174. ファルハナの危機
「伯爵! 追撃を!」
マイルズは怒気を含んだ声でミルザ伯爵に迫った。
「マイルズ、彼らは彼らの判断で退去することにしたんだ。戦闘行為は行われていない。そんな人々を殺せと言うのか?」
「人々? あれはもう人ではない! 分かってるんだろう、伯爵も?」
「そう簡単に割り切れるものか!」
◇
エルロッドの民との会談が持たれたのが昨日のことだった。
四軍連合軍側はリヨン伯爵、ミルザ伯爵、フエンテス将軍、バルタザール将軍がそれぞれの護衛ともに出席した。
エルロッドの民の代表は、ただその辺にいる、元ウォデル住人だった。彼は名乗りもせずに、〈意志〉となって四軍連合軍代表に応じた。
会談は、彼らにとって拍子抜けするほど、平和裏に行われた。
決まったことは、天守閣と、それに付随するウォデル政庁の引き渡し、全ての戦闘の中止、ウォデルを東西に走る街道の南側の一部にエルロッドの民となった住人の居住区を設け、隔離する。隔離地区への物流は滞らせない。
これらのことが極めてスムーズに決定し、履行された……はずだった。
今、三万人以上はいると思われるエルロッドの民は隔離地区を出て、街道を西に歩き始めていた。
「伯爵、あの連中のために西の門を開けてやるのか?」
マイルズはそれをただ見送るミルザ伯爵を不審に思った。
「街を出ていくと言っているんだ。それを拒む理由はないだろう」
「残念だ、伯爵。もう少し物分かりがいいと思っていたんだがな」
「マイルズ、お前はもう少し物言いに気を付けたらどうだ!」
ミルザ伯爵もさすがに怒気を込めて、マイルズの失礼な言葉を咎めた。
「伯爵、あれがどこに行くか分からないのだろう? だからそんな暢気に見ていられる。フサイン、声はどこに行くと言っている?」
「街を西に出る、としか言っておらん」
すでに後ろ手に縛られた両腕が解放されて、自由になったフサインが応えた。
「そうか……俺が思うにあいつらの目的地はファルハナだ」
「ファルハナ!」
「ああ、伯爵。やつらはファルハナの重要性をもう知っている。その知識を持ったウォデルの住人の知識を吸い上げたはずだからな」
「……ファルハナ」
これまで黙っていたバルタザールも呟いた。ファルハナは彼にとっても愛着のある町だ。
「ファルハナを奴らに取られ、奴らがファルハナの鉄砲職人たちをエルロッドの民に取り込んだとき、形勢は完全に逆転するだろう。三万人の新式鉄砲で武装されたエルロッドの民がファルハナよりこちらに攻めてくる。周辺の生き残りの街も吸収されれば、もはや我々に勝ち目はなくなる」
絶句しているミルザ伯爵に、リヨン伯爵は追い打ちをかけた。
ミルザ伯爵は街道をぞろぞろと歩くエルロッドの民となった元住民たちの尽きることのない行列を天守閣から眺めつつ、まだ言葉が出てこなかった。
「ウォデルの領主はあくまでもミルザ伯爵だ。この街の中での処置については伯爵の判断を優先しよう。しかし、四軍連合軍としては、これをそのままにしてはおけない。街を出たところで背後から急襲を掛けたい。どうだ!?」
リヨン伯爵は四軍連合軍の各責任者にそう提案した。
「リヨン伯爵、これを放っておけば銃騎兵隊を私に任せてくれたフィルポット一世陛下に叱られます。銃騎兵隊は単独でも奴らを皆殺しにします」
バルタザールは即答した。
「私もこれを見逃して、建国間もない新アンダロス王国の危機を看過したことになります。となれば、陛下はお叱りになるでしょう。バルタザール殿と共に参ります」
フエンテス将軍も否やはなかった。
「……し、しかし、あれは私の民だ!」
絶句状態からようやく回復したミルザ伯爵は声を絞り出すかのようにそう呻いた。
