66. 斥候の依頼とジンの迷い
「シャヒード、ジン、それにマイルズ、そなたらに頼みがある」
今や定例となったバンケットルームでの朝の幹部会議でラオ男爵は開口一番そう言った。
「やはり、早馬で先乗りして、もしこの辺境に南から向かってくる集団があれば、それがなんなのかを確かめてきてほしいのだ」
シャヒードはずっとそれを訴えてきていたので、さもありなんといった顔をしていた。
ただ、ジンはニケをこの街において、自分だけ南に向かうのには抵抗があった。
マイルズは、もはやお給金が出ている限り何でもするよ的な心境にあったので、なんら問題はなかったが、空気の読めるマイルズはただ黙ってジンやシャヒードが何か言うのを待っていた。
ジンもシャヒードも何も言わなかったため、三人がただ黙っている状態にたまりかねて、ラオ男爵が口を開いた。
「いいか。軍が出てくるのと、難民が出てくるのでは対応が変わる。それを少しでも先に知ることはこの街にとっては必須のことなのだ」
ラオ男爵のこの言葉を聞いて、言わんこっちゃない、と思ったかどうか定かではないが、シャヒードがようやくその口を開いた。
「ラオ様、私単独の方が身軽で速やかに任務を果たして帰還できます。決してジンやマイルズを軽んじているわけではありませんが、ご一考ください」
「シャヒード、そなたの言うことはもっともだ。しかし、私は複数の人間の視点が欲しいのだ。決してそなたを信頼していないわけではない。ただ、その集団に出くわしたとき、その集団の本質を取らまえて、今後のファルハナが取るべき道について意見具申できる人間はそなただけではない。マイルズの視点は民草の視点になるだろう。ジンの視点は……」
まるでフィンドレイ軍との戦での汚名返上の為だけに動いていると取られてはかなわない。シャヒードは失礼とは思いながら、ラオ男爵の言葉を遮った。
「わかりました。ラオ様、これ以上わがままは申しません。私とて平民から騎士に取り上げられた者です。決して騎士としての視点に拘泥するつもりはありませんでしたが、ラオ様がマイルズやジンの視点が必要だ、とおっしゃるのならそこに反対はありませぬ」
「うむ。三人揃えば知恵も沸いて来ようと言うものだ。頼んだぞ」
ここでジンが初めて口を開いた。
「ラオ様、今、ラオ様にお仕えしながらこのようなことを申し上げるのをお許しください。ニケの安全について拙者は危惧をしております。いまや火薬の製法については彼女はそれを一手に握る存在です。私はニケを置いて……ニケの保護者として、彼女を置いて街を離れるのは抵抗があります」
少し、沈黙が生まれた。もちろん、そのために彼らを領主館付属の迎賓館に移したのだ。ニケの安全についてはむしろファルハナにとっての生命線ですらある。それなのに、もちろんそんなことを承知の上で、ジンともあろう者がこんなことを言うのかと思うと、ラオ男爵は腹が立つより悲しくなってしまったのだ。
そこでナッシュマンが口を開いた。
「ジン。いや、小僧、お前はやっぱり小僧だ。お嬢様がそんなことを承知でないとお前は思うのか? ニケは安全だ。なんとなれば、儂が命に代えても守るであろう」
「ナッシュマン、よせ。ジン、お前がニケを自分の妹のように思い、守る気持ちは私も分かっているつもりだ。頼む、そのように言うな。私を信頼してほしいのだ」
ジンは歯を食いしばってしまった。なんという不覚。この世界に来てニケ以外の人をどこかで「よそ者」と思い込んでしまっていた。
ニケを思っている人は自分一人で、他の人たちは自分がニケを守るうえでの敵、とまで言わないまでも無関係な他者であると決め込んでいた。
それはニケが獣人である、ということもあるだろう。
