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静音は零れ落ちる赤いしずくを受け止めた手を払った。
飛び散る血が、魔力を帯びてシールドと混じりあった。
それが竜の風の斬撃を跳ね返した。
竜の攻撃が束の間やみ、静音は肩で息をつく。
同時に、また、吐き気がこみあげ、口の中一杯に広がった血の味の中に、固い感触があった。
吐き捨てると、血の中に小さな石が転がっていた。
静音は、血の効果を見て、己の両手のそれを魔力に混ぜて結界を作って、次の竜の攻撃に備えたが、何故か竜は動きを止めた。
静音は竜を目の端に入れながら、転がった石を拾い上げた。
血を浄化し、現れたのは、高濃度の魔力を含んだ無色透明な石だった。
それは一見魔結晶にも思えたが、魔力の中心に妙な揺らぎのある芯を抱えている。
それを、無意識に「見た」瞬間、静音は、再びこみ上げた物に耐え切れず、大量の血を吐きだした。
***
薔薇色の薄羽を背中で緩やかに揺らしながら、精霊が歌っていた。
それを心地よく聴きながら、娘は花園をゆっくりと当てもなく歩いていた。
穏やかな風が吹き、花の香りを舞い上げ、晴れた空からは春の日差しが降り注ぐ。
貴族令嬢としては、帽子や日傘無しで屋外をうろつくなどありえない事ではあったが、娘はここへ来てからそのような事は全く気にならなくなっていた。
それまでの自分からすれば信じられない事である。
信じられないと言えば、先ほど聞こえた母の声である。
帰ってくるかと尋ねられた。
この穏やかで美しい花園から。
十分満足し、楽しんでいるのに、考えられない。
「本当にいいの?」
薔薇色の羽の精霊が近づいてきて尋ねた。
「王子様と結婚するんじゃなかったの?」
無邪気な問いに笑う。
「そうねえ……。それが目的、であるかのように教育されてきたのだけど」
「けど?」
「ここへ来てしまったら、どうでもよくなってしまったわ」
花園を見回しながら、娘は言った。
公爵家の庭でさえ見たことのない色の薔薇が一面に咲き誇っている。
ここへ来たと気づいた時、何故か呼吸が楽になった。
花それぞれが帯びている金色の光が魔力である事を見てとって納得した。
「息がしやすいの……」
娘はそう言ってゆっくりと東屋へ向かって歩いた。
花園の中にぽつんと作られたそこは、テーブルの上にいつもいれたての茶が用意されていた。
椅子に腰を下ろすと、白い陶器のティーカップを持ち上げる。
こくりと一口飲み下すと、爽やかな香気が喉元を滑り落ちる。
「お茶は精神の滋養にはなるけれど……」
精霊が困ったような顔で言う。
「肉体は持たないわよ?必要最低限程度」
娘は少し意外そうな顔をした。
「肉体にも滋養効果があるの?」
「生命維持に必要な最低限はね。でも今だけの事よ。いずれ持たなくなるわ」
娘はこくりこくりと茶を飲みながら、考え込むような顔をする。
茶は喉元を過ぎると己に溶け込むような心地がする。
「母はあの方にお声をかけて頂いたそうだけれど、ご心配くださったのかしら」
精霊は微笑む。
「そうね」
「どうしてかしら。母にも叱られたけれど、私渡り人にひどい仕打ちをしたのよ」
怒ってないのかしら、と小首をかしげる。
「人間の感覚とは違うのよ」
精霊は何でもない事のように言った。
「私なら、同じ目に合せてやる、と思うけど」
ふふふと精霊は笑った。
「怒ってないわけではないのよ」
「そうなの?」
「少なくとも精霊は愛する者が虐げられたら許さないわ」
「では、私は精霊に罰されるかしら」
ぼんやりと遠くを見やって娘は呟いた。
「罰されたいの?」
「まさか。でも避けようもないのでしょ?」
「まあ、そうね」
精霊はぱたぱたと羽ばたいて真紅の薔薇の上にとまった。
「あの方の思し召しのままに、だわ」
ぱたりと筆が止まってしまいました。
時間が開くか、ちびちび上がるか、になってしまうと思います。
申し訳ない。




