142. 第一軍【簡略地図あり】
「なあ、ファウラー殿、やはり帝国とは戦いたくないな」
ジンはそう小声で隣にいたファウラーに言った。
「やはり、イスタニア最大の軍事大国は伊達じゃないな。ただ、そんな帝国ですら、ゲトバール周辺にまで押し込まれているとは」
その会話を近くにいた老騎士ガルナーが聞いていた。
「なに、心配は無用だ。帝国とは帝都。帝都が帝国なのだ」
ガルナーのその言葉に、ジンもファウラーもただ首を傾げた。
「帝国の人口、三百万人。その半分以上がここ、帝都に住んでおる。殿下がおっしゃられた通り、今は食糧安保の問題からすると非常にまずい状況ではあるが、南部農村を解放できて、アンダロス北部穀倉地帯からの輸入が確保できれば、帝国は盤石だ」
「ガルナー殿、それですが、そのアンダロス北部穀倉地帯が今、非常にまずいのです。すでに魔物の侵入も許してしまいました。これはたぶんサワントの銃騎兵隊が何とかするでしょう。しかし、ウォデルが破られれば、その限りではありません」
「のう、ジン殿、もはや、国同士争っている場合ではないですな。この食糧安保問題があって、我が帝国はイルマス侵攻を決定したが、北部穀倉地帯がなくなれば、そもそもイルマスに何の意味もなくなってしまう。同時に、帝国は南部農村の穀物だけで三百万を食わせていかなければならなくなる」
「それは可能なのですか? ガルナー殿」
「いや、無理だな。せいぜいその半分も食わせられればいいところだ。帝国、という国は実は貧しい国なのだ。北部は作物を育てられない寒い土地だ。それに土地も痩せておる。イスタニア湾に近いところはまだ牧畜が可能だが、それも小規模だ。南部農村の国内生産、それにパーネルやイルマスからの食料輸入がなければ、国民を食わせて行けないのだ」
「漁業はどうなのでしょうか?」
「イスタニア湾の漁業は活発だ。しかし、北海はほとんどの季節、氷に閉ざされておって、そうもいかん。いずれにしても魚だけで三百万の民は食わせては行けんぞ?」
「まあ、そうですね。拙者の故郷でも漁業は盛んでしたが、コメやヒエ、それにアワ、あとは芋ですね。そういった穀物がなければ三千万人の民は食わせてはいけませんでした」
「三千万! そこもとの国はそんなにも人がいたのか?」
「ええ、特に驚いたことはありませんでしたが、はい」
「イスタニアにはそんな国はないぞ!? 我が帝国が最大の国家である」
「ええ、存じております。拙者の国がこの世界には、その、なんと言うか、見当たらないのです……まあ、これは拙者の個人的な問題なので、ここでどうこう言っても始まりません。しかし、そんな事情のところにこの魔物の襲来ですか……」
「え? ああ。魔物にとっては西部や北部の侵攻はまるで無人の野を進むに等しいほど容易なものであったはずだ。だが、ここ、ゲトバールは違う。これ以上は絶対に近づけさせない」
老騎士ガルナーはジンの出身地の話が不可思議な説明で終わったことに、一瞬戸惑ったが、気を取り直して、自分に言い聞かせるようにそう宣言した。
すでに二万の兵が巨大な城塞都市、ゲトバールの街の門を出た外で隊列を整え始めていた。
「ジン、お前はすぐ北部に向かいたいのであろうが、それは無理なのは分かっておろうな?」
ベラスケスがジンに話しかけた。
「ええ、いや、それは正直、分かっておりませんでしたが、さっきの殿下のご演説で理解いたしました」
「南部農村地帯。ここに魔物が入り込んでおる。ここを解放するのがまず最初の目標だ。バハティア公国国境近くまで西進して、農村を解放していく。解放後、今は二万いる兵も一万を農村の守りに置いて行く。その後、鉄砲五千丁を持つ一万の兵で北進する。これから真冬だ。帝国の冬は厳しいぞ」
「はい、それも思いました。これでは北上など不可能だと」
「ああ、だから先に南部農村の解放なのだ。そうこうするうちに、春になるだろう。それからの北上になる。お前は夏に間に合えばいいのだろう?」
「はい」
実際問題として、この真冬での北上は不可能だ。寒すぎて、野営が出来ないのだ。
