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月影映る・海  作者: 林伯林
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 「あら……」



 公爵夫人は、馬車の窓から何気なく外を見て、そこが街の風景とは全く違う事に気が付いた。


 いつの間にか、位相を変えたのか。


 うっすらと雪が積もった道で、その両側には、きらきらした氷の花が咲いている。


 不思議なことに寒くはなかった。


 見はるかす地平線は曖昧で、花畑はそこまで続いていた。




 「良かったわ。冬の装いはしてきてないもの」


 おっとりと呟く。


 「ここはどこなのかしら。ご存じ?」


 対面に座った男に問う。


 男は外を見ながら首を横に振った。


 「申し訳ないですが、私には判りません。案内人ではないのです」


 「ああ、そうでしたわね。済みません」


 男の役目はあくまで随伴。


 公爵夫人に夢を見せた「彼の方」に彼もまた遣わされたに過ぎない。


 「お気になさらず。道中つつがないよう、努めます」


 公爵夫人は柔らかく笑んだ。


 「頼りにしています。何しろずっと「この体」は屋敷の離れに閉じこもっておりましたので」


 「ああ……」


 男は曖昧に返事をしたが、公爵夫人は笑みを浮かべたままうなずいた。


 「口さがない人々に色々と噂はされておりましたものね」


 権力者が先見を発揮した下町の年端もいかぬ少女を無理やり連れ去り、その家族までも始末した、と。そして社交界は同情しつつ、少女を取るに足らぬ平民と蔑んだ。人とも見なしていないが故に、噂は娯楽で単なる暇つぶしだ。

 その少女を成人すると同時に妻とした事も、その妻がどうやら心を病んでしまったという事も、面白おかしく消費されたのみ。

 やがて生まれた娘が光魔法を発現したと聞き、今度は他者の成功を妬む者たちが更に悪質な噂を流した。


 社交界デビュー前から、神殿で治癒を行う為に人前に出た娘は、その最初から隙なく、完璧なふるまいを見せたそうだ。

 平民の娘、とひそかに揶揄されもしたが、娘の行使する光魔法は強大で、人々は表だって娘を貶める事はなくなった。

 加えて娘の美貌は冴えわたり、その後の社交界デビューでは他を圧倒し、年若くとも女王のようであったとも。


 「娘は貴族家の生活を楽しめたようですが、私には無理でした」


 楽しんでいたとは言っても、恐らく緊張を強いられる環境ではあったろう。

 その緊張すら楽しんでいたのかもしれないが。


 公爵夫人は心が持たなかった。


 「時折「戻って」はおりましたのよ。あなたが少年の頃、屋敷でお会いしたこともありましたわ。覚えておいでかしら」


 「ああ……、あなたもまだまだ少女で、ご令嬢は幼かった」


 少女は儚く、令嬢は愛らしかった。


 頭を下げ、挨拶すると、少女はにっこりと微笑み、令嬢は幼いながらもスカートをつまみ、美しいお辞儀を見せた。

 幼いまなざしは強い光をたたえ、既に傲慢さの片鱗が見えていた。

 徹底的に教育されているらしい、と思ったものだ。


 公爵夫人の隣に座す、令嬢を見やる。


 あの時の強いまなざしはなく、ぼんやりと窓の外を見やっている。

 零れ落ちる金の髪は豊かで、横顔のラインは繊細だった。きちんと手入れされた美貌がそこにあったが、瞳の力に冷徹さを加えていた青い色は、灰色を帯びて、今は茫洋と滲んでいた。


 「あの時「戻って」おいでだったあなたは、「いずれ御助力をお願いするでしょう」とおっしゃいましたが、あれは先見でしたか?」


 「こうやって、馬車に三人乗っている姿が見えました。娘も一緒とは驚いたのですが」


 かすかな溜息とともに娘を見やる。


 「あの頃はまだ娘も、時折「戻る」私と話をしたり、散歩をしたりする事を好んでいたのですが、いずれ私とは正反対の人間になっていくのは判っていたので」


 神殿に女王のように君臨する様が既に見えていたのだろう。


 「わたくしは正気を保つために、殆ど「あの方」の結界内にいましたが、娘は現世で大勢の人間に傅かれ、あの男に骨の髄まで染め抜かれていきましたから」


 そこには僅かな悔恨がにじんでいたが、どうしようもなかったのだろう。

 娘はある時から、自ら望んでそうなっていったのだ。


 「わたくしを何の価値もない物と見なした瞬間から」


 平民であるが故、何の抵抗もできず貴族に蹂躙され、心を壊すことでしか、己の命を守れなかった無力な存在。

 娘は母を憎んでさえいた。


 力が無ければ、全てを蔑ろにされ、抗う事さえできない。


 そのような存在にはなりたくない、とある時期から思い始めたようだった。


 「何か切っ掛けがありましたか?」


 「さあ、どうでしょう。それ以前にあの男の教育が行き届いてもいましたからね」


 公爵夫人があの男呼ばわりするのは、勿論公爵本人である。



 道の向こうに、きらきら輝く小さな神殿が見えてきた。



 周囲に咲く花と同じく、氷で出来た建物だった。



 馬車は真っ直ぐそちらへ向かい、入り口前で止まった。


 扉の前には真っ白な恰好をした人物が立っていた。


 腰まで伸びた緩やかな巻き毛も真っ白で、眉もまつ毛も真っ白、瞳の色はグレーで、唇だけがわずかに赤い。



 「お久しぶりです」



 公爵夫人が馬車を下り、挨拶する。


 相対する真っ白な御仁は男であるか女であるかも定かではなく、ゆっくりと頷くと、優雅に背を向け扉に触れる。


 扉は静かに開き、三人を迎え入れた。



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