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「お、奥様……」
侍女が青い顔をしてかすれた声で主人の妻に呼びかける。
いささか震えてもいるかもしれない。
奥庭の離れに閉じこもったきり、殆ど姿を現すことのないこの家の女主人の顔を何故知っているかというと、つい最近見おぼえたからだ。
その時も、突然本邸へやってきた。
ゆらりゆらりと覚束ない足取りで。
そして侍女が実質仕えているこの家の娘の部屋へとやってきた。
あの時は、夫人の姿を見るなり力が抜けて床へ頽れたのだったが、今回はしっかりと立っていられた。
縛られたように動けなかったが。
夫人はまっすぐに寝台へ向かい、横たわる娘にその緑の瞳を向けた。
「起きなさい」
そう言って、もう何ヶ月も寝たきりの娘の手を取った。
娘は眠っておらず、ぼんやりと母親を見上げた。
「起きなさい」
夫人は繰り返した。
繋いだ手から柔らかい光があふれて娘の身体へ流れ込む。
そうして、それで幾ばくかの力を取り戻したかのように、娘はゆっくりと半身を起こした。
夫人は侍女の方を振り返る。
凍りついたように固まって動けずにいた侍女は、目が合ってびくりと身体を震わせた。
「あなた、この子の出かける支度を手伝ってちょうだい」
「え……」
「最低限でいいから」
「は、はい……」
本来なら、いくら女主人の命令とはいえ、止めるべきだったのだろう。
久しぶりに起き上がり、立ち上がった娘の手はやせ細り、高慢でつねに顔を上げて堂々と胸を張っていた筆頭公爵家令嬢の面影はなく、儚く今にも消えそうな佇まいだった。
「心配いらないわ。必要なだけの力は分け与えたから」
夫人の声は、侍女の躊躇いを払いのける。
娘は侍女に手を引かれるまま移動し、寝巻からドレスではなく、ゆったりとしたトーガの上に魔導士のローブを着せられ、ドレッサーの前に誘導されて素直に腰をおろし、うっすらと化粧を施され、髪をゆるく結われた。
この状態の娘に下手にドレスなど着せるよりは、身体も楽だろう。
「では行きましょうか」
夫人もドレスではなく、似たような恰好をしていた。
娘の手を取ると、ゆっくりと歩きだす。
しっかりとした足取りだった。
階段を下り、ホールを抜けて玄関へ向かう。
「奥様、そんな状態のお嬢様を連れて、どちらへいらっしゃるのです」
執事が慌ててかけてきた。
「お呼びがかかりましたので、王城へ参ります」
歩みを止めずに夫人は答える。
誰が、どうやって呼び立てたと言うのか。
昔から、夢と現のあわいに住んでいるような女だった。
その茫洋とした眼差しであらぬ場所を見ながら、うわごとのように先見の夢を語る声を執事はわずかに恐れ、わずかに蔑んでもいた。
主人のように。
それを押し隠して長年勤めてきたが、突然突飛な行動に出た女に、その思いがあふれ出した。
腹立ちまぎれに、力づくで止めるよう執事は使用人たちに合図したが、伸ばした手は、見えない何かに阻まれて届かず、弾き飛ばされて皆尻もちをついた。
「奥様、せめて、旦那様がお帰りになるまでお待ちください!」
何が起こっているのか理解できないが、何とか止めなければと執事は叫んだ。
夫人は軽く手を触れるだけで重い扉を開いて、ちらりと目を向けた。
「旦那様は王城にいらっしゃるわ。待つ必要はないでしょう」
ふわりと、微かな笑みを浮かべる夫人に、執事は呆気にとられて言葉をなくした。
この家に連れてこられてから、初めて笑みを見せられたのだった。
それはそれは、美しかった。
扉は軽々と大きく開かれ、夫人は娘の手を引いてゆっくりと外へ出て行った。
眩しさに目を眇めた執事は、玄関前に見知らぬ馬車が停まっている事に気が付き驚いた。
何時の間に門が開かれたのか、何時の間にここまで入ってきたのか。
馬車の扉が開き、現れた人物に目を瞠る。
「わざわざ迎えに来ていただいたのですか。ああ、そうですね。ゆるゆる参りましょうか」
何故か夫人の声しか聞こえず、中の人物に手を取られて、二人は乗車し、執事はただただ呆然と見送ることしかできなかった。




