幸せという罠 マリアとクラウス編
わたくしは侯爵の娘、マリア・アークランド。
目の前にいるのは婚約者のクラウス様。公子様でいらっしゃいます。
いつも凛々しい殿方ですが、今の彼は迷子の仔犬のような様相です。
「ど、どうかな。気に入ってもらえたかな? 君を街に連れ出すのをすごく迷ったんだけど、ここの魚料理が絶品で……! あとリバーサイドの景色を君と一緒に見たくてっ!!」
もじもじと赤くなりながらクラウス様はおっしゃいます。
『お忍びでついて来てほしい』と今から数時間前に言われ、色味の落ち着いたドレスと結んだだけの髪でわたくしは街のレストランに来ています。
いつも行くレストランと違い、人々の熱気に溢れていますが、それもまたオツというもの。こってりとしたフライは少々胃に来ますが、クラウス様と食べる食事はそれだけで価値があります。
「連れてきてくださって本当に嬉しいですわ。街灯の明かりが川面に反射してとてもロマンティックです」
わたくしが微笑むとクラウス様の顔がほころびます。
喜びの表情を浮かべたクラウス様がグラスを持ち上げてます。何度目かの乾杯ですが、何度もしたくなるくらいこの時間が楽しいのです。
「僕と一緒に過ごしてくれてありがとう。大好きだよ」
クラウス様ははにかんだ笑顔でそう言って下さいます。
「わたくしもお礼を言いたいですわ。クラウス様のおかげでいつも幸せですもの!」
嘘偽りないのがこの気持ちです。
もっともっとこの時間を楽しみたいのですが……。
「俺の門出にカンパーイ!! なんでも好きなもの注文していいぜ! なにせ俺は大金持ちになるんだからな!」
「歌姫のアンナや踊り子のサーラを落とした時も驚いたが、まさか貴族のご令嬢を射止めるなんてさすがレオだ!」
「ま、俺にかかれば貴族だろうが平民だろうが同じようなもんさ。ちょいと甘い言葉をささやいてやればすぐに落ちる」
斜め横のテーブルがうるさくて少々興がそがれてしまいます。
「マリア。デザートは別のところで食べようか。おしゃれで可愛い店を知っているんだ」
わたくしの感情の機微に気づいてくださったクラウス様が気遣って下さいます。
「お心遣い感謝いたします。クラウスさまのおすすめのお店、楽しみですわ」
わたくしが微笑むとクラウス様は朗らかに笑って下さいました。
ここのレストランはテーブルチェックではないので、クラウス様は伝票を取って奥のカウンターへと向かいました。わたくしは相手のいない空間で待つことになりますが、暮れてゆく街の景色は中々見ごたえがあるので退屈しません。
「あれ、お嬢さん。男が帰っちゃったの? さみしーね~。それならこっちのテーブル来なよ! 美味しいワインがあるよー!!」
先ほどの男がわたくしのテーブルまで寄ってきました。癖のある金髪に垂れ眼、美形と言えなくはないですが、軽薄で胡散臭そうな雰囲気が癪に障ります。
せっかくの美しい景色ですが、軽いノリの声が耳に響きます。クラウスさまがわたくしを置いて帰るわけないでしょうが!!
「ずいぶん無礼な方ですわね。連れがお勘定を済ませにいっただけですわ」
ギロッと睨みつけてやると、男はビクッと肩を跳ねさせた。お仲間が何か言いたそうでしたが、思いっきり睨みつけてやると同じようにだまりました。
わたくしに声をかけようなどと100年早いですわ!
