもイスタニアのやり方に順応してきていた。
◇
お金を残してもどうしようもない。どうせ足りなくなったノオルズ公爵に接収されるのがおちだ。ラオ男爵はそう考えて、不自然にならない程度の財をラオ男爵家に残して、この移民たちにほとんどの財産を託した。託された予算は総額五十万ルーン。これがこの移民団の予算だった。その総額を信頼できる騎士、ファニングスが預かっている。ジンは未だに日当五〇〇ルーンを頂いていた。贅沢はしないが、多少の小銭遣いは問題なかった。
ニケもギリギリまでアラムにポーションを卸し続けたことで、それなりの貯蓄が出来ていた。どの世界でも身を助けるのは知識と技術である。
とまれ、二人は久しぶりに長閑な時間をルッケルトで過ごすことが出来た。贅沢ではないが、小ぎれいな宿で一泊できたのは旅の皆は嬉しかった。
ファニングスは新たに加わったグプタ村の皆から持てる財産のすべてを徴収した。誰一人としてこのルッケルトで一泊を過ごせる現金を持ち合わせてはいなかったが、それでもこれはけじめであった。全員安全な宿で泊まらせる。予算は五十万ルーンあるとはいえ、無限ではない。六十五人を一度に泊める宿は当然見つからなかったので、皆分散して泊まったが、一泊一〇〇ルーンを超える宿では、一〇〇ルーンを超える分についてはファニングが支払った。もちろん、グプタ村の連中のように文無しの連中に対しては、一度すべてのお金を取り上げた後、全額を負担した。
こうして、移民団のみんなは思い思いの一夜をルッケルトで過ごすと、申し合わせた翌朝七つに門の前に集合した。
ジンは朝七つ、門前に集合すると、ノーラの泣き出しそうなあの顔を思い出した。思い出して、今すぐファルハナに帰って、彼女を連れてきたいと思ってしまっていた。そんな自らの思いをよそに、ニケに語り掛けた。
「なあ、ニケ、ファルハナは大丈夫だろうか?」
「ジン、ファルハナじゃなくて、ノーラさんでしょ?」
「……ああ、そうだな。〈宵闇の鹿〉のみんなやカーラも気になるが、誰よりラオ様がどうしているか心配だ」
「ノーラさんは賢いから大丈夫だよ」
「そうだな」
◇
ルッケルト政庁では、サワント公国の公王、エバルレと執務官がいた。
「ラオ家の娘の家臣どもが来ているらしいな」
「はい、陛下、我が物顔で国境を越えて来たとのことです」
「ふん。あ奴らは未だにこの公国がアンダロスの属国でもあるかのように思っておるのかもな」
「忌々しいことです。ですが、陛下は彼らを放置しておられます。政庁に招くなり、晩さん会を催すなり、あるいは国境で入国を拒否するなり、何らかの対応をなされるかと思っておりましたが」
「無視も一つの政治だよ、アンドリース。我々は今回の王国受難について、一切の関与をしない。売れと言われれば食料などは売ってやってもよいが、しっかり代金はいただく。そんな対応でいいではないか」
「陛下、恨みを買ったりいたしませぬか?」
「アンドリース、お前は甘い奴だな。需要と供給の問題だよ。南では食料の需要が極端に高くなっている。供給できる国はサワントとスカリオンぐらいだろう。バハティアからの輸送にはあまりにも時間と金がかかる。アンダロス北東部には津波の被害がなかったが、そこからの生産量だけでは遠からずアンダロスは食糧危機に陥る。と、なれば、今年、豊作で値崩れが起こりがちな穀物でサワントは大きく稼ぐことができるではないか」
アンドリースと呼ばれたこの執務官はもちろんそんなことは分かっていたが、公王を持ち上げた。
「陛下のお考え、誠に勉強になりまする」
「ふん。それで、奴らの動きは」
「今の時点では特に食料買い付けの動きなどございません」
「市中の価格はまだ十分に上がっておらん。大量買い付けは阻止せよ。いいな。津波の影響が行き渡れば食料品価格は倍ではきかぬほどに値上がりするはずだ。それまで市中の食料品の大量流出を阻止するんだ」
◇
ファニングスはこの街に着いてからずっと二人組に後をつけられているのに気が付いていた。殺意などは感じないので、単に情報集めだろうとは思っていたが、彼らはラオ男爵から受けた食料買い付けの任務の邪魔になっていた。
