138. ナッシュマンの気持ち
「ジン、ノーラ殿、ナッシュマン殿、それにニケ、お疲れのところ、すまない」
まず、インゴはジンたちにそう詫びた。
一晩明けて、ジンたちは領主館のインゴに会いに来ていた。
シュッヒ伯爵は所用で不在、とのことだった。
「インゴさん、大したことではありません。しかし、いろいろありすぎて、何から話したらよいものか……」
「そうだな、ではまずこちらからオーサークの状況を話そう。ここ一月、魔物の襲来はなくなっている。いま、サワント公国軍を中心にアクグールの奪還計画が進んでいる」
「魔物の襲来は全くなくなっているのですか?」
「ああ、ない。一月前までは活発にオーサークに攻めてきていたが、ついに実用化した大鉄砲の前に、魔物どもはただただ骸を晒すだけだった。そんな時期が二月ほど続いたが、一月ほど前にピタリと攻撃が止んだ。儂は不思議に思って、竜騎士ライナス殿に街道の西を空から見てもらった。それで魔物の南下が始まったことが分かったのじゃよ。サワントの銃騎兵隊をあのタイミングで出撃させ得たのはそういう経緯があった」
大量の魔物が、一斉に目標を変更して同時に動き始めたということだ。例によって、何らかの意思が働いていたとして、魔物にどうやってその意思を同時に伝えたりできたのだろうか。ジンは疑問に思わざるを得なかった。
「国境街道上にいた魔物たちが一斉に南下を始めた、と?」
「ああ、そう言うことになるな」
「一斉に……どうやってあんなに広範囲に散っている魔物が一斉に南に向かい始めるなんてことが可能なんでしょうか?」
当然インゴにもわかるはずはない。
「儂にもわからんよ、それは」
「……インゴさん、魔物の一斉南下の謎はひとまず、置いておくしかないでしょう。それで、アクグールの奪還とはどういうことなんでしょうか?」
「当然だが、やはりサワントの連中は故国回復を目指している。アクグールを奪還できれば、そこを橋頭保にサワントの魔物を蹴散らすつもりなのだろう」
「しかし、アクグールはオーサークから遠すぎます。そんなに長い補給線をどう守るのです?」
「まあ、現実的にはジンの言うとおりだ。悩みどころだ」
「拙者の街道案は聞いていただけましたか?」
「ああ、チラッとな。ジン、お前の口からもう一度説明してくれるか?」
「ええ。アクグールを取るなら、その前にこれの方が現実味があります。オーサークとアクグールのちょうど中間地点の国境街道上に新しい砦を作ります。そこから南に北部大森林を抜ける街道を整備し、芋の道と国境街道を南北につなげます。これで、陸上の食料補給線が出来上がります。オーサークにとっては港町イルマスを介さずに食料を直接北部穀倉地帯から輸入できます」
「なるほどな。イルマスを牽制しつつ、オーサークより更に西で魔物を抑え込む。悪い案ではない」
「はい。それに、ファルハナの復興にはこれが絶対に必要なのです。芋の道はアクグールまで行けば魔物だらけになって来るのでしょう? 国境街道から北回りではファルハナに食料を供給できません」
「しかしな、そもそもの話だが、ファルハナの復興は絶対に必要なことか?」
ファルハナの復興が必要かどうか。それを説明するには帝国の状況から話す方が理解されやすい。
「……帝国の現状はいかがですか?」
「ん? ああ、良くないみたいだ。鉄砲を送れと四六時中せっつかれておるよ」
「はい。だからファルハナは必要なのです。オーサークは帝国に鉄砲弾薬を供給するのに手いっぱいでウォデルにまで鉄砲を持っていけません。そもそも持っていく道もありません。鉄砲がなければ、早晩、ウォデルは魔物の手に落ちるでしょう。ウォデルが落ちれば、北部穀倉地帯はお終いです。いま、サワント銃騎兵隊が穀倉地帯に入り込んだ魔物の索敵殲滅の任についていますが、そんな規模ではない数の魔物がウォデル大橋を渡って、穀倉地帯に入ってくるようになります。そうなれば……」
「分かっておる。だから鉄砲隊一〇〇人と付随する弾薬をウォデルへの援軍に出したのだ」
「インゴさん、正直言って、今、オーサークに一万以上の鉄砲があって、向こうに百丁程度しかないのは、ちぐはぐと言うか……」
「それはジン、オーサークがつい一月前まで対魔物戦の最前線だったことを忘れておるぞ」
「ウォデルは未だにそうです」
「……まあ、わかった。陛下に一度話を通しておく。それで、お主からの報告もあるはずだ。魔物の動きが変わった、と聞いておるぞ」
「はい。これは少し信じがたい話なのですが……魔物が戦の陣形を組んでまいりました。しかもかなり高度な陣形です」
「やはりそうか」
「え? オーサークでもそんなことがあったのですか?」
「いや、そうではない。しかし、魔物たちが一斉にオーサーク攻めから撤退したのだぞ。何らかの意思がそこには見えるではないか」
「意志……まさにそれです。ここのところ、それをずっと感じながら魔物と対峙してきました。あれは魔物ですが動かしているのは、いわゆる魔物とは思えません。まるで人間、しかもかなり優秀な軍事専門家のような存在が動かしているようにも見えます」
「……やっかいな」
「ええ。インゴさんのほうで、帝国における魔物の動きを聞いておられますか?」
帝国でも魔物の変容は起こっているかもしれない。ジンはそれを確認したかった。
