115. フィッツバーン男爵
洞穴の集落で一泊した後、ジン別動隊は森の南下を再開した。
何事もなく、ただ森をひたすら歩き、時間が来たら、野営の準備をしたり、狩りをする。ジンはもっぱら狩りの担当だ。ツツは上機嫌に獲物をジンの前まで追い込む。今日の獲物は鹿だ。
ツツはジンが弓を構えて待つスポットの前に鹿を追い立てていたが、鹿がトリッキーな動きで、ツツの意図とは反する方向に逃げ始めた。ここで、ツツは追い込むのを諦めて自らの力で仕留めることにした。
ジンは待っていたが、一向にツツが戻ってこない。彼が不安になり始めたころ、ツツは自分と同じ大きさ程の鹿の首を咥えて引きずってジンの元にやって来た。
「なんだ、ツツ、これだと俺は無用じゃないか」
ツツは申し訳なさそうに上目遣いでジンを見遣った。
◇
夜になると、ツツの周りには必ずニケとマルティナがいる。ツツが寝そべる背中に、ニケもマルティナもまるで姉妹のように並んでもたれている。
そこに犬好きの兵たちが鹿肉や猪肉の切れ端をもってやってきて、ツツにそれをくれてやったりしながら、まったりとした時間が過ぎていく。ジンは焦りをひとまず脇に置いて、兵たちやニケ、マルティナ、それにツツとそんな時間を楽しむことが出来るようになってきていた。
焦ってもファルハナは近くならないし、兵たちに休息を与えなければ、いざという時に役に立たないのだ。
そんな野営を洞穴の集落を出てから三日繰り返すと、森が切れた。
果てしなく続く緑のなだらかな丘陵地帯に寒い地方でも育ちやすい作物が植わっている。芋がメインなのだろう。麦畑も一部あって、種がまかれたばかりなのか、一面に淡い青をした頼りない苗が植わっている。
津波や魔物の災害から無縁だったアンダロス北部の風景がここにあった。
「お出ましだ」
ジンと並んで馬を常歩で進めるドゥアルテの声に気づいて、ジンも遠くを見た。
濃いオレンジ色の地に白抜きの獅子。アンダロス王国の旗だ。それから、白地の旗も見える。きっとフィッツバーン男爵家の旗なのだろう。十騎ほどがこちらに向かってくる。
「ジン、任せてくれるか?」
「ああ、ドゥアルテ殿、頼んだ」
◇
フィッツバーン男爵家の騎士たちだった。
「スカリオン公国の方々とお見受けする。当領に何故あってこられたのか?」
「はい。兵たちはスカリオン公国から来ましたが、私、ドゥアルテとここにいるジンはアンダロス王国、ラオ男爵家の騎士です」
ジンはラオ男爵家の騎士ではないが、面倒なのでそう言うことにした。
「すると、ファルハナですか? ……ですが、聞いたところによると、男爵家は王国の敵となられて、爵位を召し上げられたと聞きます」
「とんでもない話です。我が主、ラオ男爵は公爵殿下に恭順を示しておりました。それが、住民の反乱があって、公爵殿下が御労しくも亡くなられて、そのあと、アジィスという近衛隊長だった者が、ファルハナを支配し、その過程で街で人気の高い我が主を投獄したという経緯です。決してアンダロス王国に仇をなしたような話ではございませぬ」
「そうでありましたか。で、最初の質問ですが、当領には何故?」
「いいえ、フィッツバーン男爵閣下には何の用事もございませぬ。ファルハナが目的地なのですが、国境街道は魔物の大群が押し寄せていて使えませぬ。国境と森を超えてここを通るしかなかった次第です。このまま、通してはもらえまいか?」
「王国の騎士であればそれは問題ないのですが、他国の兵を引き連れているとなると……つかぬことをお伺いしますが、スカリオンの兵たちの武装ですが、あれは何の武器ですか?」
フィッツバーン男爵家の騎士はドゥアルテやジンの背後にいる兵士たちの持っている鉄砲に目を付けた。
「こう言っては何ですが、私の主、ラオ男爵が危急のときです。どうしても通さないというのであれば、押し通るのもやぶさかではありません」
多少面倒くさくなってきたドゥアルテは強硬手段に出た。
「と、通さないとは申してはおりませぬ。ただ、当領を通るのであれば、当主に面通ししていただくなど、何かそれなりの儀礼があってしかるべきではないですか?」
騎士のトーンが少し変わった。それはそうだ。弱小貴族のフィッツバーン男爵家の総兵力を集めても一〇〇人に満たないだろう。しかも徴集には時間がかかる。こんなことで争って得なことなど何もないのだ。ただ、面子の問題だけ、いや、この瞬間、鉄砲に対する興味も出てきたのだろうか。
「で、あれば、我々は急ぐ身ゆえ、騎馬で我々騎士たちのみお伺いするという形ではどうであろうか? その間、徒歩の兵たちを進めておけば、時間にロスはありませぬので」
