28. 鹿肉料理店とヤダフ
そのころ、ジンはツツと共にフィンドレイ将軍とその手勢が入街するのを見てすぐ、大通りを東に折れて、そのまま、ファルハナの東地区にある鍛冶屋街に向かっていた。
警らでの担当は西地区だったし、ずっと宿代を稼がなければいけなかったので、非番の日は設けていなかった。この街に着いてからというもの、領主館の警ら遁所、西地区、大通りの宿をひたすら往復するだけの生活だった。
フィンドレイ将軍のおかげで非番になって、有給で一日空いたわけだから、この機会に昨晩取り押さえた如意槍の野盗が教えてくれた、ファルハナが〈鍛冶屋の街〉と呼ばれる所以たる、東地区、鍛冶屋街に行こうと思ったわけだ。
ツツは大人しくついてくる。時間は朝十一、もうすぐ昼だ。
今通りかかっているのは住宅街で、各家々から昼食を用意する匂いが漂ってきている。
ツツは鼻を少し上に向けて、その匂いを嗅ぐ。嗅いでからジンを見上げて、クンクンクンと甘え声を鳴らす。こういう時、ツツが何かを要求しているときだ。そして何を要求しているかは明らかだ。
「そうだな、このあたりで何かあれば食っていくか?」
「ワオーン!」
口を尖らせ、一哭き。ツツの良い返事だ。
しかし、ここら辺は住宅街で食事できるようなところは見当たらない。
そうこうするうちに、遠目にも鍛冶屋街らしきものが見え始めた。民家より高い煙突。それらから立ち上る黒い煙。そして槌を打つ音が遠くから聞こえてきた。
鍛冶屋街の周りには飯屋が点在していた。
「お、ここなんかどうだ? 俺は字が読めないからな、なんて書いているのかわからんが、鹿肉が食べられそうだぞ」
ブラケット看板に鹿の飛び跳ねる意匠があるし、中から嗅ぎなれた鹿肉を焼く匂いがしてくるので間違いない。
「ワオーン!」
ツツも鹿肉が食べたいらしい。森にいたときは嫌になるほど食べた鹿肉だったが、街に来てからというもの、ツツは宿で猪肉ばかり与えられていた。
「ちょっとそこで待っておれ」
ツツを置いて、飯屋のすでに開け放たれている両開きの入り口をくぐった。
「いらっしゃいませ!」
若いウェイトレスが明るく声をかけてくれた。
ジンにとってこの世界で初めての飯屋だ。
「どこに座ってもよいのか?」
「ええ、まだ昼時前ですので空いていますから、お好きなところにお座りください」
実際、ジンがざっと店内を見渡した限り、ジンのほか1人しか客は見当たらない。
その男性客は、子供ほどに背が低く、しかし大きく発達した筋肉がいたるところについている。筋肉達磨。この男を表現するなら、この言葉が一番しっくりするだろう。男はカウンター席の一番隅で、鹿肉のステーキをつつきながら、葡萄酒らしき酒をあおっていた。
「すまない。俺は字が読めない。このメニューというのか? それが読めないものでな。鹿肉の匂いがしたのだが、それを焼いてくれぬか? あと外にいる狼に生でいいので俺と同じ量を与えてほしい」
「お、狼ですか?」
「ああ、心配しなくていい。ツツは優しい狼だ」
「わ、わかりました。少々お待ちください」
ウェイトレスはそう言い残して、厨房の方に向かっていき、この飯屋の主と思われる料理人にジンの注文を伝えている。
しばらく待つと、皿に大きな鹿肉のステーキが、それに丸いパンが添えられたプレートと、赤い生肉がどんと盛られた皿をウェイトレスが持ってきた。
「お酒はよろしいですか?」
「うん。昼から酒はな。やめておこう」
ジンがそう言うと、ウェイトレスは鹿肉ステーキのプレートをジンのテーブルに置き、水が入ったガラスコップを置く。そして、ツツ用の生肉の皿を持ったまま、何か言いにくそうにしてジンのそばにまだ立っている。
「どうした? ……ああ、わかった。おれが持っていこう」
「すみません。そうしてもらえると助かります」
ウェイトレスから生肉の皿を受け取り、表で待つツツに持っていく。
「ツツ、飯だ」
地面に直に皿を置くと、ツツは「いいの?」と訊くようにジンを見上げる。
「ああ、食え」
ツツは「ワオーン」と嬉しそうに一哭きし、生の鹿肉ステーキに齧りついた。
飯屋の中ではそのツツの一哭きにびくっとするウェイトレスがいたが、ジンがそれは見ることはなかった。
「俺も今から頂戴するから、少しここで待ってろよ」
そうツツに言い残してジンは店内に戻った。
するとカウンター席の一番奥にいた男が、座ったまま振り向いて、急に話しかけてきた。
「お前さん、昼から飲む酒のどこが悪いってんだ?」
「ああ、別に何とも悪くないさ。俺は昼から飲むと動きが悪くなるものでな」
「ははは。人間は酒に弱いからな」
カウンター席の男はそう言うと、ウェイトレスはすたすたとカウンター席の男に近づいて行き、後ろからお盆で男の頭を殴った。
「痛て! ビーティ、何をするんじゃあ!」
男はビーティと呼ばれたウェイトレスに振り向いて抗議した。
「ヤダフさん、朝からお酒を飲むのは勝手ですが、ほかのお客さんに絡まないようにって何度も言ってるでしょう!」
ビーティがヤダフと呼ばれた背の低い男に怒鳴った。
ジンにはついさっきツツを怖がって、生の鹿肉を持っていくのを躊躇していた同じ女とは思えなかった。
そのやりとりをあきれた様子で眺めていたジンにビーティが謝った。
「お客さん、本当にごめんなさいね。ゆっくりお召し上がりくださいね」
「ああ、すまん。その、いや、今の会話をもう一度こう心の中で繰り返していたのだが、その、人間は酒に弱い、というのがどうも引っかかる。俺は異国から来てお前たちとは少し外見が異なるが、見ての通り、人間だ。そこのヤダフさん、というのか? 彼も人間だろう?」
ジンは謝りにテーブルまでやってきたビーティに訊ねた。
「え? お客さん、ドワーフを知らないんですか? 確かにこの東街区にしかあまりいないですが、イスタニアにはたくさんのドワーフが住んでいますよ? 見たことなかったですか?」
ビーティは驚きを隠さない。
「なんと、奇特な男がいたもんじゃ。ドワーフを知らないと!?」
いつの間にかヤダフと呼ばれた男もジンのテーブルの前に来ていた。
「おお、そういえば、ヤダフさんというのだな、お主の耳、少し違っておるな」
ジンが不躾にもまじまじとヤダフの耳を見つめた。背が低いだけではなく耳の形状も少し異なっている。なんというのだろう。尖っているというより横に突き出している耳だ。
「ははは。こりゃびっくりだ。ドワーフを始めてみた人間か」
ヤダフは耳をまじまじと見られてもそれを気にする風もなく、笑い飛ばした。
「……ああ、失礼した。ヤダフさん、拙者ジンと申す。冒険者で、今は西地区の警らをやっている」
「ヤダフでいい。ジン、そんなにかしこまらくていい。おお、少し待っておれ」
そういうと、自分の席に戻り、ワインをデキャンタごと持ってきて、水がさっきまで入っていて今は空になったジンのガラスコップにワインを注いだ。
「な、飲め!」
嬉しそうにジンにワインを勧めるヤダフ。
その斜め後ろには怒りでフルフル震えながら、お盆を振りかぶるビーティがいた。
初めて評価をいただきました。
ありがとうございました。嬉しい!