126. アスカへ【簡略マップあり】
「って、ジン、ツツはどうするの? 魔の森は通れないって!」
「ならツツはここに置いて行くといいさ。儂がしっかり面倒を見るから」
すかさずカーラがそう言ったが、ジンの返事はカーラにとっては期待外れのものだった。
「カーラ、その、すまないがツツは連れて行く。ニケ、俺もちゃんと考えてある。帝国から北の海を回る。パーネルから船で帝都ゲトバールに行く。帝都から北に帝国を縦断すると、北には夏の間だけ使える港、メドゥリンという街があるらしい。そこからアスカに渡るつもりだ」
ジンはこの間、ずっとイスタニアの地理に詳しい兵からそのあたりの話を聞いていた。魔の森を通らずともアスカに行く方法はある。まだ王都ダロスが健在だったころには南からアスカに渡ることもできた。ジンは、今ダロスがどうなっているかの情報は持っていなかったが、いずれにしても、津波で壊滅した港町からアスカに渡ることを期待することはできなかった。
「ジン、私も行く」
ノーラの突然の言葉に皆はあっけにとられた。
「ノーラ、俺はまったく構わないが、いいのか? ファルハナの復興はノーラにかかっているんじゃないのか?」
「ジン、何を言っておる。私は何もしていないぞ。ほとんどの道筋はそなたが付けて来たではないか。それに沿って、いまやファニングス、ドゥアルテ、それにシャヒードがほとんどの実務をやっておる。それに、ラオ家は別にファルハナが欲しいわけではない。ただ貴族の義務としてファルハナを守って来ただけだ。……それに父上もいるからな。そもそも隠居するのが早すぎたんだ。男爵位……アンダロス王国がなくなった今、そんなものに価値があるとは思えないが、それも父上に返上しようと思っていた」
ニケはノーラの話をじっと聞いていたが、ここで口を開いた。
「ノーラさん、一緒に来てください。その、なんて言うか、バカバカしい話に聞こえるかもしれません……でも、なんだか、この光景は見たような気がするんです。この光景を今、実際に見るまで、記憶の奥底で眠ってたみたいだけど、アスカを発つ前、おばばから巫女の儀式を授かった時、私、寝落ちしてしまって……その時、夢で見たのが今のノーラさんの言葉とこの状況のような気がするんです」
急に提示された神がかりな話に皆、無言でどう反応していいか分からない様子だったが、そこは元気なマルティナがその妙な沈黙を破った。
「神のお告げ?ってやつ? まあ、いいじゃんか。ラオ男爵もいっしょに行こうよ」
マルティナも一緒に行くことが、彼女の中で前提になっているようだった。
「ああ、そのつもりだ。ジンが拒まぬ限りな」
「ノーラ、俺はもちろん拒まないが、ただノーラの身を心配している」
「それは私も同じだ。ジンの身を案じておる。だから行く」
二人だけで変な空気を醸し出し始めた。ヤダフはたまらず口を開いた。
「おいおい、そういうのは別のところでやってくれ。鉱山は稼働し始めたのか? 工夫もいないのに。鉄がなければ、俺らは仕事にならないぞ。その辺りを片付けてからアスカなり帝国なりに行ってくれ」
「ヤダフ、それは大丈夫だ。遺体の回収よりはよっぽどこっちのほうがいい、と言って、アジィスの兵たちが今は工夫になって採掘に回っている。連中、なかなか筋がいいらしいぞ」
近衛兵、というからには、貴族の子弟も混じっているはずだが、もはややけくそなのかもしれないし、生きるためには仕方がないと達観しているのかのどちらかだろう。
「なら、ジン、みんなを連れて行けばいい。行って、お前自身の謎を解いてこい」
「俺自身の謎?」
「すっとぼけたってこっちはもうお見通しだよ。この異世界人が」
もはや、ジンが異世界から来たことはヤダフやモレノの共通認識になっていた。ノーラもその辺りは、信じがたいこととして、これまで考えないようにしてきたが、もうそうであるとしか思えなくなっていた。
