2. 小鬼と猫又
甚兵衛はへとへとだった。戦があって、西洋騎士との一騎打ちがあって、それからこの深い森をもう何刻も歩いている。
甚兵衛のいでたちは下は袴に軍靴。上は幕軍の制服に似た洋装で決して重装甲というわけではなかった。
黒い長そでで、前をボタンで留めるハイカラなものだったが、首まで覆う襟もあって、暑くてかなわない。奉行所を出たのは一月だったので、この装束は悪くなかった。
(冬はよかったが、こうも暑いと……いやいや、待てよ……なぜ冬じゃないんだ?この感じは真夏ではなくとも初夏の感じだぞ?)
しかも中には銃撃戦に対応するため軽めの鎖帷子を着込んでおり、身軽に森の中をひょいひょいと軽快に飛び跳ねながら進んでいく犬の速度について行くのは大変だった。
「おい、ワン公、ちょっと待ってくれ!」
息を切らせながら犬に頼み込む甚兵衛。
すると甚兵衛の願いを聞いてくれたのか、突然立ち止まった。
ただ様子がおかしい。遠くを見るような目で森の一角を睨んでいる。
「どうした?」
犬がしゃべれたとしたら、「静かに!」と、どやしつけていたかもしれない。どやしつける代わりに犬はその森の一角を睨んだまま(ウウー)と低いうなり声をあげた。
甚兵衛もその方向に注意を向けると、がさごそという茂みをかき分ける音があって、そこから現れたのは、その丈おおよそ五尺(およそ一・五メートル)ほど、二本の腕に二本の脚。人の形ではあるが、前かがみに首を突き出し、どす黒い赤色の肌をしている小鬼のような存在だった。
かろうじて知性を見いだせるのは腰蓑を着け、陰部を隠していることぐらいか。これだって羞恥心のせいではなく、単に急所を守っているだけかもしれなかった。
武器もその辺の木の棒を拾ってきたような、こん棒らしきものを持っているだけだ。もしかすると人間未満猿以上の知性は少なくとも備えているのかもしれない。
ともあれ見るからに邪悪な小鬼のような存在にしか見えないそれが四人。いや、四体と言った方がいいのかもしれない。その四体は茂みから出てくると、ギギギっと哭き、敵意をむき出しにして迫って来た。
犬はうなり声を一段と大きくし、そして低く構えて臨戦態勢を取った。
「おい、ワン公、これはいったいなんだ?」
もちろん答えを期待しているわけではないが、聞かずにはいられない。何が何だかわからないまま刀の柄に手をかけた。
甚兵衛の敵意を感じたのか、小鬼の一体がこん棒を振り上げ、突出した。
犬の反応は速かった。柴犬の四倍もあろうかという大きさで俊敏性は柴犬と何ら変わりない。
飛び出して、こん棒を振り上げた小鬼の右腕上腕部に噛みつくと、左右に振り回し、あっさり骨まで粉砕してしまった。
甚兵衛も負けずと刀を抜くと残った三体の小鬼の左側に回り込みつつ、横なぎに払うと、うち一体の小鬼の上半身と下半身はさっくりと二つに分かれた。
恐慌を起こして逃げる一体、最後のもう一体は恐慌を起こしつつも、怒りに任せて甚兵衛にこん棒を振り上げ襲い掛かって来ていたが、見た目には恐ろしかった小鬼の戦闘力はなんとも見掛け倒しと言うほかなかった。
こん棒は短く、まずもって攻撃距離が甚兵衛と違い過ぎた。振り上げたこん棒が届くより前に甚兵衛の上段からの一閃が小鬼の頭蓋骨をたたき割ってしまった。
「ふーっ」
一息吐いて、血ぶり、〈会津兼定〉を鞘に納めた。
犬の口は鬼の血で汚れたままだが、また目の前に何事もなかったようにお座りをして、甚兵衛を見る。まるで「さ、雑魚は片づけた。行くよ!」と言っているかのようだ。
「わかったよ。俺はついて行くしかないからな。右も左もわからないんだからな……」
消え入るように甚兵衛は呟き、一人と一匹はまた歩き出すのだった。
◇
小半刻(およそ三十分)も歩いただろうか、少し森が開ける一角があって、そこに小さな平屋の小屋が建っているのが見えた。
まるで西洋の童話の挿絵に出てくるようなたたずまいの小屋には煙突がついてあり、煙をちょろちょろ吐き出している。
「人がいる!」
甚兵衛がそう認識したのを目ざとく察知すると、犬は小屋に向かって駆け出した。
もう今までのように手間をかけて、ちょっとずつ歩いては甚兵衛がついてきているのを確認する必要はないんだ、とでも思ったのだろう。
甚兵衛も後に続く。とにかく人に会って、ここがどこなのか、そして、会津が、日本がどうなっているのか、を確かめたい。
犬が玄関の扉を前足でガリガリやると、間もなくして内側から開いた。
「猫又……」
開いた扉からひょっこり顔を出したそれ見て、甚兵衛は目を丸くするほかなかった。
戯画で伝承の妖怪や物の怪を見たことがあったが、今それが甚兵衛の目の前にいた。
見た感じ、人間の十歳くらいの少女と変わらない体つき。けれども、顔は大きく異なっていた。大きな耳、人間と猫が混ざったような鼻や口。なんとも愛嬌がある顔つきだが、人でないことは一目瞭然だった。
猫又が何かを発声した。それはまるで奇妙な音の連続で、歌のような抑揚もあって、甚兵衛には意味は分からないながらも、少なくともこの猫又が言葉を発していることはわかった。