ゲトバール周辺ですら野営は熾烈を極めた。横殴りの雪の中、無数の天幕を張る。兵たちは良く働いた。ジンたちも自分たちのことは自分たちで何とかしようとするが、極寒の地での用意はやはり帝国兵が一枚も二枚も上手だ。
「ジン殿、その天幕じゃ朝には皆凍え死んでおられます。天幕の予備がありますので、それを張って差し上げましょう」
「か、かたじけない」
極寒の地で、ジンたちはただ自分たちの無能さを披露しまくっているなか、ツツだけは違った。ツツの姿が見えないな、と思っていたら、どこからか、ツツが鹿を狩って、それを引きずって帰って来た。
「ツツ! お手柄じゃないか!」
ジンはツツを褒めた。ツツの有能さを褒めるしかなかった。
「鹿さんには悪いけど、この寒い中、鹿で鍋とか旨そうだね」
「あとはあるのは芋か、うん、芋と鹿の鍋だね」
「ほとんどの兵が干し肉をかじっているんだ。贅沢は言えんぞ」
「で、誰が鹿を解体するんだ」
「俺に任せろ」
やはり十三人もいれば誰かが何かが出来る。あっという間にファウラーがきれいに鹿を解体すると、ジンがその肉を食べやすい大きさに切り分けて、ニケが塩と臭み消しの薬草を鍋に放り込んだりしている間、エノクが火を起こしている。
案の定、マルティナはまるで手伝う気もないし、手伝う能力もないのだろう。天幕の中でツツの口に着いた鹿の血を拭き取ったりしている。まあ、これも仕事と言えないこともない。
手柄のあるツツは大きな肉の塊に齧り付き始めた。
「せっかく血ををぬぐったところなのに!」
マルティナはそう言うが、ツツにしてはいい迷惑でしかなかった。
その間、皆は、大きな火を寒風の中で起こして、鹿肉を十分に煮たてた後、天幕の中の囲炉裏に鍋ごと運び込むと、皆、自分の器に芋鹿鍋を移し始めた。
「おお、うまそうではないか」
蝋で防寒性、防水性を高めた布製の天幕の出入り口が突然開くと、驚いたことにベラスケスがアティエンザとガルナーを連れて入って来た。
「「「で、殿下!」」」
皆一様に驚いて口を付いたのは、ただそれだけだった。
「どれ、余にも食わせろ」
「殿下、こんなのは皇族の方に食べていただけるような……」
「アホなことを言うな、ジン。余は前線に立つ将だぞ。魔物の肉でさえ食いながら、飢えをしのいだことだってある。どれ、食わせろ」
「では、どうぞ……」
「うまい! こんな鹿なぞ、どこにいた?」
「いえ、それは分かりません。このツツが」
「ああ、お前の狼だったな。優秀な狼だ。おい、ツツ、余に仕えぬか?」
驚いたことにツツは、ベラスケスにそう言われると、彼に歩み寄って、顔をひと舐めした。
「お、おい!」
ベラスケスも驚いた。いや、ジンとニケが一番驚いた。しかし、ひと舐めの後、ツツはジンの隣に来て、そこでお座りをした。
「ははは! そうか、ジン、この子は賢い奴だな。俺に親愛の情を示しつつも、お前がボスだ、と言い切ったのだな? な? そうであろ?」
「殿下、拙者も狼の言葉は分かりませぬが、そのように映ります」
「考えてみれば、お前は本当に良い仲間に恵まれておるな。余もローデスやアティエンザ、それに爺や、家臣には恵まれておるが、お前のはそれとは違うようだ」
「殿下、拙者もそう思います」
「ジン、お前の故郷の話は出来るか?」
「はい。殿下は拙者の故郷のどのようなことがお知りになりたいですか?」
「そうだな、まず、どんなところだ?」
「拙者の国は会津という国でした。美しい山々に囲まれた内陸の雪国でした」
「そこに三千万人もいたのか?」
「え? ああ、そうではありません。会津は言わば領主の領地です。国という言葉は難しいですね。大きな意味での国、それは日本と言いました。三千万の民が住む島国でした。大きさとしてはそうですね、イスタニアよりは小さいです。南北が三千ノルほどの距離はありましたが、細長い島国です」
「そんな小さな土地に三千万もの人が住んでおったのか?」
「はい。ですが、戦になりました」
「どことだ?」
「内戦です。私はその内戦の最中、気が付けば魔の森のほとりの森で、このニケに助けられたのです」
「なんだ、ジン、お前のその話を聞けば、お前の国の在処がいま分かったぞ。簡単な話だ」
「殿下! そうなのですか!?」
「ああ、お前の国は魔の森の向こう側にある」
