106. 予期せぬ来訪者
スカリオン公国にコヅカの伝承があるように、ラスター帝国にも〈災厄の時代〉に関する伝承があった。ありていに言えば異世界から現れた戦士が皇帝と共に帝国を護る、というものだ。
ベラスケスにはジンがそれに見えた。エキゾチックな見た目、イスタニア風でない剣、そして、自身がそれを使わないにもかかわらず、鉄砲という新兵器を用いる中隊の長だった。
ベラスケスにはジンがスカリオン公国に絶対の忠誠を誓っているようにも見えなかった。
「ジン。これはお前に必要なのだろう。返しておく」
この言葉にはベラスケスのそういう意図があった。
◇
ジンは帝国のキャンプからシュッヒ伯爵、インゴ、それに帝国の連絡員としてローデスと竜騎士二人がついてきた。ワイバーンは飛ぶのは上手だが、歩くのは下手だ。翼の先にある右鍵爪を地面に食い込ませてから、右後肢をそこに揃える。その間、左の鍵爪を前に出して……という具合で、ワイバーンに慣れていないジンやスカリオン公国の人間にとって何とも奇妙に映る。
ジンやインゴ、それにシュッヒ伯爵が騎乗する馬たちはワイバーンに怯えながらも常歩でワイバーンたちと並走している。ずっとノーラのことが頭から離れないジンだったが、何とは無しに馬の首を撫でた。
ジンの馬はブフヒンと息を一瞬荒くした。
(そう言えば、お前との付き合いはグプタ村からだったな。いい加減名付けてやらないとな)
ジンは急に不思議な絆をこの馬に感じた。元々はグプタ村を襲う野盗の馬だった。あの時、馬を斬りまくった。そうしなければ、防げなかったからだ。でも、この馬は殺さずに済んだ。そして、ファルハナ、オーサークとずっとジンと一緒に戦ったきたのだ。そんな奴はツツとニケを除けばマイルズしかいない。
「お前はマイルだ。マイル、マイルズ以上にお前は良い奴だ」
一瞬〈マイルズ〉と名付けようとも思ったが、マイルズが自分の馬にノーラと名付けたことへの当てこすりに取られかねない。それは嫌だったし、行動を共にすることの多いマイルズだ。名前が一緒だとややこしい。
ジンはまたマイルの首を撫でた。
◇
「ジン、この後、一杯どうだ」
オーサークの門が見えてきたころ、インゴがジンを誘った。時間的にはまだ昼前だった。
ジンにはインゴの意図が言えた。傍に騎乗のローデスもいる。出来る話と出来ない話がある中で、誘ったのだろう。
「インゴさん、拙者も家族に話したいことがあります。夜なら大丈夫です」
家族、とはニケやマルティナ、それにクオン一家のことだ。あまりいろいろな情報をローデスに明かしたくなかったジンは簡単にそう纏めた。
「そうか、伯爵と一緒にお前の家に行くが、良いか?」
「何もおもてなしできませんが、それでも良ければ」
「では、昼後七つ。伺わせてもらおう。なに、飯のことは心配するな。儂が料理人も材料も用意するでな」
「ありがとうございます」
ジンは素直に礼を言った。領主とセイラン卿が来る、なんてことを言えば、間違いなくシアもニケも発狂するだろう。
『何を用意すればいいって言うの!』まるで彼女たちの声が聞こえてきそうだ。
◇
ジンは家に戻ると全員を集めた。クオンは薬莢づくりの仕事に出ていて、在宅ではなかったが、彼以外は全員家にいた。
「クオンがいないが、シア、後で彼に伝えてくれ。……俺はファルハナに戻ろうと思う」
「え、なんで??」
マルティナが一番最初に口を開いた。ニケは大きな猫目を見開いて、ただジンを見つめている。
「ファルハナが危ない。ラオ男爵が危ないんだ」
ニケが決然と言った。
「ジンが行くなら、私も行く。ノーラさんが危ないなら、私も彼女を助ける」
「ちょっと待って! 訳が分かんないよ。危ない危ないってどう危ないの?」
マルティナはせっかく出来たこの新しい疑似家族を、皆が思う以上に大切にしていた。
「マルティナ、魔物が魔の森から溢れたらしい。その予兆はお前も身をもって知っていただろう。帝国軍が陣をはらって今朝撤退した。帝国も西側辺境に大きな被害が出ているらしい。となれば、辺境にあるファルハナはすでに魔物に滅ぼされているかもしれない」
マルティナはジンを見ずに、皆が囲むテーブルの表面をじっと見つめた。
「ジン、なら、私も行く。ノーラさんだかなんだか知らないけど……ジンは分かっていない。ジンやニケ、それにリアやトマ、クオンさんたちはやっと出来た私の家族なんだからね!」
マルティナの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「トマ、リア、シアさん、私は絶対にオーサークに帰って来る。戦争は嫌だけど、魔物相手なら私は役に立つ。絶対にジンやニケを死なせない!」
涙をこぼしながらも、マルティナは切々と自分の思いを述べた。
「私も行く!」
こぶしを握り締め、ただ話を聞いていたリアが声を上げた。
「リア! ダメだ!」