「少しはな。ただ、いまジンが話したような内容はまだ聞いておらん。ただ、帝国はかなり劣勢の様だ。オーサークでは見られない魔物の種類もいるようだ」
「と、言われますと?」
「まずはワイバーンやルフと言った空の魔物。これらはこちらでも少しは見るがあまり直接的な脅威にはなっておらんのはお主も知っておろう。だが、向こうではそうではないようだ」
「それはどういうことですか?」
「まず、空の魔物の数が違う。ワイバーンなど、オーサーク周辺では目撃しても数匹だ。しかし向こうでは竜騎士が空に上がれないほどの数のワイバーンが魔物の中にいるようだ。その上、こちらでは見たこともない空の魔物もいるらしい」
「どんな魔物なのですか?」
「儂も聞いただけであまり良くは分からない。何と言ったかな、ガーゴイル? そんな名だったと思う。ジンには心当たりはあるか?」
「いいえ、まったく分かりません」
「そうか。まあ、羽のある空飛ぶオーガのような物らしい。そんなのも敵に加わっていて、弾薬がいくらあっても足りないらしい。今、鉄砲はこちらで作っても火薬と薬莢自体は向こうで作れるように手を回している」
「インゴ殿、よろしいでしょうか?」
突然、ノーラが口を開いた。
「ノーラ殿、何かあればぜひ考えを聞かせてほしい」
「その、考え、というのではないですが、ガーゴイルという魔物、聞いた、というか書物で見たことあります。幼い時のことですが、書庫でそんな伝説上の魔物を記した書物に夢中になっていたころがありました」
「伝説上の魔物?」
ジンは思わずノーラの言葉を繰り返した。
「ああ、ジン、私が見たのはそうだった。ゴブリンやオーガのように実際にいる、と言うものではなく、伝説上の魔物、というような文脈で絵と共に提示してあったと思うぞ」
「インゴさん、だとすると、そんなものまで出てきているのですか?」
「いや、分からん。儂も見たわけではない。ただ、竜騎士たちが行ったり来たりしている中で、そう言う情報がこちらに来た、と言う程度だ。ただ、それが誠の話だとすれば、まるでこのイスタニア全体が異世界に飲み込まれようとしているような話ではないか」
「……異世界、ですか」
「ジン、お前自身もその異世界から来た可能性もあると儂は聞いたぞ」
「インゴさん、それは拙者自身にとっては、確証の持てる話ではありません。ただ、拙者の故郷に帰る方法がこのイスタニアには見当たらないのは確かです。それに、故郷では、すでに世界中の国の存在がおおまかには分かっておりました。その中にイスタニアなどという大陸はありませんでした。と、いうことは、インゴさんの『異世界』と言う言葉は確証はなくとも正しいのかもしれません。……だとすると、このイスタニアは異世界からいろんな存在が流れ着いてきている、と言うことになります」
「それだ。儂が考えていたのは、まさにそれだ。帝国の伝承やスカリオン公国でのコヅカ様の伝説はお主も聞いたであろう? この大陸ではそんなことがずっと起こり続けていたのではないか?」
「魔の森……」
ニケが呟いた。その原因は魔の森なのではないか、とニケはふと思ったのだ。
インゴをそのニケの呟きに一瞬だけ注意を向けてから、続けた。
「まあ、なんというか、何にしてもよくわからん話だ。しかし、これはあくまで儂もった印象だがな、魔の森かイスタニアのどこかで地獄の釜の蓋が開いているのかもしれんな。そこを介してお前のような存在や、イスタニアを害しようという存在、そんなものがここに流れ込んできていて……いや、これは卵が先か鶏が先かはわからんが、イスタニアは今、それ自体が地獄の釜になっておるのかもしれん」
「インゴさん、地獄、ですか……いずれにしても、ファルハナを復興させ、鉄砲の力で悪意を持った連中を殲滅する。それが今できる最大限のことと拙者は考えます」
「……分かった、ジン。儂なりにもう少し考えてから陛下に上奏してみよう。そうなると、新アンダロス王国というのは若干やっかいになって来るな。スカリオン公国としては帝国のイルマス攻略を黙認する約束をしておるのでな」
「インゴさん、そんなことは魔物を退けてから考えればいいことです。帝国はすでにオーサークと停戦した時に考えていたことなど今の時点ではもう露ほども考えられない状況になってしまっていても不思議ではありません。それほどまでに追い詰められているのですから」
「まあ、確かにそうだな。うむ。ジン、分かった。お前はお前の、その〈役目〉とやらに突き進め。儂は陛下を何とか説得して、新街道案を実現して見せよう。その程度のこと、この老骨にでもなんとか出来るはずだ」
「どうか、お願いいたします」
ナッシュマンは一言も発することがなかった。
ナッシュマンは、ガネッシュにノーラの身を守ることが第一義ではないぞ、と言われて、その場では一応の理解を示した。
しかし、実際のところ、大切な『お嬢様』の命よりも高い優先順位の事柄をジンが抱えている、ということを本当の意味で自分が理解して来ようとしていなかったことに今気づかされた。
そして、スカリオン公国のほぼ全権を持つ、この老貴族とジンの話を聞いて、ようやく自分の理解のなさを理解した。そして、何も口にすることが出来なくなっていたのだった。