21. ラオ男爵
「ラオ様! 冒険者ジンをお連れしました!」
領主館の二階にある厳めしい両開きのドアの前に立って、マイルズが大声でドアの向こうにいるはずのラオ男爵にそう伝えた。
「声が大きい!」
中から聞こえてきたのは若い女の声だった。
「失礼いたしました! ……それで、中に入ってよろしいでしょうか?」
「ああ、入れ」
マイルズはドアを開けて中に入りつつ、ジンに向かって目くばせし、ついてくるように促した。
部屋に入るとそこは執務室のようで、さほど広くない十畳くらいのスペース、ドアの真正面にラオ男爵の執務机が備えられており、そこにラオ男爵は座っていた。
執務机にはうずたかく書類が積まれていて、その合間から男爵は顔をジンとマイルズに向けた。まだ二十代、ジンより少し年上に見える女性だ。
日本では見たこともない赤い髪に薄い緑色の瞳。その赤い髪は書類作業の邪魔になるからであろうか、後ろで一つにまとめられていた。
これまた日本では見かけることの少ない濃緑の洋装だ。高い詰襟には金で刺繡があしらわれていた。
ジンのラオ男爵から受ける第一印象は、勝気で知的。この街の難局にあって、貴族としてこの街に残り、治安を支えていると言うのだから、その第一印象はそう間違ってはいないだろう。
彼女はジンにとってこの世界で初めて会う〈高貴な人〉だ。容保公に目通りが叶う際など、まともに顔を上げたことがない。かといって、ジンの兄などは普通に冗談を言い合ったりしていたので、高貴な人が決して特殊な人である、などという認識は持っていなかった。
それにしてもこの世界ではそういった高貴な人にどう接するべきなのか。ジンはもちろんそんな作法を学ぶ機会はなかった。
とりあえず極端なことをせず、ただ、誠意を示せば何とかなるだろう、と高を括るしかなかった。わからないものを察してうまくやろうとしたところで馬脚を露すのが関の山だ。
ジンに一瞥をくれた後、ラオ男爵は書類の山を見渡した。
「よく参られた。ジン殿。あいにく、人手が足りずに私自身も労力を惜しんでおられない状況でな。茶の用意を、とも思うがままならん」
「いえ、お構いなく」
礼儀作法はわからないが、無礼者には見られたくないジンは軽く会釈し、礼をした。
「申し遅れた。ノーラ・アンドレア・ラオだ」
立ち上がって執務机の右にあるソファーとテーブル、きっと応接セットなのだろう、そこに座るように促した。
ジンはそれに従い、ドア側の椅子に座った。それが下座と思われたからだ。
「ふむ。警らだったな」
ラオ男爵は書類に目を通しながら、ジンの向かいに座る。彼女が見ているのはさっきマイルズに渡した冒険者ギルドのマリアムが作ってくれた紹介状なのだろう。
ラオ男爵は書類からジンに視線を移した。
「ジン、というのだな。名はそれだけか? それに、見かけない顔立ちだが、どこから来た?」
とっさに「名は萱野甚兵衛時敬、魔の森のそばの森から来た」と答えそうになったジンだったが、そもそも〈魔の森のそばの森〉にいる人々が日本人の顔立ちであるわけがない。ラオ男爵は顔立ちの違いを指摘しているのだから、それでは納得しないだろう。それに日本の家格の話をしても何の役にも立たない。
ジンが答えにしばらく窮していると、ラオ男爵は質問を変えてきた。
「まあ、それはいい。すでに冒険者登録をしているのだから、この情報だけで十分だ。それより、君の能力を教えてほしい」
「拙者、手前味噌ながら剣術に秀でております」
ジンはこれを「私の作った味噌を自分でほめるのは何ですが」という意味のコモンで説明した。味噌はこの世界で何と呼ぶのか、いやそもそも存在するのかどうかすらもわからないので、ただ「ミソ」と発音した。
ラオ男爵はまったくの無表情でしばらくジンを見つめていたが、口を開いた。
「ああ、君は楽しい御仁だな。いや、そういうと失礼か。うん。どこかアンダロス王国ではない、いやイスタニアですらない遠くから来たのだろうな。剣術が得意、と。それは心強い。ただ、不審な人物をバサバサと斬ってしまっていては治安の仕事にならないぞ。そのあたりはどうなのだ?」
「ラオ男爵、剣術は得意ですが、決して人斬りを好むわけではございません」
ジンは自分の人格が大きく歪められて伝わっている感じがした。決して楽しい――いや、この場合は変な男と取られているような気がする――それに攻撃的な男でもない。
「ああ、ラオ様、そのあたりの不審者対応だったり、実際に匪賊や犯罪者への対応はこちらでちゃんと説明しておきますから」
これまで横で黙って聞いていたマイルズが助け舟を出してくれた。
「うん。よかろう。頼んだぞ、マイルズ。では、ジンもよろしく頼む。私はまだまだこの調子だからな」
ラオ男爵はそう言って応接テーブルの横にある執務机を一瞬見遣ってその残務の量を示しながらジンとマイルズの退出を促した。
「ラオ男爵、非力ながら尽力いたします」
ジンはそういいながら退出しようと立ち上がった。
「ああ、ジン」
ちょうど執務室の出入口を出るところでジンはラオ男爵に呼び止められた。
「ラオ男爵はやめてくれ。ノーラ、それかラオと呼んでくれればいい」
「……では、ラオ様、と」
「ああ……うん。それでよい」
どうもこの世界での高貴な人との距離感が分からないジンだった。