ファニングスはマイルズが泊まる宿に来ると、マイルズを探した。マイルズに買い付けを行わせようと考えたのだ。マイルズにはサワント公国で食料の買い付けをやって、ファルハナに運び込む計画をすでに話してあった。自分自身にマークがここまで厳しくては、マイルズに動いてもらった方がスムーズだ。
マイルズはすぐに見つかった。宿に併設してある酒場でエールをあおりながら、街の人たちと談笑していたのだ。
彼は実にこういう社交がうまい。ファニングスはそんなことを考えながら、しばらく様子を窺っていると、マイルズがファニングスの存在に気づいた。
「ファニングス殿! そんなところに突っ立ってないで、こっちにきたらどうです?」
「マイルズ、良い身分じゃないか?」
「それ、言います? まあ、いいです。ファニングス殿も一杯、飲んでいきましょうよ」
ファニングスは自分を合流させようとするマイルズの意図に気が付いた。
(なるほど、情報集めか。確かに酒場はそれには最高だな)
ファニングスはそう考えて、マイルズと街の人たちが囲む立ち飲み用のハイテーブルに向かった。さすがにつけてきている二人組は酒場の中にまで入ってこない。
「ファニングス殿、このレディはサンディ。街一番の別嬪さんだ」
「サンディ。ファニングスです。以後、お見知りおきを」
きれいに挨拶をするファニングスを見て、マイルズは軽く苦笑した。
「もお、マイルズったら、やめてよね」
サンディと呼ばれた十代後半か二十代前半に見える女性はまんざらでもない様子だった。
「で、この強そうな剣士がトムソン」
マイルズは、こうやって、賛辞を加えながら、マイルズと一緒にエールをあおる街の人たちをファニングスに紹介していく。普通の人がやれば不自然になって、むしろ嫌味に聞こえそうなこともマイルズがやれば、みんな笑顔になる。
「それに……最後になったけど、最高の男、ギューネを紹介するよ」
そう呼ばれた男も嬉しそうだ。ファニングスはいちいち頷くだけだったが、皆、楽しそうに微笑んでいる。マイルズの人たらしはちゃんと機能しているようだ。
「トムソンは俺と同じ冒険者だって。キバイノシシを狩りまくる天才。最近、食料の値段が高騰して、キバイノシシ一頭を狩って得られるお金が一・五倍ほども増しているのに、この街のギルドは相変わらず決められた値段でしか買い取ってくれないらしくって、最近はもっぱら商人と直接取引をしているらしいよ」
ファニングスとの会話だけを長々と続けて周りを不愉快にさせることを、マイルズは誉め言葉を巧みに会話に挟んで防いでいた。それに、今、話した内容は正にファルハナのための食料買い付けに直結する話だった。それでも、マイルズが話すと、そこに秘密や打算の影は一切見えない。
「ああ、それはひどいな。物価が上がっているなら、買取値もちゃんと上がらないと冒険者は食っていけないだろう」
ファニングスもマイルズに話を合わせた。マイルズはここぞとばかりに本題に斬り込んだ。
「俺も狩りをやるんだがな。その一・五倍ほどで買い取ってくれる商人ってのを紹介してくれないか?」
トムソンはこの会話に一切の不信感を持っていない。
「ああ、それだったら、紹介もなんもねぇよ。そこの食料品屋だよ。フリーデル商会って店さ。行って、『取引がある』っていえば話が進むはずさ」
◇
ファニングスはマイルズに耳打ちした。
「マイルズ、俺は付けられている。なにが狙いかはわからんが、店にはお前が行ってくれ。俺は今出て、奴らを引き連れて、適当に買い食いでもしてくるよ」
「分かった。任せてくれ」
一緒にテーブルを囲んでいた街の人たちは一瞬怪訝な顔をした。
「いや、ちょっと野暮用で、ファニングスは戻らないといけないらしい。俺はもう少しエールを楽しむよ」
マイルズがそう言うと、街の人たちは口々にファニングスに別れを告げた。
半ティックほど酒場で過ごして、マイルズも席を立つと、最後にフリーデル商会の場所を聞いて、酒場を出た。
◇