「……? 殿下? 魔の森の向こうはアスカです」
「そんなことは余にだって分かっておる。そうではない。魔の森は、なんと言うか、いや、やめよう。アティエンザや爺やが心配する。余が狂ったとか言い始めかねない」
「殿下、気になります。推測でも構いません。殿下のお考えになる魔の森をお教えください!」
「そうだ。あくまで推測だ。余は狂ったのではないぞ。いいか、ジン、それにアティエンザ。ジンが魔の森の近くでニケに助けられた。これに嘘がないのであれば、ジンの故郷は魔の森の向こうにある。……これは分かるな?」
「いえ、分かりません。拙者は目が醒めた時、周りの景色を見渡したのです。それまで戦っていた場所と言うのはフシミという場所でしたが、地形から何から全くの別の場所になって驚いていたのです」
「だからだ。ジンが倒れていたところ、その近くに何らかの通り道がある。論理的に考えろ、ジン。それがなければどうやってお前はここに来たというのだ?」
「それは、その、その通りなのですが……そんな通り道のようなものは……」
「当たり前だ。街道のように、これと分かる道であれば、もっと多くの者共がお前の国からここにやってきているはずだ。しかしな、何らかの道がある。そして、お前の通って来た道は見えなかったが、見えるほどに大きな道が開いて、そこから何かがやってきているのではないか? 余は最近そう思えてならぬ」
「殿下、では、魔物は異世界から来ていると!?」
「いや、そうではない。魔物を操る何かだ。それが異世界から来ておるのではないか。魔物は昔から魔の森に普通にいたし、時には人里にまで出てくることもあった。ん? いや、待てよ、魔物もそうか!」
「殿下?」
「うん。魔物自体が異世界から来ているのかもしれん。お前が言うまで気づかなかった。そうなんだ。魔物は昔からいたが、常に魔の森から出てきた。実は昔から小さな道が開けていたのかもしれん。だから数が少なかった。今は無数に出てきているのは、道が大きくなったからではないか? あるいは意図を持って多くの魔物を送り込んでいる、という可能性はないか?」
「では、殿下はその道を封じれば、イスタニアから魔物はいなくなる、と」
「ああ。しかし、あくまで推論だ。見てきた話ではない。あるいはこちらから、魔の森の向こうにある異世界、いや魔界と呼んだ方が良いか、そこに攻め込んで相手の大将を討ち取るか、だな」
「稀有壮大な話ですね」
「あははははは。まあ、あれだ、昔、子供の時分に読んだ英雄譚に余は多分に影響されておる。しかしな、ジン、お前がその英雄なんではないかと余はちょっと思ってみたりもする」
「殿下、ご勘弁ください」
「まあ、いいさ。うん。馳走になった。これは礼だ。ほれ……明日に響かない程度にしておけよ」
ベラスケスはそう言うと、帝国原産と思われるワインのボトルを二本置いて去って行った。
◇
南部街道と言われる、帝国南部の西と東を結ぶ街道を西に進むにつれて、魔物との遭遇戦が増えてきた。しかし、敵の密度は低く、五千の新規輸入分と既存の千丁を併せて鉄砲六千丁を備える北征軍の敵ではなかった。まさに鎧袖一触。数百程度の敵はただその骸を野にさらすばかりだった。
ただ、ベラスケスによると、ここから二百ミノルも西に行くとそうもいかなくなるらしい。主敵がオーサーク周辺でも見られたゴブリンやオーガではなく、空の敵になって来るという。
鉄砲二千丁を備えた第一軍、帝国第一王子シャイファー、ベラスケスの実の兄が率いる軍は苦戦を強いられているらしかった。
第二軍、つまり北征軍は南部農村地帯の解放、そして、更に西進し、第一軍と合流、これを援けて、マグノ砦の奪還。奪還後、魔物を殲滅しつつ、北上する計画だった。
「ジン、兄上にお前を会わせたい。兄上はな、本物の英雄だ」
「シャイファー第一王子殿下、とおっしゃられましたか?」
「ああ、シャイファー、それが兄上の名だ」
「素晴らしいお兄上をお持ちの様で、うらやましく思います、殿下」
「ああ、お前もきっと兄上を好きになるはずだ。兄上はな……」
