82. ラオ男爵の計画
ラオ男爵は、いや、ラオ家はファルハナの北東に位置する辺境公国群の一国であるスカリオン公国に多大な債権があった。
ラスター帝国、スカリオン公国、それにアンダロス王国の間に入り込むイスタニア湾は冬は凍ってしまい、船は使えないが、春、夏、秋の間は交易が盛んな海であった。
スカリオン公国はイスタニア湾に漁港はいくつか持っていたが、交易のハブとなるような港町は持っていなかった。公国としては何としてでもイスタニアに誇れるようなハブとなる港町が領内に必要だった。
ラスター帝国の力が増すと、帝国とアンダロス王国の交易が盛んになってきた。スカリオン公国はそれをただ指をくわえて見ていたが、先代公王ガルベス二世は先代ラオ男爵であるノーラの父に頭を下げると彼から大きな投資を引き出すことに成功した。すると他の豪商たちもノーラの父、ガネッシュに右に倣えでこの案件に投資した。そうして得た巨額の資金をかけて自国領内にある湾口の漁村を貿易港に作り替えた。それがパーネルの港だ。
ガルベス二世の子、現公王フィルポット一世はその恩もあってラオ男爵家には何かと便宜を図ってくれている。ガネッシュは特段恩を着せた気もなく、この投資は絶対にリターンがあると思って行ったことだったが、フィルポット一世から見れば公国再興に手を貸してくれた、自分の父親の友であるガネッシュには頭が上がらなかった。
ノーラ・アンドレア・ラオ、つまり現ラオ男爵は、自身の父親が持つ債権を今こそ利用しようと思ったわけだ。
彼女の考えた計画はミニエー銃の製造技術、それが持つ武力をすべて信頼できるフィルポット一世に譲ろうということだった。
ドゥアルテとナッシュマンはラオ男爵と共にファルハナに残る。残って、ノオルズ公爵に対して恭順を示す。
まだファルハナに向かう道中にあるシャヒード、それに今ラオ男爵と共にいるファニングスはジン、マイルズ、それに触媒液の機密を持つ最重要人物であるニケと共にファルハナを去る。鍛冶屋街でも今回の鉄砲製造計画に主だってかかわった人たちも一緒だ。
それが可能と考えられるのはスカリオン公国の第二の都市、オーサークがファルハナに似た鉱山を持っており、それに付随する形で大きな鍛冶屋街を持っていたからだ。さらにオーサークはパーネルにもほど近い。
ラオ男爵の計画の神髄は、つまり、オーサークを事実上滅んだと言ってもよいアンダロス王国の亡霊からイスタニアの人々を守るための拠点にする。そのために必要なミニエー銃の技術者や開発に携わった中心人物たちをそこに移転する、ということだった。
問題としては、この〈技術移民団〉に自分自身もついて行ったとなれば、スカリオン公国は、その亡霊の最初の攻撃目標になってしまう、と言うことだった。自分やドゥアルテ、それにナッシュマンが残れば、よもやノオルズ公爵も叛意があるとは思わないだろう。
情勢を俯瞰で見たとき、ラオ男爵にはこれ以上もこれ以下の計画も思いつかなかった。ただ、心残りは自分が守るべきファルハナの民をノオルズ公爵の暴虐にさらしてしまうかもしれないことだった。しかし、この計画以外にいったい何が出来るというのか? 民を扇動してノオルズ公爵軍と戦うとすれば多くの命が失われるだろう。逃げるにしても、二万人近くの人々をこのファルハナから脱出することなど不可能なのだ。
ならば、捲土重来を期して、ミニエー銃の技術をオーサークに移転し、いつの日かファルハナを解放するしかないではないか。あるいは、願わくば、ノオルズ公爵がファルハナに、アンダロス王国に、善政を布いてくれれば、ミニエー銃のオーサークへの技術移転など無駄に終わってくれるはずだ。無駄にミニエー銃の技術という脅威を他国に譲り渡すことになってしまうが、その方がよっぽどいい。
だが、ラウフ兵の皆殺しの件を聞く限り、この計画はノオルズ公爵の支配からファルハナを、しいてはアンダロス王国全体の人々を守ることになるはず、と考えるのだ。
◇
翌朝になってジンとマイルズはラオ男爵の計画を聞いた。