ぷりぷりと怒っていると、慌ててこちらに駆けてくるクラウス様の姿が目に入りました。わたくしは立ち上がってクラウス様の方へ向かいます。
「た、助けが間に合わなくてごめん!!君を一人にさせたのが間違いだったよ!」
クラウス様が心配そうにわたくしの顔を見ます。この慌てぶり、例の男たちに突撃しそうです。お忍びなので騒ぎになることは止めなければ。
「お気遣い嬉しいですわ。 一睨みしたら退散しましたし、それよりも美味しいデザートを食べに行きましょう」
「だけど……」
「わたくしたちはお忍びですわ。それに、ここは人々が楽しんでいる場所、慌ただしい捕り物でそれを奪うのは本意ではありません」
マリアの説得にクラウスは渋々折れた。
しかし、クラウスの内心は穏やかではなかった。
『マリアを守れる自信があったから市街に連れてきたけれど、僕の独りよがりでしかなかったな。今度から護衛を引き連れることにしよう。デートが台無しになるけど仕方ない』
■
アークランド侯爵家はルバレシア王国で王族公爵を除き、序列二位の貴族だ。一位は西部を治める某公爵家だが、めったに都に来ないので実質トップといってもいい。
そのため、アークランド侯爵家の人間を宴席に招いて箔をつけようとする貴族が多かった。
「婚約披露パーティの招待状ですか。わたくしを誘うなんて割りと度胸があるお嬢さんですこと」
マリアは父からパーティの参加を打診されたとき、素直にそう思った。
理由は世間にはびこる『悪女』の噂である。王太子付近から広まった噂は社交界の絶好のネタとなり、市井にも広がったためいまだ噂を根絶できない状況にある。
婚約者のクラウスはそれに対して非常に怒っているのだが、当のマリアは気にしていない。好きな殿方にさえ理解してもらえばそれでいい。そしてそもそも、自分が善人とは微塵も思わず、『悪女』と言われてしっくりくるからだ。
父、エリアスは娘の言葉に苦笑した。
「先方の希望は私かドロテア、ルードルフだろうが、あいにくと都合が悪くてな。かといってバッヘム伯爵家を無視するには、当主も細君も気のいい奴で気が引ける」
ドロテアはマリアの母。ルードルフはマリアの兄だ。
マリアは悪女で有名だが、ルードルフは眉目秀麗で頭脳明晰。そして人当たりも良いので社交界で大変人気がある。『お兄様は素晴らしい方なのになぜあの悪女が血縁なのかしら』と噂されているのもマリアは知っていた。
がっかりされるだろうとは思うが、折角の招待を断るのはよろしくない。アークランドの人間が来たという事実をご所望なら自分で我慢してもらおう。
「お父様がそうおっしゃるなら参加いたしますわ」
「うん。よろしく頼むよ。ドレスは好きなだけ注文してくれて構わないから。ああ、もちろん、公子殿下が誂えたものを最優先にな」
エリアスはあわてて付け足す。マリアのエスコートは常にクラウスで、彼はパーティの度にドレス一式をプレゼントしてくれるのだ。
愛しい人の名前を聞いてマリアは満面の笑顔になった。
エリアスとしては複雑な心境だが、娘が幸せなのは何よりなので特に何も言わなかった。なお、娘のために誂えたドレスが大事にしまわれているのは一部の使用人しか知らない。
■
主役を食わないためにもドレスは大人しめのモノをセレクトした。元々マリアは顔立ちが派手なので、地味すぎるドレスでちょうどつり合いが取れる。
「うーん。僕としてはもっと宝石やリボンをつけたかったんだけど……」
「お気持ちは嬉しいですけれど、主役はバッヘム伯爵令嬢ですもの、これでいいのです。それに、この色合いのドレスは持っていなかったので良かったですわ」
マリアが笑うとクラウスの顔がパァッと明るくなった。マリアが喜んでくれればそれでいい。クラウスは割と単純な男だった。
バッヘム伯爵の屋敷は大勢の人々で賑わっていた。事業をいくつも展開している伯爵とそれを支える伯爵夫人、彼らの人脈は多岐にわたり、実に様々な人間が令嬢の婚約を祝いに来ていた。