甚兵衛がどう反応していいのかわからず、まごついていると、猫又は何かを言いながら甚兵衛の手をつかみ、建物の中に引っ張った。
「おおお、おい……」
何を言っているかはわからないが、少なくとも歓迎してくれているようには見える。
猫又は甚兵衛の手を引き、食卓に据えられた椅子に座るようにしぐさで促す。
日本の食卓とは大きく異なり、まるで西欧の食卓のように脚が高い。
(ここは素直に……)
甚兵衛はこの状況をほとんど理解できていないが、少なくともこの猫又に害意は全く感じられない。
言語については藩校で習ったり聞いたことのあるエゲレス語やエスパニョール語、そして外国語としてかなり存在感のあった蘭語にはある程度の知識はあった甚兵衛だったが、猫又が話す言葉はそれらの言語とも思えない。
ただ、少なくとも言語であることは分かった。
椅子に座って、小屋の中を見渡す甚兵衛。
調理場らしい水場に、この猫又の寝床――箱の上に藁か何かを敷き詰めてその上に白い大布をかぶせたものがあった。
個別の部屋など何もない、ただ、この小さな小屋すべてがこの猫又の生活空間のようだった。
驚いたのが出入口の扉から見て右の壁面全てが作り棚になっていて、無数のガラス瓶が並べてあったことだった。
瓶の中には正体不明の生物の臓物、植物の一部、そんなものを薬液に漬けたもの。何も入っていないが薬液のみの瓶。気味が悪いのが何かの動物の眼球が漬かっているもの、などなど。とにかく甚兵衛を圧倒するのに十分な意味不明のガラス瓶が並べてあった。
狭いながらも奇麗に掃き清められた木の床、窓のそばには森から摘んできたのか生け花がガラス瓶に刺してある。それらは十分にこの猫又が知的で奇麗好きな存在であることを示していた。
猫又は一言二言何か言って、調理場の一角に行くと小さな鍋から何か掬い、浅い器に注いだ。汁のような食べ物だろうか。
それを猫又は勧めてくる。と言っても言葉が分からない限りあくまでも彼女のしぐさで甚兵衛がそう理解しているだけかもしれない。
それをしばらく見つめていると、猫又は匙でそれを掬って自分で一口食べた。
食べてから甚兵衛を見た。
(安全だから食べろ、ということか……)
甚兵衛は人を疑う能力に欠ける。よく言えば素直で、悪く言えば警戒心に欠ける。いわんや、相手は猫又なのだ。もっと疑ってしかるべきだったのだろうが、素直に勧められるがままに一口、口にした。
(っ!……なんだ、この味は!)
塩っ辛いだけで臭みの消えない細切れの肉。そもそも何の肉かもわからない。お世辞にうまいとは言えない。
ただ、戦働きの後の一騎打ち、そして半日にもわたって森林を歩いてきたあとだったのだ。
ともかく腹を満たしたい欲が味のまずさを勝った。
空腹が少し満たされると、甚兵衛は強いのどの渇きを覚えた。この森に来てから、ひたすら犬に連れまわされ、水分を補給する余裕など全くなかったのだから。
その渇きを思い出したとき、猫又が食卓に木材で出来た、茶碗に比べ背の高い椀を置いて、そこに紫色の液体を瓶から注いだ。
そして猫又はそれを飲め、としぐさで勧めた。
(葡萄酒のようなものか?)
甚兵衛にとって葡萄酒は一般的なものではなく、郷元にいたころ藩主容保公に一族郎党招かれた際に一度口にした程度だった。そしてそれは決して好きになれる味ではなかった。
だがその紫色の液体は葡萄酒と似て非なるものだった。
(うまいっ!)
のどの渇きがそう思わせたのかもしれない。ただそれはおいしくて、ぐびぐびと飲み干すと、一瞬で空になった木椀を食卓に勢いよく叩き置いてしまった。
すると猫又は――もし感情表現が人間と同じだとすればの話だが――これ以上ないほどの嬉しそうな顔をして、お代わりを注いだ。
甚兵衛の渇きはさっきの一杯で乾くはずもなく、即座にそれも飲み干してしまった。
こういったことが瓶が空になるまで繰り返されると、空になった瓶を見ながら猫又は残念そうな顔をして何かを甚兵衛に言った。
そして、ニコニコしながら甚兵衛の顔をまじまじと覗き見る。
まっすぐに見つめられて甚兵衛はなぜかこの猫又の顔に老中神保修理の奥方、雪子の顔を思い出してしまった。
修理に屋敷に呼ばれると雪子の顔が見られる。神保の屋敷に行くときは、柄にもなくときめいてしまうのだが、実際には目の前にいる雪子の顔を見ることはできない。
どうしても顔を伏しておかないと、自分の横恋慕が修理にばれてしまうような気がしていたのだ。
なぜかこんな幼い少女……いや、猫又に雪子の面影を見てしまった。
(雪子様は息災にされておるだろうか?)
修理と雪子の仲睦まじい様子を思い出してしまった。
ふと視線を犬に向けると、これ以上ないほど奇麗なお座りをして、床に置かれた自分の食事用の器の前にいる。
(猫又が犬を飼っているわけか。なんとも不思議な場所だ)
猫又は何かを言いつつ調理場から取ってきた決して多いとは言えない細切れの肉を犬用の器に移したあと、犬の前にしゃがみ込み、悲しそうな、申し訳なさそうな顔をして、犬の頭を撫でるのだった。