「……伯爵、もう、よそう。諦めよう。あの者たちは伯爵の愛する民ではなくなったんだ。分かってほしい」
マイルズはさっきのようにこの少年貴族を突き放すのではなく、諭すようにそう言った。
「マイルズ……」
「伯爵の領民を大切にする心は俺は尊いと思う。それを残った民に向けてほしいんだ。やることはいっぱいあるぞ。イクバル爺ちゃんに、この街に残った住民の中に潜んでいるに違いない白虫をあぶり出してもらって……」
「分かった! マイルズ、もういい。私が間違っていた。お前があれほど反対したというのに、天守閣を攻めきれなかったのは私の責任だ」
「伯爵、俺は責めているんじゃない。気をしっかり持て。やるべきことをしていこう」
ミルザ伯爵は黙ってうなだれた。
そこに天守閣のデッキでウォデルの西側を見張っていたエディスが駆け込んできた。
「大変だ。魔物の大軍がウォデルの西、五〇〇ミノル先に出現した!」
「大軍!?」
ミルザ伯爵にとっては正に追い打ちだった。
「銃騎兵隊を城壁上に配置!」
バルタザールはすぐに指示を出した。
「デッキは借りられますかな?」
フエンテス将軍がミルザ伯爵に訊ねた。
「ああ、将軍、もちろんだ」
「では、鉄砲隊は精鋭のみデッキに上がれ!」
次々に命令が下されて、兵たちが動き始めた。
エルロッドの民となった元住人たちの行列の先頭が、開け放たれた西門から街を出始めた。
門を閉めて、彼らの魔物たちへの合流を阻止することも、今なら可能だ。
「伯爵、門を閉めましょう!」
フエンテス将軍はそう提案した。この判断に関しては領主であるミルザ伯爵にゆだねられる。
「いや、門は閉めない。閉めれば街中で戦闘が始まるだろう。出て行ってもらえるなら、今を逃してはならない。隔離して共存など元々なかったのだ。これ以上の判断ミスを私は犯せない」
「では、我々は行列がすべて街を出た瞬間から狙撃を始めます」
フエンテス将軍はそう告げた。
「……ああ、そうしてほしい」
元住人たちを思う気持ちを振り払って、ミルザ伯爵が返答した。
◇
三万人の行列の全てが街の外に出るころには、行列の先頭は魔物たちに合流していた。
魔物たちは五〇〇ミノル先で布陣して、鉄砲の射程に入ってこない。この行列の護衛のために現れたようだった。
「閉門! へいもーん!!」
ウォデル西門のポートカリスが落ちた。
ウォデル奪還が多大な犠牲の末に達成された瞬間だった。
「攻撃開始! 飽和射撃を行え!」
バルタザールの命令に、城壁に配備された銃騎兵隊たちが発砲を始めた。すると城壁よりはるか上にある天守閣のデッキから、フエンテス将軍の旧式鉄砲隊も狙撃を始めた。
エディスもフエンテス将軍の鉄砲隊に混じって、いつもの持ち場であるデッキから射撃を始めた。
武器を持たない元住民たちは次々と射殺されていく。
この様子を事情が知らぬものを見れば、非情な大虐殺に映るだろう。
エルロッドの民となった元住人たちは無言のまま、魔物の大軍に向けて、鉄砲の弾丸から逃れるように散開して走り始めた。
三〇〇ミノルの距離を離れると、鉄砲の弾はなかなか当たらない。結局、街を出た三万人のうち、二万人以上が魔物軍に合流したように見えた。
「銃騎兵隊で追撃を掛けようと思います」
バルタザールはファルハナが気にかかっていた。彼は今、ファルハナが取られることによるイスタニア全土の状況を心配するよりも、ファルハナの元住民として、単純に街を守りたかったのだ。それは将軍としては失格かもしれない。しかし、この際、理由はどうあれ、あれらをファルハナに向かわせてはならないという点では同じだ。