しかし、大勢人間がいたとしても、執事長の声に一同が注目する。
「ギレスベルガー卿、ならびにアークランド侯爵令嬢のご入場です」
長身で堂々としたクラウスと地味な装いながら艶やかな顔立ちのマリアは居るだけで周囲の目を奪う。いくら身分が非常に高くても、婚約者がいたとしても、心を動かされるのは仕方のないことだ。
一方、嫌悪感を示す人間もちらほら見受けられ、あからさまな敵意の視線すら感じる。『悪女』の評判は未だに陰りを見せず、生命力抜群のミントのごとく地中に根を張り、なかなか一掃できないようだ。レディルのシンパがまだいるのと、単純にマリアへの嫉妬だろう。
だが、社交界の嫌われ者の自覚はあるのでマリアは特に問題視しない。むしろ、貴族社会であっさりと内心をさらけ出すような人間にあきれ返るばかりだ。
『わたくしを厭うのは結構なことですけど、それを表に出すのは利口とは言えませんわね』
マリアが余裕なのはそんな悪評に婚約者が踊らされないことにある。クラウスさえ自分を信じてくれるのならば、マリアにとって有象無象の敵意などコバエ程度のものでしかない。
だが、黙っていられない人間がここに一人いた。
普段は柔らかい印象を受ける目が、きりりと吊り上がっていくのをマリアは見逃さなかった。
「クラウス様。わたくしは気にしませんわ。それに今日はお祝いの席です。一賓客として振る舞いましょう」
「だけどっ!」
クラウスは納得できないと言わんばかりに反抗した。……仔犬のような目で。
「優しいクラウス様。あなたが味方でいて下さるなら、わたくしは本当に平気ですのよ。それに、騒ぎになってしまったら、せっかくの婚約披露パーティが台無しになってしまいますわ。喜びの日に水を差されるなんてバッヘム伯爵令嬢の気持ちを思うと胸が痛みます」
マリアの言葉はクラウスの胸を打った。自分たちの幸せな婚約披露パーティを思い出し、クラウスは一時の感情に流されそうになった自分を恥じた。
「ごめん。マリア。僕はそこまで思い至らなかったよ。やっぱり君は本当に優しいや。……だからこそ、いわれのない中傷が悔しいんだけど、今日は我慢するよ」
しゅんと頭を下げるクラウスにマリアは微笑む。
「ふふ。わがままを聞いてくださってありがとうございます。一賓客として今日は楽しみましょう! バッヘム伯爵家の庭園は珍しい花があると聞いていますわ。テラスに行ってみませんこと?」
「ああ、いいね!」
気を取り直した二人は開放されているテラスに向かった。もちろん、主催者であるバッヘム伯爵夫妻に挨拶を済ませてからだ。
海千山千を潜り抜けた彼らは、マリアの姿を見ても不快感を示すことなく、友好的に接した。これが本来あるべき貴族……社交界のマナーなのだが、さきほどの人種を見た後だと心が清々しく感じられてしまう。
すっかり気分がよくなった二人はテラスから珍しい花々を眺め、楽団が奏でる音楽を楽しんだ。
クラウスはコホッとマリアが空咳をしたのを見るとすぐに反応した。
「喉が渇いたよね。何か飲み物を取ってくるよ」
「ありがとうございます」
自分を気にかけてくれるクラウスがとても嬉しくて、マリアはこういうときにとても自分が愛されていると感じる。家族以外で自分の絶対的な味方がいるというのは本当に心強く、また尊いものだ。
嬉しさの余韻に浸っているとテラスの扉が開く音がした。クラウスだと思って笑顔で振り返るとそこには見覚えのある男が立っていた。
街で見かけたあの軽薄そうな男だ。
「あれ? この間のお嬢さんじゃん。こんなとこに出入りするなんて……ああ、もしかしてパトロンでもいるの? お嬢さん美人だもんね。でも、そのドレスはかなり趣味が悪いんじゃない? もっと宝石を付けるなりさ」
彼はペラペラとしゃべりだした。まるで唇に蝋でも塗りたくっているようだ。