「分かった。ノーラ、君の言葉で俺は気づいたんだ。あの魔物の数、攻撃性、組織立った動き、全ての異常さに気づいたんだ。異常と言えば、もっとも異常なのが俺の存在だ。この二つの異常さは絶対に何らかの形で結びついていると今は確信している。だから行く」
「それは私が付いて行っていい、ということでいいのか?」
「もちろんだ。でも、ノーラ、知っていてほしい。この俺の判断がどういう結果を招くのか、俺には全く分かっていない」
「そんなことは私の方がお主よりよっぽど経験している。ファルハナのざまを見れば私の言っていることは分かるはずだ」
ノーラが言っているのは、あの時、ノオルズ公爵にこの街を明け渡さずに戦っていたら、あるいはこの街の人たちを魔物の手から守れたのかもしれない、という後悔だ。ある判断がそれによって導かれる結果をもたらす。あの時こうしていたら、ああしていたら、ということは誰にだっていくらでもあることだ。
「だから、ジン、どんな結果になったって、それは受け入れるさ」
ジンがノーラの言葉にただ頷いていると、マルティナがまた口を開いた。
「今は所属の隊の関係でウォデル弓兵隊と一緒に兵舎にいるけど、今の話を聞いたらリアとエノクも絶対に付いて来るって言い張るはずだね」
(そう言えば、あいつらのことは忘れていたな。しかし、今やすっかり弓兵隊になじんでいるはずだから、来ないかもしれないな)
ジンは口には出さずにそんなことを考えていた。
◇
「ジンがアスカに?」
翌日、マルティナは領主館の兵舎に寝泊まりするリアに会いに来ていた。
「うん。私も一緒に行くんだけど。リアはどうする?」
「行くに決まってるじゃない。グプタ村にいたころから、いつかジンと冒険の旅に出るのが私の夢だったんだから」
リアが即答していると、近くにいたエノクがマルティナとリアが何か話していることに気が付いて近づいてきた。
「マルティナ、久しぶり。今日はどうした?」
エノクが普段兵舎になんか来ることのないマルティナを見て訝しがった。
「うん。ジンがね……」
マルティナはリアに説明したことを繰り返した。
「俺も行く。リアだけ一緒に行かせるとか、絶対にありえない。それにオーサークも通るんだったら、クオンさんやトマにも会えるし」
父親サミーを失って、もはや家族と言えるのは同郷のリアやリアの両親と姉弟くらいしかエノクにはいなかった。
「ははは。やっぱりね。絶対来ると思ってたんだよ。でもよかった。あんたらがもしかしたら弓兵隊が居心地がよくって、ファルハナに残る、なんてことを言うかも、ってちょっとは思ったんだよね」
「まさか。そりゃ、弓兵隊のみんなは良くしてくれるけど、ジンが行くなら私は絶対に行くよ」
「俺だってそうさ」
◇
同じころ、ノーラもガネッシュと自分の騎士たちと向き合っていた。
「父上、どうか許していただきたいのです」
「家督を放棄する、とな」
「それは……一時的に、です。絶対に帰ってきます。今はラオ男爵ではなく、ノーラとして生きたいのです。あの地下牢にいる間、ずっとこれまでのことを考えていました。ずっとこれまで人のために生きてきました。家のため、街の人のため……でも、父上と母上の命、尽くしてくれている騎士たちの命、それ以外は何も残りませんでした。ウートンも亡くなってしまった。父上、二年! 二年です! 私は私のために生きたいのです」
「ははは、ノーラ、ちょっと試してみただけだ。そう鯱張るな。男爵位などに、このお前の父がこだわるとでも思うか? しかもそれを叙爵した王はもういないという。……ただ、生きて帰ってきてほしい。父も母もこのファルハナでお前の帰りを待っていよう」
「父上、わがままを許してくださって、ありがとうございます」
「心配するな。お前の留守の間程度は私と騎士たちで守って見せよう」
親子の会話を傍で聞いていた老騎士ナッシュマンが突然、片膝をついた。ガネッシュもノーラもただ驚いて彼を見ていた。
「ガネッシュ様! この老骨も、どうかお嬢様に同道するように命じてください!」