「ミルザ伯爵の軍勢は街に残って、このウォデルの再建に当たってほしい。我々はバルタザール殿と行動を共にする」
リヨン伯爵も名乗りを上げた。
兵糧、補給線の問題もあり、結局、一万五千の新アンダロス王国軍は一度イルマスに帰還し、五千のみがファルハナ救援に当たることになった。ミルザ伯爵の軍はウォデルに残り、リヨン伯爵の軍も半数の五千をパディーヤに戻すことになった。
フエンテス将軍の新アンダロス王国軍が五千、リヨン伯爵のパディーヤ軍が五千、それにバルタザールのスカリオン公国軍銃騎兵隊五千の総勢一万五千がファルハナ救援軍と名付けられ、出撃することになった。
未だ混乱の中にあるウォデルで物資を補給することはなかなか難しい。
バルタザールの銃騎兵隊のみ先に出撃し、少しでも敵戦力を削っておくことになった。
◇
「敵は徒歩です。銃騎兵隊は背後から弾丸を叩き込んでは、後退を繰り返しております。もともと二万はいたと思われる魔物軍に三万の元ウォデル住人が合流して五万ほど。おおよそ半数を追撃戦で倒しました。街からの距離はかなり離れてきましたので、これ以上の追撃は補給の問題もあって難しくなりました」
バルタザールは副官に銃騎兵隊を任せて、一度、自身と護衛三人だけを伴って、騎馬で状況報告のため、ウォデルに戻って来た。かなりの数の敵を葬ったが、これ以上、深追いするのは輜重隊を持たない銃騎兵隊では不可能だった。
リヨン伯爵、フエンテス将軍も出撃の用意がちょうど出来上がっていた。身軽な銃騎兵隊と異なり、兵站を担う輜重隊なども抱えるパディーヤ軍や新アンダロス王国軍の運用には何かと準備に時間がかかるのだ。
「では、そろそろ魔物軍はファルハナを取り囲み始めたのではないか?」
ファルハナはウォデルからそう遠くない。そろそろ魔物軍が到着していてもおかしくない頃合いだった。リヨン伯爵はファルハナが自力でファルハナ救援軍が到着するまで耐えてくれることを祈っていた。
「伯爵、竜騎士です!」
そんなとき、デッキでいつものように見張りをしていたエディスが叫んだ。
ミルザ伯爵が空を見上げると、北東の空から飛来したワイバーン一頭がウォデル天守閣を二回ほど大きく円を描いて旋回した。
ミルザ伯爵はすぐにその意味を理解した。
「エディス殿、デッキに着陸させてくれ」
「分かった!」
エディスが大きい身振りで両腕を上げたり下ろしたりして、デッキへの着陸の許可を示唆すると、ワイバーンは天守閣の真上で急旋回して減速すると、器用にデッキに着陸した。
「ミルザ伯爵! これはいったいどういう……」
メルカドだった。着陸するや否や、既にウォデルが奪還されていることや、今、軍があわただしく動いていることに驚いていた。
「話はあとだ、メルカド殿。まずはリヨン伯爵たちに出撃してもらうのが先だ」
「メルカド殿、帝国やジンたちの状況をお聞きしたいのはやまやまだが、まずは急ぎなんだ」
バルタザールも面識のあるこの竜騎士にそう告げた。
「分かりました。ただ、状況は変わりつつあるのはここだけじゃありません。後ほど」
メルカドも帝国で起こっている変化を伝えにやって来たのだ。
◇
先行するバルタザールの銃騎兵隊五千を除くファルハナ救援軍一万はほどなくしてウォデルを出発した。
徒歩の救援軍に先行させ、リヨン伯爵、バルタザール将軍、フエンテス将軍の各軍総帥はメルカドとの情報交換のため、ウォデルに残った。騎馬で移動できる彼らはすぐに後から救援軍に合流できるはずだ。
メルカドは、各軍総帥の話を聞いて、ウォデルで帝国第一軍と同じことが起こったことに衝撃を受けた。
「で、マグノ砦の状況はどうなった?」
リヨン伯爵は、帝国がマグノ砦で魔物軍を釘付けにしているからこそ、イスタニアでの今の均衡状態が保てていることを当然知っていた。