加えて、自分にとってニケはこの世界のおける妹、チズと同様の存在になってしまっているのだろう。
独占欲、という言葉がジンの頭に浮かんだ。理由がどうであれ、ニケを守ってくれる人々は他にもいるというのに。
「ラオ様、ナッシュマン殿、申し訳ありません。……ニケをお任せします。どうかよろしくお願いします」
◇
「ジン、私、カーラのところに戻りたい」
まさかのまさかだった。この異世界の妹はまったく危機感を持っていなかった。昨日はラオ男爵やナッシュマンに「お任せします」と大見えを切ったものの、これではしばらくファルハナを離れる話すら切り出しづらいではないか。ジンは頭を抱えた。
「なあ、ニケ、お前は自分の存在の意味が分かっているのか?」
「ジン、ツツがここだとかわいそうなんだよ。カーラのところにいたときはカーラが自分の子供のようにツツを可愛がってくれてたんだ。でも、ツツは今、領主館の厩舎にいて、ただご飯をもらっているだけなんだよ。ツツはご飯だけに生きているんじゃないんだよ」
「ニケ、それだって、カーラも最初はそうだったはずだ。それでも、しばらく一緒にいるとツツは良い奴だから、カーラはだんだんツツが可愛くなったんだ。領主館の厩舎係もいずれそうなるはずだ。まだここに来て二日じゃないか」
「うん。それは分かっているんだけど」
ジンはますます数十日ファルハナから離れる話がしにくくなった。
それでも、言い出さなければならない。
「ニケ、聞いてくれ。シャヒード殿とマイルズと共に南に様子を見に行く。こちらに向かってくる集団があれば、それがどんな連中なのか、先に知っておく必要があるからだ」
「どれくらいかかるの?」
「わからない。十日、あるいは二十日ぐらいファルハナを空けることになるだろう」
「ふーん。分かった」
ニケが締まらない反応を示したのには訳がある。ニケはいまいち自分が置かれている立場を理解していない。触媒液の製法が潜在的にどれほどの価値を持っていて、それが多くの勢力に狙われていてもおかしくないことをニケは理解していない。
そんな訳で、寂しいな、と思っただけに留まっての反応だった。
ジンは不安になった。
「なあ、ニケ、俺がいない間、ナッシュマン殿も他の騎士たちも命に代えてでもお前を守る、と言ってくれている。お前の今の立場はそれくらい危険だってことを理解してほしいんだがな」
「あ! そうだ! だったら、ツツを厩舎じゃなくてこの屋敷に住まわしてくれたらいいよ。森にいたときみたいにツツと一緒に寝れば、ツツが私を守ってくれるよ!」
ニケは領主館のツツの扱いに不満を持っていたので、これは素晴らしいアイデアだと思った。
ジンはニケの内心がまるで透けて見えるように分かってしまったが、それでもこれはとてもいいアイデアだと思った。
◇
昼後になって、ジンは領主館の執務室に向かうと、ニケのアイデアをラオ男爵に話した。さすがに領主館付属の迎賓館にツツを上げろとは言わずに、兵舎の一つにニケが引越しして、そこにツツと一緒に寝泊まりする案を出したのだ。
「ジン、話はよくわかった。だが何も兵舎に動くことはない。迎賓館にツツが上がればいい。問題ない。それにいいアイデアではないか。あの狼が護衛に着けばニケも安心だろう。
この街に高貴な客が訪れるなんてことは今となっては考えにくいしな。ニケに迎賓館を自由に使うように言ってくれ」
と、こんな様子で話はあっさりと決まった。
執務室にナッシュマンとシャヒード、それにマイルズもいて話を聞いていた。
ナッシュマンとマイルズがそれぞれ口を開いた。
「ジン、儂もときどきはニケの様子を見に行くから心配するな」
「南大門はもう閉められて出入りが管理されているから、怪しい奴も入ってこれねぇよ。心配すんなって」