ドゥアルテの提案は歩兵は進めておき、騎馬のドゥアルテ、ジン、それにマイルズだけ領主館に挨拶に向かう、というものだった。
「それで構いません。あと、その、ついでではないのですが、兵たちが持っている武器、もしやテッポウとかいうものではないですか? 主がその武器に多大な関心を寄せておりまして」
オーサークでは帝国との戦いを派手にやった。やはりその話はすでにここフィッツバーン男爵領にも伝わっていた。
「ああ、鉄砲のことをご存じでしたか。ええ、この隊は半分以上がそれで武装しております。大隊規模の敵と渡り合える能力を有しています」
「た、大隊ですか……」
騎士にはにわかに信じられなかった。大隊と言えば五百人から千人規模だ。見た感じ一〇〇人程度、中隊規模にしか見えないこの連中は五倍から一〇倍の兵力を相手に出来る、と言っているのだ。ますます、敵対するわけにはいかない。
「男爵とはぜひお話してみたいと思います。お礼に鉄砲を一丁、それと弾薬を少し、お渡しいたしましょう」
ドゥアルテも北部アンダロスの状況を知りたかったのだ。旧式なら予備の鉄砲が数十丁、輜重隊にあったが、荷物になるため、五丁だけ持ってきていた。
◇
銃騎兵二名を伴って、ジンとニケが愛馬マイルに、マイルズが愛馬ノーラに、そしてドゥアルテも騎馬だ。兵たちにはこのまま南下せよ、と命じてある。エディスを残してきたので、問題ないだろう。
「私はフィッツバーン男爵家筆頭騎士、ルセロと申します」
「ルセロ殿、良しなに。私はドゥアルテ、これはジンとマイルズと申します」
そんな自己紹介をしあいながら、何とも長閑な緑の丘陵地帯の田舎道を騎馬で進むと領主館らしき少し大きな建物が見えてきた。
領主館は少し豪華なだけの商家のような建物だった。三階建てで、館の周りには二ミノルほどの高さの塀がめぐらされているほか、特に防衛設備などは見当たらなかった。平和な田舎の村の領主様、フィッツバーン男爵は正にそれだ。
「男爵、戻りました!」
ルセロが、塀の門の前でそう告げると、幅三ミノルほどの観音開きの鉄扉が開いた。
フィッツバーン男爵家の騎士が先に馬を兵の内側に入れてから、ジンたちを招き入れた。騎士たちが下馬すると厩務員らしき少年たちが馬たちに群がって、厩に連れて行った。
「ドゥアルテ殿、馬たちは厩務員に任せてもらえますか?」
ルセロがそう言うと、ドゥアルテは頷いて、下馬した。ジンとニケ、それにマイルズや銃騎兵もそれに続いた。
◇
「よくぞ参られた!」
フィッツバーン男爵、エーハブ・フィッツバーンがジンたちを迎賓室に迎え入れた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
ドゥアルテが応じた。ジンはこの別動隊の中隊長だが、貴族の対応などはドゥアルテに一任してある。その方が何かと都合がいい。
「何もない田舎だが、心づくしの昼食を用意させてもらった。気に入ってもらえると嬉しい」
エーハブ・フィッツバーンは背が低く、線の細い躰に似合わない精悍な顔立ちに人の好い笑顔を浮かべていた。
「男爵閣下、恐れ入ります。ありがたく頂戴いたします。なにぶん、長い旅路ですので、まともな食事にありつけたのは本当に何日かぶりになります」
ドゥアルテがそう礼を述べると、ジン以下、マイルズ、ニケ、食卓に招かれた銃騎兵も頭を下げて、相伴に預かった。兵にまで礼を尽くすエーハブにはもちろん下心がある。
「ドゥアルテ殿、今般の状況をどう考える?」
「男爵閣下、私は単なる一騎士ですので、あまり政向きのことは……」
「ははは、そう警戒せずともいいではないか。『男爵閣下』か、なんともいい響きだが、ただの田舎貴族だ。見たところ、新しい兵器、異国の副官、獣人の女の子、新兵器を扱う騎兵……修羅場をくぐりながらも生き抜いてきた時代の先を行く集団……田舎貴族などに足元をすくわれてはかなわぬ、そんなところか?」
ジンは副官に見られてしまったが、実際はこの隊の隊長、副官はマイルズ。ドゥアルテはアドバイザー的な立ち位置だ。それでもドゥアルテはいちいちそんなことを否定しなかった。
「買被りです閣下。……では私から閣下の教えを頂きたく思います。南部は津波で崩壊、西部は魔物が押し寄せています。アンダロス王国はどうなって行くのでしょうか?」