しばし、目を点にしてその様子を見ていたガネッシュだったが、意を決して、ナッシュマンに告げた。
「よかろう。ナッシュマン、ノーラについて行ってやってほしい。……ただな、この旅でのお前の主はジンだぞ。それは分かっているのか?」
ガネッシュは命令系統とか、そんな硬いことを言っているのではない。ガネッシュですらジンの特殊性を十分に理解していた。そのジンがアスカに行って謎を解く、と言っているのだ。その謎が解ければ、魔物の侵攻を終わらせることになるかもしれないのだ。
ノーラを守ることのみ主眼に置いて、ナッシュマンがジンについて行くとするなら、それはジンの目的の邪魔になる。そんな意図だけでナッシュマンを行かせられない。ガネッシュはそう思ったのだ。
ガネッシュのこの指摘はナッシュマンに図星だった。ナッシュマンの頭の中にあったのは、ただただノーラの安全を守ることだったのだ。
「ガネッシュ様……ジンに、まだ、あの小僧にお嬢様を任せられませぬ」
「やはりな。お前らしいといえばお前らしい。だが、それだと私はお前を行かせられないな」
「ガ、ガネッシュ様! ご自身の大切な世継ぎであり、愛する娘の安全の問題です! それ以上に大切なことなど、あろうはずがないではござらぬか!?」
「ナッシュマン、それがな、あるのだ。ノブレスオブリージュ、というやつだ。ノオルズ公爵やその手下による苛政、そして魔物の襲来に死んでいった民たちに詫びねばならぬ。詫びて、その上の行為があるのだ。それは、生き残った民の安寧を誓って、そのために働く、ということだ。こんな下級貴族の私でも、それを負っている。だからこそ、わが身より大切な娘を行かせるのだ。お前にその邪魔はさせたくないのだ」
ガネッシュという男は一貫してそうだった。男爵、という下級貴族に見合わない財を築いても、さほど贅沢をするわけでもなく、ファルハナの街が危機になれば、私財をはたいてでもそれを守ろうとしてきた。それは自身の娘の命がかかわることでも変わらない。
「ガネッシュ様。目が醒めてございます。あ奴の目的が何かは分かりませぬが、ここで誓います。絶対に邪魔をしない、ということを」
「娘の命が懸ってもか?」
ガネッシュは念を押した。ナッシュマンは絶対にウソを言わないことを信条にしているような老騎士だ。片膝をつき、うつむいたまま、しばらくして、口を開いた。
「はい。あ奴が何を考えているかは分かりません。ただ、それとお嬢様の命が天秤にかけられるような事態になるまで、この老骨、命に代えてお嬢様を守り通します」
「ナッシュマン、お前の気持ちはよく分かった。ノーラ、それでいいな?」
「……はい、父上」
◇
二日後、いよいよフィンドレイ戦で壊された城壁の補修も終わりそうな南大門前の広場にジンたちの姿はあった。
ノーラは長旅と言うことも考えて、軽い革製の防具を着込んでいる。
ジンはカーラの宿でカーラが大切に保管してくれていた、会津から着てきた袴に幕府軍っぽい軍服の上着。中には会津で作られた鎖帷子を着込んだ。
マルティナはいつものローブ。そこにリアとエノクが息を切らせて駆けてきた。
「ジン、ひどいよ! 置いて行こうとしてないよね!」
「まさか。まだナッシュマン殿も来ていない」
そこに、最後になってナッシュマンが現れた。フルプレートアーマーで。
「ナ、ナッシュマン殿? 長旅なんですよ?」
「ふん。ヤワなお前と違って儂はこの程度の重さは何でもないわ」
「……まあ、そうおっしゃるなら」
今回の旅は馬に乗れないニケはジンとタンデムで馬に乗ることになった。ジンの愛馬、マイルには負担をかけるが、その分ジンの荷物は出来るだけ他が持つことになった。リアとエノクはオーサークでもファルハナでも乗馬の訓練はしてきたので今や問題なく乗れる。ニケだって、練習すればできるだろう。だけど彼女にはここまでそんな時間はなかった。いつも触媒液や火薬、あるいはポーションを作ってばかりいたのだから。ツツはもちろん馬に並走していくつもりだ。