『落ち着きなさいマリア。騒ぎを起こしてはダメ。平常心、平常心よ』
自分に懸命に暗示をかけふつふつと込み上げる怒りをどうにかこうにか呑み下した。
「無礼は許します。この場から去りなさい」
マリアの声はずしんと地を這うように重い。
男はビクッと怯んだが、前のように退散することはなかった。
「……見た目と同様気が強いよね。でも、俺、あんたみたいなタイプ嫌いじゃない。ね、センスの悪いパトロンなんかに見切りをつけて俺に乗り換えない? なんでも好きなもの買ってやるし、邸も使用人も好きなだけ用意するよ」
にやっと彼は笑う。
マリアを囲える財力も権力もあると言外に彼は誇示していた。しかし、いくら地味な格好をしていようがマリアは侯爵令嬢でさらに言えば未来の公爵夫人。彼の振りかざした権力は紙のように薄っぺらいものだ。
マリアは馬鹿らしくなって怒る気すら失せた。
「馬鹿を相手にしていると疲れるわ。話す気はないからさっさと去りなさい」
ハァ。とため息交じりにマリアが言うと彼はむしろ面白がった。
「そんなこと言わずにさ。俺といると絶対に退屈しないぜ?」
彼はいつのまにかマリアの隣まで来ていた。流れるような仕草でマリアの手を取り、骨ばった男特有の厚い手でぎゅっと握る。
反射的にマリアは男をひっぱたき、すぐに手を引っ込めて距離を取る。護身用にと兄からフェンシングの指導を受けているため、身のこなしには自信があった。
『貴族令嬢がフェンシングなんて何の役に立つのと思っていましたけれど、まさかこんな時に役に立つとは思いませんでしたわね。お兄様ありがとう』
風変わりでノーテンキな兄の顔を思い浮かべてマリアはめったに言わない礼を言った。
「レオ!!」
甲高い声がテラスに響き渡る。
見るとテラスの入り口に血相を変えた小柄な少女が立ち尽くしていた。癖のないハニーブロンドをなびかせて彼女は走り出し、マリアと男の間に割って入った。
貴人を守るナイトのように彼女はマリアと向き合い、激しい敵意を見せた。
「レオ……彼はわたくしの婚約者です。たしかに平民です。あなたのような侯爵令嬢から見れば、取るに足らない存在でしょうが、わたくしは大切な人を傷つけられて黙っていられません!!」
小柄な彼女が大きく見えるほど、その怒りはとても激しいものだった。珍しい緑の目は怒りに燃え、大切なものを守り通すという固い決意がある。
「フ、フローラ。お、俺が失礼なことをしてしまっただけなんだ。だから……彼女は悪くない。さ、ホールに戻ろう」
レオと呼ばれた男はフローラの肩を抱いてあやすように言った。心なしか顔色が悪いのは、マリアが侯爵令嬢と知ったからだろう。なにしろ、それまではどこかの情婦扱いだったのだ。侮辱罪に問われても文句のつけようがない。
「レオ! あなたはわたくしの婚約者なの。あなたを傷つけられてわたくしは黙っていられないわ」
「フローラ! 俺のことをそこまで考えてくれて嬉しいよ。でも、相手は侯爵令嬢なんだろう? 俺のせいでフローラの立場が悪くなるのは嫌だよ。誠心誠意、侯爵令嬢に謝罪して許しを乞う。だから、フローラはホールに先に戻っていて」
レオはフローラを抱きしめ、甘くて切ない声を絞り出した。
「レ、レオ……。わたくしをそこまで思ってくれているのね。嬉しいわ……。でも、だからこそ、わたくしは許せないの」
フローラはもう一度マリアを睨んだ。
「アークランド侯爵令嬢。あなたの悪評はわたくしも聞き及んでおります。噂を鵜呑みにするのはばかげたことだと静観しておりましたが、今回のことではっきりしましたわ! あなたは身分をかさに着て人を虐げる酷い方です!!」
彼女の目は愛と正義に燃えている。
制度上、問題がなくなったが、未だに身分違いの結婚に難色を示す貴族はまだ多い。きっとフローラは色んなものと戦ってようやく真実の愛を勝ち取ったのだろう。格上の侯爵令嬢に物申すほど、頭に血が上っているらしい。
