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「私、お城へ行くのね……」
紅薔薇が集まった場所の上に浮かんだ水鏡。
不思議なものを不思議と思わず、それに映し出される映像を見ながら娘は呟いた。
「私、ここにいるのに不思議だわ」
そちらは不思議に思うらしい。
薔薇色の羽をはためかす精霊は水鏡の縁に停まっていたがそれを聞いて笑った。
「あれはあなたの抜け殻よ。戻りたいの?」
「いえ、そういうわけではないの」
戻そうかという申し出を先だって断ったばかりでしょう、と、娘は鏡の中の馬車を見つめながら言う。
「むしろ何の感慨もないのに驚いているの。私、何故あんなに挑発的だったのかしら」
周囲はほぼ敵、一瞬でも気を抜けば破滅。常に緊張状態で過ごしていた。
そう教育されたからだった。
父親に。
家には父が先妻との間にもうけた三人の兄たちがいて、実質家督は長男、あるいはそれに何かあればその弟たちのものであり、本来は娘は「余りもの」の筈であった。
父は先妻を亡くして後、長らく独り身だったが、ある日、下町で見つけた少女を無理やり屋敷へ連れ込んだと聞く。
王都の端の小さな神殿でささやかな先見を見せていたとは言うが、何の後ろ盾もない所詮は平民の少女。
それが母となれば、いかに公爵家の血筋とはいえ、ないがしろにされて当然であった。
しかし、娘は父の望み通り、膨大な魔力量と強い光魔法を発現した。
父は、統治能力に長けた息子たちとは別に、魔法に能力を発揮する子も欲したのだ。
光魔法の才能は稀有であり、その能力ありと判定された子は、それがどんなにささやかであっても、中央神殿へ集められ、治癒士として勤める事を義務付けられていたが、光魔法を発現した子を持つ貴族家は、その力に応じた権力を神殿内で持つことになる。
公爵は娘を最大限利用した。
息子たちよりも溺愛する様を見せてもいたが、それは外に対するポーズだろうと娘は感じ取っていた。
何を言われたわけでもないが。
母の身分の低さ故に、足をすくわれることがないようにと幼い頃一度だけ噛んで含めるように言われた事を憶えている。
娘は父の駒であることを受け入れていた。
受け入れた上で、最大限己の利となるよう動いていた。
その振る舞いもまた、父を満足させた。
今思えば、そうせざるを得なかったが故にそう振る舞っていただけの事で、別段父にどう思われようがどうでも良かったのだったが。
「馬鹿みたいね」
精霊はそれを聞いて笑った。
「仕方がないわ。あなたは「ここ」を知らなかったんだもの」
「そうね」
娘は周囲をゆっくりと見回した。
精霊の飛び交い、花の咲き乱れる、美しい庭を。
「所で……」
もう一度、水鏡の馬車へ目を移す。
「何故シラサギ伯爵の馬車が迎えに来ていたの?」
見覚えのある紋章が小さく控えめについている。
当主が目立つことを嫌うため、そうしているのだと噂に聞いたことがある。
公爵家とはあまり関係のない家門だった筈で、当主は殆ど領地から出てこず、長男以外の息子は文官務めで王都にはいても社交の場に積極的に出てくるような事もなかったので殆ど交流は無い。
いや、一度か二度、子息の一人を屋敷で見かけたか。
挨拶程度はした覚えがある。
ごく、幼い頃。子息の方は未だ少年と言っても通るような年頃だったか。
華奢な身体と青白い頬をした、思わず見とれるほどの美貌の持ち主だった。
うっすらと浮かべる微笑に、使用人たちまでも溜息をついたが、娘にはそれが酷く冷やかに見えた。
それから暫くして何かの折に見かけた時、その美貌が見る影もなく変貌していて驚いたが、本人はだいぶ楽そうに生きているように思えた。
恐らく、あの美貌が少年にとっては良い事ばかりではなかったのだろうと想像はしたが、それきりだった。
「あの人はね、あなたと「同じ」なの」
精霊が言って、娘は不思議そうな顔をした。
「あなたの母親もそれが判っているから素直に受け入れたの」
「「あの方」がそのようにせよと?」
「移動の足は必要でしょう?」
少し時間も必要だから、あの馬車は都合が良かったの。
精霊は言ってにっこりと笑った。
暑い……
ぐったりです。
皆さまもくれぐれもご自愛ください。