「質問を質問で返す、か。まあ、いいだろう。私から考えを開陳した方が、ドゥアルテ殿、お主も少し警戒を解いてくれるだろうしな。そうだなぁ、アンダロス王国なぞ、もう存在せぬ。むしろ、それは政変の時からすでにそうであったのかも知れぬ。南部の守りにのみこだわって、北部も辺境も放っておいたあの男が王になれるはずがない。……死人の悪口を申すのは憚れるがな」
「ノオルズ公爵閣下のことですか。閣下には私の主も苦しめられました。挙句、未だに地下牢に閉じ込められていると聞きます。我々は辺境の状況を確かめるという任務を背負っていますが、主、ラオ男爵を救出するのも大きな目的です」
そばに銃騎兵たちもいる。あくまで表向きの任務――斥候、情報収集――を言わざるを得なかったが、本当のところの目的はノーラの救出だったことは言うまでもない。
「ドゥアルテ殿、北部は北部でもう纏まり始めている。ところで、イルマスの腰ぎんちゃく侯爵閣下が新ダロス王国国王を僭称しているのを知っておるか?」
「そうなのですか! 始めて聞きました。ウェストファル侯爵閣下がそのような……」
「まあ、私だって、『今日から余は王である』と言えば、王になる世だからな。北部は小さな男爵や子爵領がひしめいておる。幸い、政変時にノオルズ公爵側に立つことを合議で決めたこともあって、難は逃れた。それに、今般の津波や魔物問題では、むしろ小さな領主たちが寄り合って助け合ってこの平和な状況を作り出している。領主連合、と今は称して力を合わせておる」
「閣下、しかしながら、その平和はいつまで続くかは私には不安です。魔物たちは今は街道沿いに進んでいます。それは、人々が街道沿いに集まっているからです。いずれ、街道沿いの人々を喰らいつくした後は、国境街道をひしめく魔物は森を超えてここに来たっておかしくありません」
「もちろんそんなことは承知しておる。ドゥアルテ殿、お主に聞こう。北部アンダロスが魔物に蹂躙されたなら、この国は……いや、もう国ではないな、元アンダロス王国のあったイスタニア南部はどうなると思う?」
「それは……大量の人々が飢え死にます。北部アンダロスは重要な穀倉地帯ですから」
「そうだ、そうなれば、地獄の釜の底が抜けるような話だ。まさにこの世が終わる。餓民が幽鬼のように彷徨い、至る所で餓死者の遺体が転がり、疫病が蔓延し……アンダロスは国としてどころか人の住む土地として終わる」
「閣下は……」
ドゥアルテが話し始めたところで、エーハブ・フィッツバーン男爵が遮った。
「もう、閣下はよしてくれ。エーハブと呼べ。まともに話が出来ない」
「では、エーハブ様は何を求めていらっしゃるのでしょうか? ただでこんな話を通りすがりの一〇〇人程度の軍を預かる我々にしたとは思えません」
もちろん、目的が鉄砲だということはドゥアルテには分かっている。だが、そのセリフはフィッツバーン男爵に言わせたいのだ。
「あくまでも体裁にこだわるか。まあ、よかろう。テッポウだよ」
「鉄砲はございますが、これは我々の任務に必要です」
「どうすれば調達できる?」
「現状、非常に難しいです。閣下……エーハブ様はオーサークでの帝国との衝突のことはご存じでしょうか?」
「ああ、もちろん知っておる」
「あの停戦のおり、和平条約と鉄砲の供給契約をバーターでやってしまったのです。帝国も西に魔の森を抱えています。魔物は帝都に迫る勢いだとか。イスタニア湾経由で可能な限り鉄砲と弾薬をオーサークで製造してはすぐに輸出しているのが現状です。本来的には一丁だって無駄にできな……」
ドゥアルテが言い終わらないうちに、エーハブは激昂してそれを遮った。
「貴殿は私の話を聞いておったのか?『無駄』だと!? 国はなくなっても民は民ではないか? それを支える北部アンダロスに一丁の鉄砲も譲れない、と貴殿はそう申すか?」
ドゥアルテの失言だった。ジンはすかさず割って入った。ジンはこの話を聞きながら、ある案が頭に浮かんでいたのだ。
「閣下、拙者に案がございます」
激昂したまま、あたかも振り上げたこぶしを下ろす先を失ったような顔でエーハブはジンを見た。
「……いや、すまぬ。柄にもなく興奮してしまった。その案とやら、良かったら聞かせてはくれまいか」
「はい、閣下。拙者はジンと申します。今やオーサークが鉄砲の一大産地ですが、元々の出どころはファルハナです。ファルハナの魔物とアジィスを排し、この北部アンダロスからファルハナへの食料供給の道筋を作れば、ファルハナはまた鉄砲の産地としてよみがえるはずです。北部アンダロスの、その『領主連合』から兵を出してもらえませんか? ファルハナを奪還して、ラオ男爵に一任すれば、今の閣下の話に間違いなく賛同して、鉄砲の北部アンダロスへの供給を約束するはずです」