聞いて、最初に感じたことは大恩のあるラオ男爵をファルハナに残して行っていいのか? ということだった。しかし、これはラオ男爵自身が判断したことなのだ。シャヒードが南に向かう途中でジンに確認していたこと、つまり、ラオ男爵の判断がどうであれ、自分は従うのだ、ということがまさにここで試されていた。
「……それがラオ様のご判断であれば、拙者はただ従うのみです。ただ、拙者の懸念を今言ってもよいでしょうか?」
「ならぬ。と、言っても言うのであろ。なら申せ」
「ラオ様は今、ノオルズ公爵に恭順を示す、とおっしゃられた。そして、実際は鉄砲の存在や技術を公爵に秘匿し、それを他国に移転する、と言われた。しかし、ファルハナの民の多くはその存在を知っております。人の口には戸が立てられません。そのことがノオルズ公爵に知れるのに、さほど時間はかからないでしょう。知れたとき、彼はラオ様の真意を疑うはずでしょう。そうなれば、拙者は、ラオ様の騎士たちはどのようにしてあなたをお守りすればよいのでしょうか?」
「のう、ジン、ことここに至って、お前は何が一番大切なものと考えておる?」
ジンはそう問われて、答えに窮してしまった。正直、何が一番大切なのか分からなくなってきていた。会津に帰らなければならない。ニケを守らなければならない。ファルハナの民を守らなければならない。そして、ラオ男爵、彼女を絶対に守らなければならない。
「……拙者はラオ様に生きていてほしいと思っております」
「私も死にたくはない。だが、ジン。それよりも大切なことがあろう? 民の安寧だ」
昔の会津の名家老であった田中三郎兵衛正玄が〈君を正し士を撫で民を恵むに在るのみ〉と言葉を残したように国の根幹が荒れたとき、それを正して、民を守ることこそが会津武士道ではなかったのか? 会津侍として教育を受けてきたはずのジンは今、異世界のこの女性貴族にそれを再教育されていた。
◇
「ラオ様、遅くなりましたが、復命いたしました」
「シャヒード、よく戻った。お前の話を聞く前に、こちらの認識を話しておく。シャヒードの理解や情報からズレておれば指摘してくれ」
シャヒードはスィニード、ロッティ、ファウラー、それにチャゴとカルデナスを伴ってマイルズに遅れること四日でファルハナに到着した。ラオ男爵はこれまでの経緯、それに対する判断と行動計画をシャヒードに説明した。
「ラオ様、このシャヒード、命とあらば従います。ただ、わがままを言わせてください」
「ははは、シャヒード、この期に及んで、面白いことを言うではないか」
「いいえ、ラオ様、面白くも何ともありません。申し上げた通り、ラオ様の計画には従います。ただ、ことが計画通り運んだあとは、私に自由をください」
「お前の自由とはなんだ?」
「ラオ様の騎士としての働きです」
「お前は十分果たしておるぞ?」
「ありがとうございます。ただ、この命に従うことで、騎士としての務めを放棄することになります。命を果たした後、本来の騎士の務めに戻りとうございます」
ラオ男爵にはシャヒードの言わんとすることは十分に理解できた。彼は騎士としての一番大切な役目である、自分を守る仕事を放棄して、鉄砲の技術を移転するためにラオ男爵から離れることを命じられた。そして、それを完遂したのちは本来の役目である自分を守る騎士に戻る、と言っているのだ。
ラオ男爵は嬉しかった。けれども事態はそんな感情に判断をゆだねられる状況ではない。ファルハナの民、いや、アンダロス王国、しいてはイスタニアの民を守るための最良の動きをするためにはシャヒードの騎士精神に優先順位を与えるわけにはいかないのだ。だから、ラオ男爵はそれにそっけない答えを返した。
「ふむ。わかった。好きにしろ」
こうして、ファルハナの幹部全員に計画が告げられた。
ノオルズ公爵軍がファルハナに到着するのは早くて二日、遅くとも四日か五日くらいしか時間がない。
幹部たちはそれぞれの役目を果たすために動き始めるのだった。