フリーデル商会は大店だった。店先には食料品の小売りはしているが、それほど種類も量も多くない。ざっと価格を見てみると、津波前のファルハナの価格からすると四割増し程度だった。
マイルズは商品が陳列してある棚を素通りして奥に入ると、店員らしき人物を見つけ、話しかけた。
「取引がある」
と、それだけを告げた。
「ああ、売る方かい? 買う方かい?」
「買う方だな」
「奥に進んでくれ。『総支配人室』という札のある部屋に入って少し待っていてくれないか」
「ああ、わかった」
マイルズは奥に進むと、二つほどの部屋を通り過ぎて、『総支配人室』という扉を見つけた。ノックしたが反応はない。
(入って待て、って話だったな)
そう思い出して、扉を開けると無人の部屋に入って行った。
部屋には明るい出窓があり、一切の虚飾を取り去った、きわめて合理的な執務室があった。応接テーブルらしきテーブルがあったので、そこに座って待つことにした。
しばらくすると、先ほどの店員が入って来た。
「待たせたかな?」
「いや、大したことはない」
「申し遅れたが、この商会の総支配人、フリーデルだ」
大店のくせに、商店名を持つこの総支配人が店子をやっていたことにマイルズはまず驚いた。
「店先に出ないとわからないことも多いのでね。使用人にたまには暇をやって、自分が店先に立つことにしているのさ」
マイルズの驚きの理由を、彼が何も言わないうちからフリーデルと名乗ったこと商人は言い当てた。
「で、買う方だって?」
「ああ、芋をな」
「ほう、芋か。量は?」
「四〇〇ラッグ」
【一ラッグはおよそ一トン】
フリーデルはしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「お前さんは馬鹿かね」
「多すぎるか?」
「ああ、うちの年間総取引が一〇〇ラグもいかない。今扱える芋は五〇ラグが限界だ」
「では、麦ならどうだ?」
「麦は一〇〇ラグならどうにかなる」
「では、その両方でいくらだ?」
「芋は一ラグ、一〇〇〇ルーン、麦は今年は豊作だったから一ラグ、四〇〇ルーンってところだが、この価格では売れない」
ああ、やはり商人は情報が早いからな、とマイルズは思ったが、一応理由を訊くことにした。
「どうしてだ?」
「津波の話は知っているだろう? 相場に先高感があるからさ」
「いくらなら売る?」
「芋は一ラグ、一六〇〇ルーン。麦は八〇〇ってところだな」
(芋は現在の相場の一・六倍、麦は二倍ってところか)
「すると、合計は十六万ルーンってところか」
「ああ、そうだな」
「二十万ルーン出そう。それを冬が来るまでにラオ男爵家代官領に運び入れてほしい」
(やはり、アンダロスの貴族か)
フリーデルはそう思ったが口には出さない。
「四万ルーン上乗せとは剛毅だな」
(今後の穀物の需給関係を察して、もしかすると損なことにならないか計算している顔だったから、思わず通常売値の倍を出すってオファーしちまったが、これはあとでファニングスに怒られるかもな)
マイルズはそう思ったが、なんとしてもファルハナに食料を届けたかった。
「それくらいはかかるだろう。支払いや手はずについては〈ノームの宿〉にいるファニングスという男としてくれ」
「いいだろう」
そういうと、売買契約成立の簡易的な証しとして、フリーデルは立ち上がるとマイルズに握手を求めた。マイルズもそれに応えて、しっかりと彼の手を握り返した。
マイルズの考えていたことはフリーデルももちろん考えていたが、フリーデルはこれは悪くない取引だと考えた。食料価格の高騰はサワント公国の人々の生活に悪い影響を与える。単純な需給関係で言えば、穀物価格は三倍の値がついてもおかしくないが、これだと市民が生活できない。遠からず、サワント公国政庁からお達しがあるはずだとフリーデルは読んでいた。
そのお達しとは、ちょうど今、政庁で作成していた、〈食料品の市中価格の統制兼外国への輸出禁止令〉だった。
フリーデルはまんまと仕入れ値の三倍ほどで大量の穀物在庫を売り抜けたのだ。