一方、彼女が怒りに震える後方でレオの顔は真っ青だ。なにしろ、さっきまで金をちらつかせてマリアをどうこうしようとしていたのだから。
『酷いのは誰かしらね』
マリアは呆れかえった。
誹謗中傷を浴びるのは慣れているが、この軽薄男のせいで悪者になるのは我慢ならない。
「バッヘム伯爵令嬢。その男がわたくしを侮辱したゆえに平手打ちをしたまでのこと。文句がおありなら大事にしてあげてもよろしいですけれど、この婚約に反対の方が親戚にいらしたら、格好の反対材料を与えることになりますわね」
マリアはにっこり笑った。
「脅す気ですか……」
フローラは悔しそうにマリアを睨む。
可愛い顔を憎悪に染めてマリアを睨むフローラだが、海千山千から悪意を受け続けているマリアにとってフローラの敵意など子猫の威嚇程度にしか思えない。可愛い。
一方的に緊張感の走る空間で急に爽やかな空気が入る。マリアの癒し、クラウスがやってきたのだ。
「ごめんマリア! 行く先々で色んな人に捕まっちゃって遅くなった!!」
器用にグラスを片手で二つ持ち、テラスの扉を開けてクラウスは入って来た。
「ありがとうございます。クラウス様」
「お取込み中だったかな? バッヘム伯爵令嬢、婚約おめでとう。そちらは……」
クラウスはマリアの他に人がいるのに気付き、にこっと微笑んで挨拶をした。
しかし、徐々にクラウスの端正な顔つきが険しいものとなる。
もちろん対象はレオだ。
「お前! マリアに言い寄ろうとした変質者だな!! どうやってこのパーティに忍び込んだんだ!!」
グラスを豪快に放り投げてクラウスはマリアを庇うように抱きしめ、レオに怒鳴りつける。
「へ、へんしつ……?」
フローラはクラウスの気迫に驚きながらも、彼の放った言葉を聞き逃さなかった。
「クラウスさま。失礼ですわよ。バッヘム伯爵令嬢の婚約者殿ですわ」
マリアはさらりと答える。
「え?!」
クラウスは目を見開いて驚く。険しい顔から当惑した顔へ変貌する。
マリアは彼の心情をすぐに察した。
真面目でお堅い性格ゆえに、婚約者がある身で他の異性に言い寄る神経が心底理解できないのだ。
クラウスがレオに注ぐ視線は生ごみを見るような目つきになった。さっきの怒りに燃えた視線の方がレオにとってまだマシだった。同性に蔑まれるのは格の違いを見せつけられてかなり堪えた。
フローラは呆然としたままだった。
大好きな人が変質者。
これがマリアの口から発されたのなら、悪女のデマカセと言い切れたが、誠実で真面目なクラウスが発したことがフローラを混乱させていた。
『ど、どういうことなの。レオが変質者? そんなはずはないわ。レオはわたくしだけを愛しているもの……。きっとアークランド侯爵令嬢が公子殿下にレオの悪口を吹き込んだんだわ』
恋ゆえに盲目となったフローラはそう結論付けた。
「公子殿下!! アークランド侯爵令嬢からどのように伝え聞いたのか知りませんが、レオはけしてそんな殿方ではありません!! どうか、ご自分の目でレオのひととなりをご覧ください!!」
フローラは毅然とした態度でクラウスに言い張った。クラウスならレオのいいところを見つけてくれると信じたのだ。
しかし、クラウスの返答は無情だった。
「いや、マリアから聞いたわけではなく、お忍びで出かけた先のレストランでその男がマリアに絡んできたんだよ。どうしても理解できないから聞くけれど、歌姫や踊り子の女性とも関係を持っている彼をどうしてそこまで信じられるんだ?」
クラウスはデリカシーがない。
人を思う優しさは持ち合わせているが、軍人特有のおおざっぱさがこういうときに出てくるのだ。
マリアは思わず額に手を当てた。
「う、うたひめ?」
フローラが驚きのあまり聞き返す。
