83. さよなら、ファルハナ【簡略マップあり】
ジンもニケも大急ぎで支度を整えなければいけなかった。ジンはラオ男爵の最終判断が下されてすぐにミニエー銃の開発に携わったヤダフやモレノ、それにモックアップの製作をしたベントンなどに内容を触れて回った。
ジンは工房持ちたちにそれを捨てて、ついてこいと言わなければならないことを気に病んでいたが、皆の反応は予想に反して軽かった。
「ああ、わかった。俺は弟子や見習いにどうするか聞いておく」とヤダフ。
「ラオ男爵が決めたことなら否やはあるまい。職人どもには強制だと言っておくよ」とモレノ。
「そうかそうか、それは大変だ。家族に早速準備をさせないとね」とベントン。
考えてみれば、この人たちが今、大きくやりがいのある仕事にありつけているのはラオ男爵あってのことだ。その男爵はノオルズ公爵が到着したら、ファルハナの実権を公爵に渡すという。実権を渡しても、鉄砲の技術をノオルズ公爵に渡さない、ということはファルハナにいてもその製造に携われなくなるのだから、街を出る、という判断は容易だった。
しかし、これは非常な大所帯になる。単身赴任をするわけではない。家族ともども移住するのだ。家族を残して行けば、鉄砲のことがノオルズ公爵に漏れたときに人質にすらなりかねないのだ。
◇
ニケは自分の身の回りの用意が終えると、ツツを伴って、〈レディカーラの瀟洒な別荘〉に行くと、カーラにお別れの挨拶をしに行った。長いようで、ファルハナにいたのはたったの二ケ月だったが、良くしてくれたカーラにはお礼を言いたかった。
「カーラ、いろいろとありがとう」
カーラは照れて、まっすぐに見つめてくるニケから目をそらした。
「儂はそういうのは苦手なんだ。勘弁しとくれよ。……ファルハナを出ても元気で過ごすんだよ。ツツに無茶をさせるんじゃないよ」
ツツはカーラが自分の話をしたことに気が付いて、カーラの頬を大きくひとなめすると、カーラのそばに行って、お尻を向けて座った。狼が示す親愛と信頼の情の証しだ。
「ツツや、お前は可愛い奴だねぇ。元気で過ごすんだよ」
カーラはそう言うと、自分の顔の高さほどもある、ツツの頭を撫でた。
◇
ニケがその次に向かったのはアラムのお店だった。
「こんにちは、ニケさん」
ニケが玄関扉をくぐると、アラムは笑顔でニケを迎え入れた。
「アラムさん、お別れのあいさつに来ました」
アラムは笑顔を驚きの顔に変えた。
「おやおや、街を去ってしまうのかい?」
「ええ、北に向かいます」
「ここから北と言えば、外国かい?」
ニケはアラムを信頼している。
「ええ、スカリオン公国のオーサークに向かいます」
「オーサーク! ああ、なるほど、鉄砲ですね」
アラムは鉄砲の技術移転についての顛末は何も知らなかったが、津波のことや軍勢が押し寄せる話は知っていたし、オーサークが鉱山街であることは知っていた。情報と情報を繋げば自然と答えが出てきた。
「うん、でも、これは内緒の話です」
「うんうん。大丈夫だよ。それに、今すぐは無理だろうけど、私もファルハナが息苦しくなったら、オーサークに行きますよ。だからニケさん、また再会しましょう! それに、私たちはパートナーでしょう?」
「うん、そうだね。先に行って、アラムさんが来るのを待ってるね」
◇
オーサークはファルハナから見れば北東の果てだ。ダロスほどは遠くはないが、六〇〇ノルほどの道のりだ。大人数の荷駄隊では二カ月以上はかかるだろう。
職人たちは、使い慣れた道具類を除いて、とにかく換金できるものを換金して回った。荷駄の馬車は領主館が用意してくれると聞いている。これまでに製造した一〇〇丁を超える全ての鉄砲とそれに相応しい数の弾薬を積む荷馬車が必要だったし、街を出る人々の負担を少しでも軽くしたかったので、ラオ男爵はドゥアルテに急いで荷馬車と馬を街中からかき集めて用意させた。
食料と水も街道沿いの宿場街で何とかなるので必要なのはお金だったが、辺境のファルハナを出て十数日は宿場街もないので、一定の食料は必要になる。水は重いので、現地調達しなければいけない。
「うむ。大方用意は整ったのではないか、ドゥアルテ?」
「ラオ様、正直分かりません。職人たちが連れてくる家族の数が読めませんので」
「一〇〇人分の荷駄隊だ。何とかなるであろ」
出発の日の前夜、領主館の中庭に並ぶ荷馬車は一〇台、馬も厩舎に三十頭をそろえた。ドゥアルテとラオ男爵は並んで立って、荷馬車を眺めている。
スカリオン公国の新造の港町、パーネルに居所を移したフィルポット一世に当てた手紙や、道中、通過することになるサワント公国に当てた手紙もすでに用意してある。
スカリオン公国に当てた手紙の内容は、簡単に言えば、交換条件である。この移民団を受け入れろ、その代わり帝国から身を護るための新兵器の技術を供与する、という内容だ。前もってこの条件をフィルポット一世が飲むかどうか、交渉の使者を送ったりして確認できていれば言うことはなかったが、そんな時間はなかった。ぶっつけ本番でいきなり移民団を送ることになったが、ラオ男爵は受け入れるはずだ、と自信を持っていた。
それはラオ家が持つ債権、それに新兵器、今回はその概念だけでなく、実銃が一〇〇丁以上もあるのだ。受け入れないわけがない。
