74. オーガ
街道、というのはうまく出来ている。一日、二十ノル、頑張れば三十ノルというのが徒歩での限界距離だ。馬だと常歩で四十ノル、頑張れば六十ノルが限界だ。
そうすると、二十から三十ノルおきに宿場街、街がない場合は宿泊施設を持った村が存在する。騎馬は一つ飛ばしに進み、徒歩は宿場街ごとに一泊していくということになる。徒歩で一つ宿場街を飛ばしてしまうと、野営をするしかなくなるわけだ。
二人は、とりわけ、チャゴはもう野営をする体力は残っていなかった。避難民の先頭集団に対して、だいたい一日分以上の距離を引き離していたので、素直に宿場街で一泊ずつしながら、進んでいった。
二人が到着する宿場街はどこも彼らの情報を欲しがった。早馬の人たちからある程度情報を得てはいたが、避難民と一緒に歩いてきたカルデナスとチャゴの情報は貴重だった。
ターパを出て十六日、カルデナスは後ろをついてきているはずの避難民の数もずいぶん減っているだろうと予想していた。かわいそうな話だが、道中で野垂れ死ぬ避難民もいるだろうし、幸いにして途中の街で受け入れられる避難民もいるだろう。
それでも、まだまだ圧倒的な数が北に向かってきているだろうから、北の辺境の街ファルハナ、そのさらに北の名もなき村や集落、そこまで行けば受け入れられるはずだと計算していた。
ファルハナの南二〇〇ノルに達すると、歩く二人の左手、西側に深い森が見えてきた。二人はいよいよ辺境が近くなってきた、と感じていた。
まだ日は高かった。カルデナスは街道が森の近くを通る一帯を抜けてから昼食にしようと考えていた。
街道は谷になっており、二人の左手には崖とも呼べるほどの急な急斜面があって、その斜面を登り切ったところが〈魔の森のほとりの森〉の切れるところになっていた。森から見れば、その崖ともいえる斜面を境目に木々の繁殖が途絶えたところ、それが街道になっている。
右手はさほど急でもない丘で上がろうと思えば普通に徒歩でも上がって行けるような草地になっていた。
チャゴはもう二十日以上にも及ぶ徒歩の旅に疲れ果てていたのもあって、ただ、下を向いて、出来るだけ何も考えないようにそんな街道を歩いていた。すると、急にカルデナスの注意を促す声に、驚くまでもなくただ無気力に顔を上げた。
「おい、チャゴ! ありゃなんだ?」
「ん?」
街道の五〇〇ミノルほど先で、土煙を上げて、崖の上から十数人ほどの人影が滑り降りてきているのが見えた。
(ん? なんだありゃ?)
その集団は街道に降り立つと、すぐにこちらに向かって走って来る。
集団が、三〇〇ミノルほどにまで近づくと、カルデナスは遠近感がおかしいのに気が付いた。人にしては大きすぎるのだ。
「チャゴ、魔物だ! 逃げるぞ!」
近くに何の遮蔽物もなく、ただ街道が谷に沿って続くだけだ。カルデナスとチャゴは来た道を戻る形で南に向かって走り出した。
「チャゴ、急げ!」
「カルデナスさん、先、行って! 俺、脚がもう動かない」
チャゴは疲労のため、すばっしっこいはずの獣人なのに、脚がもつれてなかなか前に進まない。
カルデナスは走りながら、ぜいぜいと喘いでいるが、かろうじて、口に出した。
「馬鹿言うな!」
カルデナスはそう言うと、走りながら、チャゴをひょいと抱き上げた。考えがあった。南に戻れば、避難民たちがこっちに向かって歩いてきているはずだ。
何人かは自分たちのように先行している連中もいるに違いない。
そういう連中と合流すれば、魔物の目標も自分たち以外に逸れるかもしれない。そんな連中が都合よく北に向かってこのタイミングで歩いてきているという確証はもちろんない。しかし、逃げる方向は南しかないのだ。隠れるようなところはどこにも見当たらない。それしか望みは持てないではないか。
追いかけてくる魔物との距離はもう一〇〇ミノル以下になっていて、逃げるカルデナスにも、その魔物の顔が判別できるようになっていた。醜い鬼のような生き物だ。あれをオーガとかオグルとか呼ぶのだろう。
その時だった。
(ビンゴ!)