出来るだけ早く情報を持って帰りたいシャヒードはそんな二人をよそに出発の準備で頭がいっぱいだった。
「ジン、マイルズ、それでは、明日の朝六つの出発でよいか?」
「はい。シャヒード殿。それで大丈夫です。……ではラオ様、拙者は準備もありますので、今日はこれで帰らせていただきます」
帰ると言っても、隣の迎賓館なのだが、旅の準備にいろいろと買い集める物があったので、街を巡る必要があった。
ジンは一緒に買い出しに街を回る予定にしていたマイルズと共に、迎賓館に寄って、ニケにツツを迎賓館にあげても大丈夫になったと告げるとニケは飛び上がって大喜びした。
マイルズはそんなニケを見てほほ笑んだ。
ジンもカーラのところからこちらに移ってきてからあまり楽しそうじゃないニケを見ていて心配していたのでほっとした。
「ニケ、明日の早朝の出発になったから、今からマイルズと一緒にいろいろ揃えてくるからな。ツツと一緒に大人しくしているんだぞ」
「うん。薬莢ばかりで最近はアラムさんのポーションも作れてなかったから、それでも作っておくよ」
マイルズはふと思いついたかのように、言い出した。
「……ジン、それにニケちゃん、今晩は皆で〈宵闇の鹿〉にでも飯を食いに行こうぜ」
「ああ、それはいいな。ヤダフやモレノも〈宵闇の鹿〉に行けばいるかもな」
そんな会話をしながら、迎賓館のニケの居室を出ていく二人を見送って、ニケは大いに喜んだ。
(やっと〈宵闇の鹿〉に行ける!)
◇
旅に持っていける範囲の買い物というのは限界がある。
ジンは、この任務に絶対に役立つ嵩張らない物をいろいろ考えた挙句、懐中魔灯は必須だと思ったが、これはとても高価な商品だった。一五〇〇ルーン――グプタ村で、二十二日と命を懸けた報酬と、奇しくも同じ値段だった。
お金はニケのポーションの売上、ジンも新しい仕事で一日五〇〇ルーンももらっているので、奮発することにした。
結局、他の買い物は思いつかず、ヤダフのところに寄って〈会津兼定〉を研いでもらった。ヤダフにとっての異世界、日本で作られた名刀。彼は見入ってしまった。
「ジン、これはすさまじい業物だな。ただ、どうやって作っているかは俺にはわからないな。いや鉄砲もすごいが、これはもしかするとさらに上を行くかもな。ただ、これには一切の魔力を感じない。お前が帰ってきたら俺が錬金術師を紹介してやるから、魔法に対する耐性をつけるといいかもしれん」
あまりに熱心にそういうヤダフに一瞬言葉を失っていたジンだったが、思い出したように、礼を言った。
「その、魔法に対する耐性、というのは俺にはよくわからんが、ありがとう。また詳しく教えてくれ。今日はな、それを手入れしてもらいたかったのと、お前とモレノに〈宵闇の鹿〉で夕食でもどうだ、と誘いに来たんだ」
「珍しいな? 何の風の吹き回しだ?」
そう言えばこのことはラオ男爵と騎士しか知らないことだと気が付いて、ジンはヤダフに説明した。
「いや、俺とマイルズはしばらく任務で街を離れることになったもんでな」
角度を変えて、あらゆる方向から〈会津兼定〉を見定めながら、ヤダフはジンに訊いた。
「……やっぱりダロス関係か?」
「ああ」
「よし、わかった。モレノのところに用事はあるのか?」
「いや、夕食の誘い以外はない」
「なら、俺は用事があるからあいつに伝えておくよ」
「ありがとう。じゃあ昼後六つぐらいに〈宵闇の鹿〉でな」
「ああ、じゃあちょっと時間をくれ。こいつを手入れするんだろう?」
「ああたのむ。そいつは俺の愛刀だ。お前にしか頼めん。その間、干し肉でも買い集めておくよ」
「ふん。うれしいことを言うじゃねぇか。任せろ。後で〈宵闇の鹿〉に持っていってやる」
「ああ、助かる」
そう言い残し、ジンはヤダフの工房を出た。