ドゥアルテと共にそんな話をしながら、ここに残る上での今後の身の振り方も申し合わせた。
「ドゥアルテ。私たちはここに残るわけだが、ノオルズ公爵に領主館を譲った後、どうする?」
「一切の政務をノオルズ公爵に引渡し、私たちは一度、旧ラオ男爵家代官領に引っ越しましょう。そうなれば今やラオ様に忠誠を誓うバルタザールやエディスなんかも付いてくるというかもしれませんが」
ラオ男爵は一瞬考えた後、話し始めた。
「あまり大所帯でファルハナを引き払えば、ノオルズ公爵に目を付けられてしまうな。かと言って、仕えたくもない公爵に仕えろ、というのも難しい話だ」
「ええ、ラオ様、その辺りは私が先に連中に話しておきます。目立たぬように、ファルハナを出て、代官領を目指せ、と。代官領に行けば畑仕事と狩りくらいしか仕事がありませんが、それもいいでしょう」
◇
いよいよ明朝出発だが、ジンはなかなか寝付けなかった。
ニケはツツと共に、寝ている。深夜である朝一つごろになった時、迎賓館に来客があった。
ツツはすぐに目覚めて、玄関に誰が来たのか確認に行ったが、顔見知りだとわかるとすぐにニケの寝床に戻って行った。
来客はラオ男爵だった。
「ジン、遅くにすまないな」
「ラオ様、こんな時間に、どうされましたか?」
開け放たれた入り口の扉を挟んで会話するジンとラオ男爵。
「少し、いいか?」
「え、ええ、どうぞおあがりください」
迎賓館の来客応接室に、客である方のラオ男爵が案内した。ジンはまだこの迎賓館のすべての部屋を知っているわけではなかった。
「こんな部屋があったのですね」
「なんだ、ジン、ここに住みだしてしばらくするというのに、そんなことも知らなかったのか?」
「まず、使うことのない部屋でしたので」
「まあ、座れ」
ラオ男爵に促されて、ジンは座った。客と出迎える側が逆転している。
「話したいのは、これからのことだ。明朝の出発時には難しい話はできないからな」
ジンは黙って頷き、ラオ男爵の話の続きを促した。
「ノオルズ公爵はここを腰掛け程度にしか考えていないだろう。二千人の兵を一時的にこの街で養って、体制を整えたら、東の大きな港町イルマスあたりに遷都するだろう。ファルハナは彼らの栄養分になるだけだ。ファルハナは王国を支配するには都としては小さすぎる」
「ラオ様、先日の話では、この冬を超えるだけの食料はない、と聞きました。どうやって新たに来る二千人もの兵を養うのでしょうか?」
「ファルハナの人口は二万人、これが二万二千になる。食料備蓄が一万八千人分。一人当たりの消費する食料は二割ほど減らさなければならない。実際は明日以降にやって来る兵どもは遠慮せずに食うだろうから、もっと割り当ては厳しくなるだろう」
「で、拙者に何を?」
「ジン、食料のことは不安だが、大丈夫だ。ファニングスに頼んだ。途中、サワント公国で買い付けを行う。お前には別のことがある。オーサークまでの旅は厳しいものになるだろう。これから寒さは厳しくなる。二ケ月はかかるだろう。それに到着するころには真冬になっている。皆を守ってほしいのだ」
「それは、もちろん、そのつもりでいます」
ジンは何を改めてこんなことを言いに来たのかと思った。しかし、ラオ男爵の真意は違っていた。
「本当は私のそばにいて、私を守ってほしいのだがな。お前には守るべきニケがいるから、ニケがここに残れない限り、お前は行くしかない」
ラオ男爵はジンに一緒にいてほしかったのだ。だが、それが出来ないのを彼女が一番わかっていた。
「なら、ラオ様、一緒に行きましょう!」
ジンは思わず言ってしまっていた。出来るわけないことも分かっているのに。ラオ男爵がファルハナの民を置いて、皆と一緒に脱出すれば、ノオルズ公爵には叛意ありとみられるだろう。彼らをちゃんと出迎えて、政庁の引継ぎを行った後、旧代官領の屋敷周りの支配権のみを認めてもらって、隠遁する、というシナリオしかないのだ。
「ジン、そう言ってくれただけで、今日は来たかいがあった」
ジンはここまでファルハナに全てをささげてきたラオ男爵が、これまでファルハナに見向きもしなかった〈正当な領主〉であるノオルズ公爵がすべてを自儘に出来ることがどうにも納得できなかった。
「……ラオ様、無理、なのですか?」
「ああ、無理だな。慕うファルハナの民を連れて、他国に逃げたとあれば、何かあると見て追撃をかけるというものだ。ジン、もう夜も更けてきた。私は寝所に戻る」
「ええ、そうしてください。明日も早いですから」
「ああ、お休み、ジン」
「お休みなさいませ、ラオ様」
そう、挨拶をしたジンに向かい合ったまま、なかなか席を立たないラオ男爵。
「どうされましたか?」
「ジン、最後にノーラ、と呼んでほしい」
ジンは自分の心臓がドキッと撥ねたのを感じた。
「最後に、ですか?」
「ああ、もうこれが今生の別れになる気がしている」
ラオ男爵にはそんな予感があった。フィンドレイ将軍にとって彼女が目障りだった理由は、ノオルズ公爵にとっても同じだ。彼がファルハナの民が慕う彼女をこのままにしておくわけがない。幽閉、投獄、謀殺、彼女を民から引き離す方法はいくらだってあるのだ。
「ノーラ、そうはならない。俺が必ず、戻ってくる」
ラオ男爵が立ち上がると、ジンも立ち上がった。二人は近づいて、抱擁を交わした。