シアがすぐにそれを却下した。
「母さん、私ももう十六だよ。ずっとジンに恩返しがしたいと言っていたでしょ? これがその時だよ。ずっと弓矢の練習をしてきた。もう魔物だって怖くない。行かせて?」
シアは黙り込んで、テーブルの表面を見つめた。
そんなとき、玄関のドアノッカーが鳴る音がして、ドアの向こうで誰かの声が聞こえた。
「ジン様は居られますか」
ジンがドアを開けると、そこには衛兵らしき格好の男と、ボロボロの鎧をまとった、顔中髭だらけの男が立っていた。
ドアを開けたジンが無言でいると、衛兵らしき男が話し始めた。
「この男が、ジン様と旧知だから会わせてくれと……」
衛兵が言い終わらないうちにジンが声を上げた。
「ドゥアルテ殿! ドゥアルテ殿ではないですか?」
「ジン、久しいな」
ドゥアルテだった。
「どうして、オーサークに、いや、そのお姿は、いったい何があったのです?」
◇
衛兵はドゥアルテがたしかにジンの知り合いであることを確認すると、ジンの家にドゥアルテを置いて、去って行った。
ドゥアルテは今、ジンの家の居間のテーブルについている。
「ドゥアルテ殿、聞かせてはもらえぬか?」
ジンはファルハナの状況が知りたかった。
「ジン、ラオ様が、いや、ラオ夫妻、ナッシュマン殿、それに戻って来たファニングスもノオルズに逮捕された。私だけが難を逃れ、救出の機会を狙っていたが、民衆蜂起があって、ノオルズが殺された。ノオルズの副官のアジィスと言う男が恐怖政治を……いや、あれは政治なんてものじゃない、民の奴隷化だ。ラオ様は地下牢に入れられて、もう何カ月もたっている。今、助けなければ、彼女は……」
ジンには二重の衝撃だった。魔物だけが敵ではなかった。
「ドゥアルテ殿、ファルハナの危機はそれだけじゃない」
ジンはこのオーサークで起きたこと、そして、帝国が撤退した理由をドゥアルテに話した。
痩せこけて、目だけ爛々とさせているドゥアルテだったが、ジンの説明を聞くとしばらくそんな目を大きく見開いてから、呟いた。
「ラオ様は……もう助からないかもしれない。俺は騎士として、何もできなかった」
ジンは勢いよく立ち上がった。
「何を言う! ドゥアルテ殿! シャヒードもオーサークを離れてもう一カ月にもなる。そろそろファルハナに着いていたっておかしくない。ラオ様を死なせてはならない。希望がある限り、騎士たる者は主を守るのではないのか!?」
ドゥアルテはただ黙ってジンを見つめていた。
「……ドゥアルテ殿、行きましょう。ラオ様を救出するのです。あなたは……騎士でしょう!」
「ああ、ジン、そうだ。俺は騎士だ。……ジン、手伝ってくれるか?」
「ドゥアルテ殿がここに来るまで、俺たちはその話をしてました。ドゥアルテ殿がここに来ようが来まいが、ファルハナに発つつもりでした」
「そうか」
ドゥアルテはそう呟いて、首を垂れた。ジンへの感謝と、ここに来てジンの助力を乞うしかなかった自分に対する情けなさを一身に受けて、首を垂れている。
「ドゥアルテ殿、まずは身綺麗にしてください。夕刻にはこの街の領主がこの家に来ます。私は事情を話して、ここを去るつもりでいました。ドゥアルテ殿も同席してください」
◇
ドゥアルテは湯あみをしたり、髭を剃ったり、ジンの服を見繕って借りたりしながら、身綺麗にすることに時間を使っていた。
その間、皆はまだテーブルを囲んでいた。シアはリアとの話をまだ終えていなかったのだ。
「リア、グプタを出て、やっと平穏な暮らしを手に入れたんだよ。お前はそれを不意にするというのかい?」
「母さん、誰のおかげでそうできたの? ジンやニケでしょ? 今、私が恩返ししなくていつできるというの?」
シアはしばらく考えてから、縋るようにジンを見た。
「シア、リア、聞いてくれ。恩返しなど、俺には必要ない。だがな、俺はスカリオン公国の創世記をパーネルでの晩さん会で聞いた。〈災厄の時代〉と言って、今回のように魔の森から魔物があふれ出し、ここスカリオンにまで魔物が押し寄せたらしい。ここにいても安全と言うわけではないのだ。シア、リアが俺たちに付いて来るという話は、これがなければ当然断る。ここにいればお前たちは安全だからだ。だけど、そうではない」
「ジン、でもこの子に何が出来るっていうの?」
「シア、グプタにいたころ、魔物に襲われて、田畑から何も収穫できない時、誰が村のみんなの食料を採ってきていた? リアやエノクだろう。子供たちはもう無力じゃないんだ。シアが彼女をここに残したいというのなら、俺は連れて行かない。だが、彼女とよく話をしてくれ」
シアはジンたちと旅を共にすることに憧れていた。ただ、今回のことはその時の思いとは異なる。ジンがグプタ村を守ったように、自分はこの新しい故郷オーサークを守りたいと思ったのだ。
「母さん、行かせて! 私はオーサークを、この家を守りたいの」
シアはただ黙っていた。