カルデナスは内心そう思った。こっちに、北に向かって、徒歩でやってくる人々を見つけたからだ。
(……だめだ)
たった四人だった。追いかけてくる魔物は少なくとも十体以上だ。それに距離はどんどん縮まって来る。魔物の走るスピードに疲れた自分たちの逃げ足が勝てるはずもない。
ああ、ここまでか、とカルデナスは諦めてしまった。と同時にチャゴに覆いかぶさる腕に力が入った。
(せめてチャゴだけでも助からないか)
諦めると、前にいる四人を犠牲にしてまで助かろうと思った自分に情けなくなると同時に、彼らに申し訳なくなった。
「来るなっ! 逃げろー! 魔物の集団だ!」
カルデナスは前からくる四人にそう叫ぶと、自分は抱えていたチャゴに覆いかぶさった。
すると、まだカルデナスたちから見れば前方、二〇〇ミノル以上先にいた四人の内の一人、若い、いや幼いと言ってもよいほどの女が叫んだ。
「そのまま動くな!」
チャゴに覆いかぶさり、うずくまるカルデナスの頭上を二本の矢が唸りを上げて通り過ぎる、もう五ミノルほどにまで迫っていた魔物の二体がドウっと音を立てて倒れた。
だが、まだまだ後ろからオーガはやってきている。
カルデナスは小さいチャゴに必死になって覆いかぶさり、せめてチャゴだけでも生き残らせなければ、と考えていた。考えながら、不思議だな、とも思った。チャゴはただ、航海を同じにした船員だ。家族でもなければ友達でもない。ただ、なぜかこの状況で一番守るべきものはチャゴの命と自然に思えたのだ。
ジジジジジジジジジ……
空気が震える音――そんなものがあるとしたら、だが――がした。カルデナスはチャゴに覆いかぶさりながら、顔だけ上げて、前を見た。二〇〇ミノルほど先にいる、今しがた『動くな!』と叫んだ幼い少女は濃紺のローブを纏い、杖のような棒状のものを天にかざしていた。
ただ、音が発生しているのは、少女がいる方向ではなく、カルデナスの後ろ、オーガの集団が向かってきている方向だ。
カルデナスは恐る恐る振り向いて、覚悟した。
背の丈三ミノルほどもあるオーガが丸太のような右腕をカルデナスに振りかざしていたからだった。
しかし、そのオーガの背後に突然バリバリと音を立てて空気を切り裂く放電現象が起きると、放電現象は一筋の光となって、一瞬でオーガの脳天に突き刺さった。
ドン!
と音がすると、腕を振り上げていたオーガだけでなく、カルデナスたちに近かった五体のオーガが同時に倒れ、肉の焦げた匂いが立ち上った。
矢も二本飛んできて、また二体が倒れた。うずくまりながら、カルデナスは倒れていくオーガたちではなく、前にいる四人の方向を見た。
すると、四人の内、一人、胸と頭だけ甲冑を着こんだ男がこちらに向かって走り始めた。カルデナスは訳が分からず、一瞬怯えたが、電撃魔法による攻撃、弓矢による攻撃、そして、いま走ってやって来る男、この状況を冷静に考えれば彼らは自分たちを助けようとしていることが理解できた。
しかし、オーガの集団はまだまだ残っていて、どんどん迫ってきている。カルデナスはチャゴに覆いかぶさりつつ、どうせ目を開いていたって何もできないんだからとばかりにそれを閉じた。