「レストランで彼の仲間が大声で自慢していたよ。疑うならそれでもいいけれど、男としてこういう人間は信じられないな。伯爵家のためにも婚約は考え直した方がいい」
クラウスは眉間にしわを寄せて言った。
「レ、レオ。本当のところはどうなの? 公子殿下のおっしゃったことは本当?!!」
フローラは振り返ってレオを見た。
彼は蒼白な顔で一言、「ごめん!!」と叫び、その場に伏して許しを請うた。
「ちょっと魔が差しただけなんだ!! これからは本当の意味で君一筋になるから!!!」
レオは涙をポロポロと溢しながらフローラに謝った。
フローラの顔は屈辱で真っ赤に染まったが、すぐに冷静さを取り戻した。そして、マリア達に向き直ると深々と頭を下げた。
「アークランド侯爵令嬢、公子殿下。この度は失礼なことを申し上げて大変申し訳ございませんでした。どのようなお叱りも覚悟しております」
フローラの顔は実に真摯だった。
レオの断罪よりも先に謝罪を取った彼女の行動に、マリアは少しだけ唇を上げた。
「わかって下さればそれでよいのよ。わたくしもバッヘム伯爵家と険悪になりたくありませんもの」
「僕は……マリアがそれでいいなら」
本当は不服なのだが、マリアの上機嫌な顔を見てクラウスは呑み込んだ。
「ご温情、胸に刻みます。アークランド侯爵令嬢、今後、バッヘム伯爵家フローラはあなた様の力になるとお約束いたします。どのようなことでもご用命ください」
フローラはまっすぐな目でマリアを見た。
「頼もしいこと。何かあったらお願いするわね」
マリアは微笑み、クラウスを引き連れてホールへと歩きはじめる。レオは這いつくばったままだが、顔を上げてチラチラと様子を窺っている。フローラはマリア達が戻るまで頭を下げたままだった。
きっと、レオはこのあとフローラの本気の怒りを正面から受け止めることになるだろう。
伯爵家の面子があるため、即座に婚約破棄をすることはないだろうが、何か理由を付けて婚約の解消に持っていくだろう。いくらレオが稀代の色事師だったとしても、フローラの意志の強い目を見れば、そう簡単に行かなそうだ。
きらめくシャンデリアの下に戻ったマリアとクラウスは新しいグラスを取って喉の渇きをいやす。
「とんだ騒ぎに巻き込まれてしまったね」
クラウスはレオがマリアにちょっかいを出したことでまだ腹に据えかねていた。
「本当に。でも、クラウス様が必ず来て下さるのでわたくし、怖いことは一つもありませんのよ」
マリアが悪評を流されても、悪意を向けられても毅然としていられるのはクラウスが味方でいてくれるからだ。
彼の愛があるからマリアは無敵でいられる。
クラウスはマリアの言葉に目を潤ませ、絞り出すように誓いの言葉を贈る。
「ずっと守るよ。一生かけて」
マリアはその言葉を受けて笑顔を浮かべた。
■
一か月後、バッヘム伯爵令嬢の婚約者が『伯爵家に自分は相応しくないと考え、婚約を辞退した』というニュースが社交界に流れた。身分違いの恋を応援していた貴族たちは落胆し、逆に反対していた貴族たちは胸を撫でおろした。
一方、まことしやかに流されているのは、婚約発表のパーティで平民嫌いのアークランド侯爵令嬢が彼を殴打し、罵倒したせいだ……という噂である。
バッヘム伯爵家……主にフローラが否定し回っているが、火消しに躍起になるほど噂は燃え広がり、「あの悪女ならやりかねない」と悪女伝説が一つ増えてしまった。
クラウスや王太子はもちろん激怒したが、当のマリアは一笑しただけだった。
「いまさら悪名の一つが増えたところで構いませんわ。有象無象が騒いだところで毒にも薬にもなりませんもの」
それに、マリアの悪評を振りまくのはもともとマリアを嫌っている人間だけなので、今更騒ぎ立てる必要もない。
牙をむいてくるのなら狩り尽くすまでである。
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