「帝国第二軍は現在砦で魔物の大軍に包囲されております。皇帝陛下はここの死守を厳命されておりますので、撤退は出来ません」
「大軍? ここにも大軍を展開し、マグノ砦でも大軍を展開しておるのか」
リヨン伯爵は驚いた。虎の子の第二軍を帝国が失うことになれば、イスタニア北部は魔物、いや、エルロッドの民の世界になってしまう。
「はい。ですが、電撃弾のおかげで第二軍の被害も限定的です。ジン殿と離れて、帝国に戻るや否や、スカリオン公国との電撃弾輸入の交渉、交渉がうまく行って、その後は運搬に竜騎士全員が駆り出されてしまいまして……私も例外ではなかったのです。それでジン殿の元に戻ることが出来なくなったのですが、その甲斐もあって、第二軍はかなりの数の電撃弾を装備できることが出来ました」
「電撃弾……バルタザール殿が今回のウォデル奪還戦で対トロルに使ったものだな」
「ここでも使われたのですね。ええ、あれは強力です。対魔物戦の切り札と言っていい程ですが、如何せん数が用意できないのが難点です。腕のいい魔道具師と電撃魔法使いがセットで必要と言う、なかなかに難しい条件がありますので」
「ファルハナもそれを持っておると良いがな」
「ファルハナでも用意は始まっているはずですよ。もともとファルハナの技師たちとオーサークの魔道具師が、旧アンダロス王国の賢者のアイデアをもとに開発したものですから」
「そうか。……望みが持てた」
「望み、ですか、伯爵?」
「そろそろファルハナは魔物とこの街の魔物化された人間たちの大軍に取り囲まれておるだろう。ファルハナ救援隊が到着した時にはすでに遅かりし、とはなるなかと懸念しておったのだ」
「それがこの騒ぎだったのですね。分かりました。私は北東から飛んできたものですから、全く状況が分かっておりませんでした。ちょっとファルハナまで飛んで行って、戦況を見てまいります」
「『ちょっと』とな。そんなに簡単に行けるものか?」
「ええ。ワイバーンの速さなら半日で行って帰ってこれますよ。ただ、もし、敵が空の戦力を使っていたら近づけないでしょう。その場合は遠くから見た感じになりますが……」
「いや、それでも大助かりだ。頼まれてくれるか?」
「お安い御用です」
メルカドはデッキで待たせておいた愛騎ナディアに跨ると、すぐさま飛び発った。
メルカドを見送った後、エディスが言いにくそうにしながらも口を開いた。
「ミルザ伯爵、私も行かせて。ファルハナには私も思い入れがあるんだ」
「エディス殿を家臣にした覚えはない。自由にすればよい」
「なんか、寂しい言い方しないでよ、伯爵。私は伯爵の家臣のつもりでいたよ。伯爵が困ったら、またメルカドさんに頼んで私にそれを伝えてよ。必ず帰って来るから」
「……ありがとう、エディス殿」
「殿、は、いい加減やめてよね。エディスでいい。伯爵、じゃ、私も出発の用意をするよ」
◇
メルカドが西の空に飛んで行って一テッィク後、リヨン伯爵、バルタザール将軍、フエンテス将軍たちも自分の軍団に追いつくべくウォデルを出発した。
エディスもそれに同道した。
三ティックも駆け通しに駆ければ追いつくだろう。
ファルハナがまた戦に巻き込まれようとしている。かつてバルタザールはファルハナの技術移民団に混じって街を出たのだったが、今、そこに向かうことに不思議な運命のあやを感じていた。
エディスはファルハナの危機に際して、ラオ男爵の顔を思い浮かべていた。が、ラオ男爵が魔の森を超えた遥か彼方、アスカの地にいることを思い出した。
(ラオ男爵のいないファルハナか……いや、それでもいい。あの町は私が守る)