3. ニケとジン
翌朝になった。
甚兵衛は昨晩、どう夜を明かすべきかと考えていたが、猫又がどこからか大量の藁を持ってきて床にぶちまけ、その上に清潔な布をかぶせて、簡易布団を作ってくれた。
寝ていけ、ということなのだろう。
行く当てのない甚兵衛はあっさりと好意を受け入れた。
これ以上ないほどに疲労困憊だったので、眠りは深く、寝覚めは悪くなかったが、起床直後、いったいここはどこだ?なにがどうなったんだ?という軽い恐慌に襲われた。
覚醒するにしたがって、昨日の記憶がよみがえってきた。
(そうだ。ここから伏見に戻らなくては)
それにしても状況が分からない。ここがどこなのかが分からないのだ。
それに猫又とは意思の疎通ができない。いや、あるいはゆっくり話せばわかってくれるかもしれない。
甚兵衛は意に決して、すでに起きて調理場で朝食を用意する猫又に話しかけた。
「恩に着る。ここはいったいどこだ? で、お前はなんだ?」
自分から出てきた不躾な言葉に思わず唖然とする甚兵衛だったが、聞きたいことを聞かないわけにはいかない。
当然、言葉が通じるわけもなく、不躾な問いも無効になって少し安心した。
猫又はしばらく沈黙した後、自分の胸を指さしながら「ニケ」「ニケ」と連呼した。
疑問符が脳内に駆け巡る。意志疎通に絶望しつつも、必死に彼女の言わんとすることをどう理解し、どう反応すべきか考える。
と、瞬間的にその意味が分かった。ニケは彼女の名前だ。だとするならば、自分も名乗らなければ失礼だ。
とっさに自分の鼻を指さし「ジンベエ」と言う甚兵衛。
すると、ニケは甚兵衛の鼻をつまみながら首をかしげて「ジンベー?」
いや、ちがう、それは俺の鼻だ。甚兵衛は鼻じゃなくて自分だ。伝わらないもどかしさを感じた直後、「あっ!」とひらめいた。
『自分』を指すのは胸なんだ。心臓なんだ。日本人は自分の鼻、というか顔の中心を指して『自分』を表すが、今ニケはニケの胸を指して「ニケ」と言ったではないか!?
甚兵衛は自分の胸を指さしながら「ジンベー」と低くつぶやいた。
「ジン!」ニケは明るく声を上げ、もう一度自分の胸を指さし「ニケ!」と自分の名を呼び、そして甚兵衛の胸を指さし「ジン!」と呼んだ。
(自己紹介がこれほど難しいとはな……)
甚兵衛はそう思わずにはいられなかった。けれど、それ以上にお互いの名前が知れたことに喜ぶニケを見て思わず微笑んだ。
ジンベエなのにジンになってしまって、微妙に名前が違うとも感じたが、この際大きな問題ではないはずだ。
そして、ニケは犬を指さし「ツツ」と呼んだ。ああ、この犬の名前はツツなんだ理解したジンはなにか暖かい気持ちに包まれた。
◇
もっともここから先の生活は甚兵衛にとっては、試行錯誤の繰り返しで決して暖かいばかりではなかった。
それはニケにとっても同じだっただろう。
けれども、ニケにとっては少なくともジンが自分の言葉を理解しようと努力しているだけで十分だった。
身振り手振りや身近にあるものを指さして、ひたすら疎通を図る二人と一匹。
ツツはそもそも言葉は通じないので、甚兵衛のとってはむしろ格好の友人、いや友犬となった。
無謀にも二日間もかけて行けるところまで行ってみようと試したこともあったが、三日間かけて這う這うの体で小屋に戻ってくるのが精いっぱいだった。
依然、甚兵衛にはここがどこなのかもわからないし、どっちに向かえば伏見や、いや会津に戻れるのか、そんな情報は全くといって得られなかった。
何せ、言葉が全くわからないのだ。幸いにして、ニケは甚兵衛を歓迎してくれている。
そもそも、自分がどこにいて、どうすれば戻れるのか、まったく分からない訳だから、ただひたすら、ニケとツツと一緒にこの小屋で過ごすしかなかった。
それは、繰り返す意思疎通の試行錯誤の日々でもあった。いつの間にか、季節は晩秋になり、夜の寒さが厳しくなってくると甚兵衛はツツと共に狩りに出かけ、イノシシを狩って、毛皮を防寒具にして、肉を会津でやっていたように鍋にした。
調味料は塩と臭み消し用の何かわからない薬草しかなかったが、それでもニケやツツの食糧事情は抜群によくなった。
幼い少女が狩りで簡単に獣を簡単に捕らえられるわけもなく、食糧事情が大変だったことを数日たてば甚兵衛はすぐに理解した。
今すぐ会津に帰る方法などまったく分からない。いや、ここがどこだかすらわからないのだ。帰るためにどう行動すべきか。長らく悩んできていたが、まずはこの世界に順応するしかないことは理解できた。
情報が圧倒的に足りないのだ。
かといって、ニケを置いて、行くあてのない旅をしたところで言葉もろくに話せないのだから情報など望むべくもない。
とにもかくにも、言葉を覚えて、この世界で生き残る能力、情報を得る能力を身に着けるほかない。そしてそうする間、恩人、恩犬であるニケとツツをできるだけ助ける。自分にはこれしかできることはないのではないか。
甚兵衛、いや、ジンはそう思った。