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目覚めた竜はその紫色の瞳でアルデシオンと見つめ合った。
「時が廻ったのか……」
問うように囁いた声は姿にふさわしく、水晶の響きを帯びていた。
アルデシオンは答えず、微笑んだ。
竜は頭を上げ、公爵夫人と娘を見る。
「ああ、そなたら……」
竜は目を細めた。
「随分と形を変えた」
母子は顔を見合わせた。
「大分時を経ましたから」
アルデシオンが答えた。
「何もかもが変わりましたよ。もっとも、あなたにとっては瞬きする間かもしれませんが」
「そうでもない。流石に万年眠るとは思わなんだ」
深く息をつき、竜はゆっくりとその身を起こした。
伸びをするように首を伸ばし、翼を広げる。
そして何かを探るように暫し目を閉じた。
「おお……暁殿の出来があるか」
溜息のような呟きは冷気と混ざって人間の耳にはよく聞こえず、だが冬の精霊には届いた。
「まだ何とも申せませんよ。何しろ本当に、本当に、時が経ちすぎてしまいました」
「ふむ……」
竜は空気の匂いを確かめるようにすんすんと鼻を鳴らした。
「歪みも出ているようだな」
「それについては、あれが無理を通したせいです。おかげで迷惑を蒙った者たちが何人もいます」
忌々しげにアルデシオンは言った。
「そうか。大概迷惑な男だったが、死してなお万年も歪が残ったか」
「もはや自動修正が追い付くような段階ではありません」
もう一度、竜はふむ、と考え込んだ。
「何の話ですの?」
娘が困惑したように問う。
自分のあずかり知らぬ次元で何かが起こっているらしい事だけは理解できたが。
アルデシオンは冷ややかなままの瞳で娘を見、娘は記憶がある限り初めて気圧されて黙り込んだ。
「今起こっている諸々は、あなた方の国、アルトナミの始祖が、引き起こしたことなのですよ」
「始祖、というと」
「アルケ・アルトナミ。希代の大魔導士と言われた男でしたが、物の道理を捻じ曲げて、めちゃくちゃにして死んでいきました。本当に、災厄のような男でした」
アルトナミの国民にとって、遥か昔、魔力暴走以前の国は、未だに憧れであり、取り戻すべき未来であり、また、それが叶わぬ夢でもあった。
それがため、その夢の国の土台を築いた初代王は信仰に近い程敬われてもおり、時を隔てた現在、その手腕と治世を悪しざまに言う者は存在しない。
災厄とまでこき下ろされるのを見聞きしたのは今が初めてであった。
「意外ですか?あの男を誉めそやすのはアルトナミ国民だけですよ」
国外の評判など、気にしたことが無かった。
何故なら、アルトナミ大陸の国々は元が同じで同朋意識があり、更には、それぞれの国の国境周辺が人も住まぬような土地でもあり、盛んに行き来するような事もないからだった。
大昔の「魔力暴走」から、ゆるゆると取り戻した「力」は以前のような爆発力を持たなかった。
細々と命を繋いでいるような状態に近いのかもしれなかった。
娘は母を見る。
当然、母もアルトナミ国民であるからには、アルデシオンの言葉に驚いていると思ったからだが、先ほどまでの表情と変わりはなく、そのことに逆に驚いた。
やや後方にいて、気配を殆ど消して立っていた男も同様だった。
「あの、もしや、そういったことを他の方々はご存じでいらっしゃるの?」
娘は動揺しつつ問う。
アルデシオンは首を横に振る。
「ここにいる人間は、始祖王の呪いに巻き込まれ、否応なく知ることになってしまったのですよ。安穏と暮らしていた他の人間とは境遇が違います」
呪い、と娘は呟く。
「それは、あの、瘴気や魔沼といったあれらと関係ありますの?」
少し前に、異界から呼び寄せた渡り人が浄化して綺麗に消えた黒い靄。
アルデシオンは微かに笑う。
「あれもまた呪いではありますね。ただ、あれは……」
ほんの一瞬だけ言いよどんだ風に見えた。
「あれは神の呪いです」
「え……」
神、とアルデシオンは言った。
それは神殿で祭られている神の事だろうか。
あの輝きに満ちた太陽神か。慈愛に満ちた月神か。
それともそれらを生み出したとされる創造神か。
いずれも呪うなどという話は聞いたことが無い。
何かの比喩なのか。
「この世界は、本来は牧歌的で、のんびりとしていたのですよ。我々はそういった穏やかな空気とふんだんな魔力から生まれた存在です。そのまま緩やかに続いていくはずだった世界を神はお気に召さなかったようです」
「その神とは、創造神、ですの?」
「そう、ですね。そう言っていいでしょう。いずれにせよ」
アルデシオンは言葉を切った。
「この世界は、遠い昔に神に見捨てられているのです」
ひゅっと娘は息をのむ。
そして母を見やる。
母はそれを知っているのか。知っているのなら、神殿に通って一体「何に」祈っていたのか。
母は娘のそれを正確に読み取って微笑む。
「太陽神様は、神の呪いによって一度破滅しかけた世界を、その身を持って救われたの。存在を捧げて世界を維持したようなものだから、その意思はもう淡くて……でも確かにここにありはするのよ。そして月神様は」
視線が遠くなった。
「その際に、大地を支えて力の殆どを使い切ったにもかかわらず、魔力変動で再び同様の力を振り絞ったせいで、永い眠りについておいでだった」
そう、では、やはり祈りは届いていなかったのか。
「でも精霊たちは再び生まれた」
細々と。
魔力暴走以来、その姿を見ることはなくなったと言われていたが。
「精霊は月神様の眷属のようなものだから」
祈りにも、力はあったのだ、と母は言う。
「私の祈りは月神様の目覚めの為のほんのささやかな力の一つ」
神殿は単なる「治癒魔法を施す場所」となりはてたが、治癒に対する感謝の祈りは光の精霊をわずかながら呼び覚ました。
そもそも「光」を重んじる神殿である。
そして夜の光の象徴である月神の疲弊しきった魂をこれも僅かに癒し続けた。
「無駄ではなかったのよ。本当に本当にしずくの一滴でしかなかったけれども」
母は目を閉じ、胸の前で指を組み合わせた。
と、胸の中から小さな光の玉がふわりと浮きあがる。
それはふわふわと宙を漂い、竜の鱗へ触れると消えた。
「私の魔力量ではこの程度が限界」
溜息のような声。
竜はこれもまたひそやかに息をついた。
「美しい「祈り」だ」
竜の白金の体表が、一瞬だけ金色に染まった。
「あ……」
娘はぽかんと口を開けてそれを見た。
竜は一瞬の間に人型をとっていた。