そう言って話し始めたベラスケスはまるで少年のように嬉々として、いかに自分の兄が優しく、そして武術に優れ、次代の皇帝にふさわしく、国父として帝国三百万臣民の父になるお方だ、自分はそんな英雄の弟であることを誇りに思う、と息もつかずに話した。ジンは、興奮して話すベラスケスを前に、ただただ頷くしかなかった。
ベラスケスは最後に、
「兄上を助けるのだ」
と、決然と言った。
◇
ジンたちがベラスケスの第二軍――北征軍――と帯同して、南部農村地帯の解放に尽力し始めてすでに一カ月がたった。
ここ、帝国での魔物との戦いはオーサークやウォデルでの戦いと違っていた。
農村を襲うのはゴブリンにオーガ、それにときどきトロルというのは同じだが、あたかもそれらの魔物を支援するように空からの攻撃が加わるのだ。
ワイバーン。
やっかいな魔物だった。ジンがイメージする伝説上の生物である竜というよりも、実際のワイバーンは巨大な猛禽類と考えた方がしっくりくる。
上空から獲物である人馬を見つけると急降下して、後肢の鍵爪でそれらを攻撃する。さすがに馬は持ち上がらないが、人間程度の軽さならそのまま上空に連れ去ることだって可能だ。
一度、高空まで連れ去られたが最後、抗えば地面に叩き落されてお終いだ。そんな状況を防ぐには、ただ、捕まらないようにすることと、降下してくるワイバーンを鉄砲で叩き落すしかない。
もともとワイバーンは人間に対してこれほどまでに敵意を向ける魔物ではなかった。竜騎士などはそんなワイバーンを飼いならして、パートナーにしているほどなのだから、これらワイバーンは何かがおかしいのであろう。
第二軍の兵士たちはおよそ三人に一人が鉄砲で武装しているにもかかわらず、その多くが地上の敵に集中している間に、上空からの攻撃で命を失っていた。
「ジン、上空!」
ジンの後方、約十ミノルを騎馬で駆けるファウラーが大声で警告した。
「ファウラー殿! かたじけない!」
ジンはオーガたちを相手にするのに夢中で上空を見ていなかったが、ファウラーの声に視線を空にあげた。
「ふん!!」
ジンはそう唸って、会津兼定を空に向かって一閃した。
◇
南部農村地帯の村々を解放しつつ、西進する第二軍は、村を解放するたびに、そこに、村の規模に応じて、一から三中隊規模の守備兵を置いてきていた。言い換えるなら、村々を解放するたびに第二軍は数を減らしていたのだ。当然戦死者も少なからずいた。その上、西に向かえば向かうほど、魔物の密度が高くなってきていて、当初の鎧袖一触的な余裕はなくなりつつあった。
すでに雪で真っ白の平原に黒いシミのように見える魔物の大群が遠くに見えた。上空には数十匹のワイバーンだかルフだかの空の魔物も見える。
第二軍は既に一万にまで数を減らしていた。そして、遠く、雪原の上に、無数の魔物が陣形を展開し始めた。
「いよいよ、これが敵の本隊なのかもな」
ベラスケスがそう呟いた。
「殿下、しかし、拙者の目にはあれらは騎馬兵に見えます」
「ん? いや、魔物は馬には乗らんだろう?」
「拙者、目が良いのです。殿下には見えませんか?」
そうこうするうちに距離が数ノルにまで近づいてきた。
「そうだ! あれは騎馬だ! 第一軍か!」
「しかし殿下、第一軍ならなぜ空にワイバーン共を引き連れているのですか?」
「それは、ジン、竜騎士たちに決まっている」
「しかし、数十匹……数十騎はいます」
「ああ、ジン、竜騎士の数は帝国の力そのものだ。見よ! あれが兄上の第一軍だ!」
そう話しながらさらに進むと、相手方の様子もより詳しく見え始めた。
「……殿下、ワイバーンに誰も乗っておりません」
ベラスケスよりは遠目が利くジンがそう彼に告げた。
「どういうことだ!? なぜ第一軍が竜騎士ではないワイバーンと共にいる?」
「……拙者には分かりません」
ジンはそうとだけ言うと、ベラスケスと並べていた愛馬マイルを少し後ろに下げて、ノーラやファウラー、それにマルティナたちに近づいた。
「ファウラー殿、みんな、なにか様子がおかしい」
「ああ、ジン殿、妙だな」
「ジン、なんで帝国軍が魔物と一緒にいるの?」
マルティナも怪訝な視線を遠く第一軍に向けたまま、ジンに呟くように訊いた。
「分からない。……警戒は解くなよ」
明日一日、休載になります。




