81. 決断するラオ男爵
マイルズが領主館で報告しているとき、すぐそばの迎賓館ではジン、ニケ、ツツ、それにマルティナが食事を囲んでいた。
すべて、ニケが用意したものだ。ツツはテーブルのすぐ下にある皿から生の猪肉をいただいていた。
マルティナは猪肉を頬張りながら、言う。
「あんははひ、まいにひひひにふ?」
ジンは素早くツッコミを入れた。
「マルティナ、口にものを入れながらしゃべるな、と親に教わらなかったのか?」
マルティナはもぐもぐと咀嚼し、それからごっくんと飲み込んでから、述べた。
「親なんか、知らないよ。私は四歳の時に王城に売られたからね。魔力の才能が異常に高かったらしく、親は喜んで私を王城に売ったらしいよ。よく覚えてないけど」
日本でも人身売買はあった。それでも国権の最高峰たる幕府が人買いなど行うはずもなかった。そんなことがまかり通るのがこのアンダロス王国と言う国なのかもしれない。ジンは眉間にしわを寄せて、マルティナに同情を示した。
「俺は申し訳ない話をしてしまったな」
マルティナは一瞬、ジンが何に対して申し訳ないと思っているのかよくわからなかった。
「ん? ああ、そういうことね。やめてよ、ジン、私なんとも思っていないんだから。親の顔も思い出せないほどなんだから」
ニケは猪肉を咀嚼しながら、黙って二人の会話を聞いていたが、ここで口を開いた。
「マルティナさんの故郷はどこ?」
「故郷? さあ、どこだろ? 考えたこともないけど、王宮魔導士見習いでチヤホヤされている間は王城が楽しかったなぁ。だから、あえて言うなら王城かな?」
ニケは一瞬、間をおいて、また問いかけた。
「その王城はもうないんだよね?」
「うん。津波がきれいに押し流したよ」
「……普通、故郷を失った人は、そんな風には言わないよ」
ジンは、ニケがマルティナと話し始めると猪肉を咀嚼しながら黙っていたが、咀嚼を続けるわけには行かなくなった。
「ニケ、やめろ」
ジンの思いとは裏腹に、マルティナは、いったい何に対して、ジンが急に真剣になってニケを諫めたのかすら分からなかった。ただ、少なくとも自分が傷つかないようにニケを黙らせたのは分かった。
ニケはただ、頷いた。マルティナは何か面倒くさい、それでもって、自分を気遣う空気、そんな沈黙に耐えられなかった。
「いやだなぁ、ジンもニケも。私、なんも考えてないよ? 故郷があってもなくても、私、面白おかしく生きてるじゃない?」
ジンはこの子には何かが欠落していると思わざるを得なかった。ジンなど、少しでも会津のことを思い出すと胸が痛む。ニケだってそうだ。アスカを思い出すと、今すぐこんな〈役目〉など忘れて帰りたいと思うのだ。もっと言えば、ジンもニケも、ほんの数カ月前までいた森の小屋を思い出すだけでも泣きそうになってしまう。
「そうか、マルティナ、このファルハナがお前の新しい故郷になるといいな」
マルティナはジンが言っていることはわかるが、何を言わんとしているかはまったく理解できなかった。
「ん?」
「いや、いい」
そんなタイミングでマイルズが迎賓館に駆けこんできた。
「「「マイルズ!」」」
三人揃って、マイルズの名を呼ぶと、ツツが飛び上がって喜び、部屋中をぐるぐる駆け回った後に、巨体でもってマイルズに体当たりした。うれしすぎたようだ。
マイルズは軽く吹き飛ばされつつも、ツツを受け止めてから床に転がると、ツツの餌食になった。ツツに顔中嘗め回されて、マイルズは、うひひひひ、と笑ったが、急に大切なことを思い出したように立ち上がった。
ツツはこういうところは大人だ。マイルズが真剣になったとたん、じゃれつくのをやめた。
「ジン、ニケ、それにマルティナ、今しがた帰ってきてラオ様に報告してきたところだ。かなり不味い状況だ。それをまず言っておく」
「不味い?」
「ああ、不味いな。不味さで言えば、ラオ様の最悪のシナリオになった。来るのは軍だ。軍人が混ざってる、なんて話じゃない。二千人の軍隊がやって来る。この街に向かってな」
◇
ラオ男爵は執務机の椅子に深く腰を掛け、眉間にしわを寄せていた。端正な顔が苦悩に歪んでいる。
(ラングの話からすると、最初にくる集団が二千人ということであれば、壊滅的な食料不足は防げるが、ノオルズ公爵が率いるとなれば、殿下はきっとここに遷都する気に違いない。マイルズの話ぶりからすると、ラウフ兵が皆殺しにあったということは間違いなさそうだ。二千人と戦って退けるのは不可能だ。しかも彼らはこの国の皇太子の軍だ。退けたとして、この国は崩壊する。なら、どうする?)
そばにいるナッシュマンら騎士たちは無言で彼女の様子を見ている。
(近衛兵団……王の軍か。いっそ、旧バーケル辺境伯領を独立させて、お父様にでも王になってもらうか……いや、無理だな)
ラオ男爵には大きな懸念があった。いや、懸念と言えば、マイルズの情報のすべてが懸念だったが、その中でも『ラウフ兵皆殺し』のところが一番大きな懸念になっていた。
王国の経済的な礎である王都ダロスとその港を失った流浪の王国軍。彼らはこのファルハナに来て、何をするというのか。
「なぁ、ナッシュマン、まるでドーザ倒しではないか。生存域を失った王国軍がここに引っ越してくる。我々はすでに今いるファルハナの民がこの冬を越せるだけの食料もないことを知っているのに、その食料をあてに、王国軍はやって来る。言い換えれば、我々の生存域を奪いにやってくるのだ。我々はどうしたらいい?」
難しい顔をして黙り込んでいたラオ男爵が口を開くと、ナッシュマンにそう言った。
「お嬢様、儂は武人です。この命に代えてもお嬢様を、それにニケやこの街の人たちを守る、それ以上のことは分かりませぬ」
「お前ならそう言うとわかっていた。なぁファニングス、お前なら私の懸念が分かるか?」
急に話を振られたファニングスであったが、一瞬だけ間を置くと、話し始めた。
「ラオ様、ご懸念は鉄砲のことでありますまいか?」
「ああ、そうだ。あんなものを殿下に、いや、もう不敬もへったくれもないな、あの連中、と敢えて言うぞ、私は。あの連中が鉄砲を得たとき、この世はどうなる?」
ファニングスも同じことを心配していたので、このラオ男爵と騎士ファニングスの会話はまるで答え合わせ、あるいはコンセンサスの醸成、とでも呼べるものだった。
「〈政変〉後に、単に自ら、それに王都のみの安全を図り、王国全体の民を顧みない彼のやり方。あの者が治める王国に私は一切の忠誠を持ち合わせておりません。ラオ様、絶対に鉄砲を彼らに渡してはなりません」
ラオ男爵はファニングスのその言葉を待っていた。心には決めていたが、もしかするとこのような考えをするのは自分だけではないかとも思い、不安だったが、今ここでファニングスが自分の考えを代弁してくれた。
「我が意を得たり、ファニングス」
ラオ男爵はそう静かに言うと、一息入れて、この執務室にいる騎士たちに命じた。
「ラオ男爵家当主、ノーラ・アンドレア・ラオがその騎士たちに命じる。今から私が述べる計画を仔細漏らさず実行せよ」