皆が揃っていよいよ出発、というところに、見送りのガネッシュとシェイラ、それに騎士たちが南大門前の広場に到着した。
ヤダフとモレノもちょうどそのころにやって来た。
驚いたことに、カーラも見送りにやってきていた。さすがに貴族がいることに遠慮して少し距離を開けたところで、リアやエノクの同僚たち弓兵数名と共に出発する皆を見守っていた。
「ジン、娘を頼んだぞ」
「はい。ガネッシュ様、シェイラ様」
シャヒードも別れを惜しんだ。
「ジン。ファルハナのことは俺たちに任せろ。必ず鉄砲の製造を復活させて、穀倉地帯の守りにして見せる」
「ああ、シャヒード、それにドゥアルテ殿、ファニングスも。途中で仕事を放って行くようだが、お主たちがいれば大丈夫と思う。俺は魔物の襲撃を根元から止めてくる。時間はかかるだろうがな」
そう。時間はかかる。ジンの想定進路だと、帝国北部の港町メドゥリンから出港できるのは来年の夏にならないと無理なのだ。ラスター帝国の北の海、北海はこの時期からすでに氷に閉ざされているのだ。
夏までアスカに渡れないことを考えれば、少し早すぎる出発に思えるが、ジンの構想している進路はまるで北部イスタニアを大回りに回るような計画だ。メドゥリンに着くのは、順調に言っても来年の春ごろになるのかもしれなかった。そう言う意味では、本格的な冬がやってくる前に、今のタイミングでの出発は申し分なかった。
今回はもちろん竜騎士メルカドもついてきてくれる訳ではないので、ファルハナへの情報の伝達はそう頻繁には出来なくなるだろう。
「では、行ってまいります!」
ジンがそういうと、皆が続いた。
「ガネッシュ様、いや、ラオ男爵、行ってまいります。ノーラ様は必ずやこの老骨が守ってまいります」
少し離れたところにいるカーラにすぐ気づいたニケが手を振った。
「カーラ、ツツと一緒に必ず帰ってくるからね!」
リアとエノクもウォデルからここに来るまでずいぶん仲良くなった弓兵たちに手を振った。
「行ってくるからねー!」
門番の歩兵がやって来た。
「ノーラ様、ジン隊長、門を開けます。開けたらすぐに出てください。長い間は開けておれません。このファルハナにも人が少しは多くなったことで、周囲の魔物が増えています。弓兵の支援は必要でしょうか?」
鉄砲兵もいるが、弾は貴重だ。トロルがいない限り、鉄砲を使わないのが不文律になっていた。
「いや、大丈夫だ。こっちは俺もナッシュマン殿もいる。それにマルティナもいるからな」
「では、開けます。お気をつけて! 皆、隊長が戻ってくるのを待っています!」
南大門前の広場で、皆が見送る中、ジン、ニケ、ノーラ、マルティナ、ナッシュマン、リア、エノクの七人、それにツツが門に向かって歩き始めた。
門が開き始めたとき、ツツが急に方向転換して、カーラの元に走って行くと、カーラの顔をひと舐めしてから、頭をカーラにこすりつけた。
カーラはツツの太い首に両腕を回して、言った。
「ツツ、死ぬんじゃないよ。ここはお前のお家だよ。儂は待っとるからの」
ツツは「わおーん」と一声、遠吠えすると、カーラから離れて、一行の元に戻った。
すでに城壁から、近づいて来るオーガやゴブリン数体に対して弓兵が弓を放ち始めていた。門を開けたままにはできない。出発の時間が来ていた。ジンたちは南大門をくぐった。
「隊長、御達者で!」
城壁の上から兵たちの声が聞こえ始めた。
「たいちょーーー! 帰ってきてくださいよー! 隊長にオーサークからついて来たのに、ファルハナに置いて行かれるとかないっすよー!」
誰かが文句を言っていると思えば、銃歩兵のベイリーだった。
「すまん、ベイリー。だが、必ず帰って来る! 皆も無事でな!」
七人と一匹はファルハナの南大門をくぐった。目指すは、はるかかなたアスカの地。このところ、曇りがちだったジンの目に力が戻っていた。