4. 異世界
「ニケ、狩り、行ってくる。ツツ、行くぞ!」
「ジン!今日はシカが捕れるといいね!」
厳しい冬を超えて、季節は春になり、二人のコミュニケーションはずいぶんとスムーズになっていた。
「ツツ!今日は西の沢、行くぞ!」
狩は大変だ。会津には、いや、日本には鉄砲があったが、ニケの小屋にはそんなものは見当たらなかった。
ツツとの連携が肝心だ。いわゆる追い込み猟。手製の弓矢は改良に改良を重ねてかなりの精度と威力を持つに至った。
会津では剣術一辺倒のジンだったが、ここに来て、必要に迫られるなか弓もかなり上達した。
ウサギやイノシシ、そして鹿。会津にいた野生動物とさほど変わらない。
変わるのは時折現れる魔物たちだ。
これには最初驚かされたジンだったが、時間が経つにつれて、その種類や特徴、強さなども分かってきた。
種類によっては食べられるということも分かって、魔物に対する忌避感は徐々に薄れていった。
何より、魔物は普通の動物よりうまいのだ。そして、魔物は普通の動物と対になっていることがわかった。
イノシシの魔物はキバイノシシ、ウサギの魔物はナキウサギといった具合だ。
そして、キバイノシシは普通のイノシシより狩るのは大変だが、一匹狩ってしまえば取れる肉の量はキバイノシシの方が圧倒的に多くて、しかもうまい。ナキウサギも同様だ。
この土地に来て最初に遭遇した魔物、あの小鬼に対になっている動物はなんだろうか?猿?あるいは人?これについてはジンはまだ分からなかった。
この森はとても食料が豊かだった。ニケが何とか一人で生きてこられたことが不思議ではないとジンは思った。
かといって、幼いニケにとって、狩りは大変だったはずだ。けれども、罠や待ち伏せなどの可能な限りの手段を用いて一匹狩りさえできれば、幼いニケにとっては一週間の空腹を満たすほどの食料になったはずだ。そうやって彼女は一人、いや、一人と一匹で必死に生き抜いてきたはずなのだ。
だとすると、なぜ、どうして、そもそも、彼女はこんな境遇にいるのか?
ジンはまだそれを知らなかった。
それは、ニケがその事情を話したがらない為か、ジンの新しい言語に対する理解力がまだその事情を聞き出すに足らなかったのか、あるいはその両方か。とにかく、ジンは一年たった今でも彼女がなぜ一人でこんな山奥に住んでいるのかを知らなかったのだ。
もちろん一年も経つとジンにとってニケは単なる『猫又』ではなく、一人の大切な人になっていた。
会ったばかりの時、修理の妻、雪子の面影を期せずして見てしまったジンだったが、最近は会津にいるはずの妹、チズに思わず重ねて見てしまう。
ジンは薄々、いや、本当は十分に理解している。ここが伏見ではないのはもちろんそうだが、日本ですらない。いや、もっと言えば外国ですらない。……地球ですらない。
異世界なのだと。
外国にこんな魔物がいるなんて伝承や神話として聞いたことはあってもそれが現実にいるなどと信じたことは一度だってなかった。いや、もしかするとずいぶんと幼いときはそんなことを信じることもあったかもしれない。
ニケの話す言葉だって、外国語とも思えない。聞いたり読んだりしたことのない外国語などいくらでもあるだろう。しかし、地球上の言語にはどこか共通の概念が存在する。だけれども、この言語は地球上の言語にない概念を多く含むのだ。
ジンはそんなことを一年間ずっと考えていた。最初の数日はまずは身の回りの状況を把握することに必死だった。数週間経つと、実は熊野の秘境にでも迷い込んでしまったのかなどと考えた。
しかし魔物の存在がそれらを完全に否定する。なによりも目の前にいるニケが、現代の日本にいるはずもない存在なのだ。
今になってニケとの意思疎通がかなりできるようになり、いろんな状況が分かりだした。
ひとつ、この世界は、いや、もしかしたら国なのかもしれない、そのあたりの理解はジンにはまだ無理だったが、少なくとも大きな範囲でのこの場所はアスカと呼ばれる。日本の飛鳥を連想させたが、単なる偶然のようだ。
ひとつ、この広大な森の向こうにはアスカの人々が住んでいて、そこに行こうと思えば、魔の森とも呼べる領域を抜けなければならないこと。そしてそれは不可能であること。
ひとつ、ニケは、ジンがあの日現れることを知っていて、その日をずっと一人で待っていたということ。
最後の事実はジンにとって衝撃的で、何度も何度もつたないこの世界の言葉で聞き直したが、そうとしか理解できなかった。