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「こちらに未練もなさそうでしたわ」
先ほどからおろおろしている侍女を哀れに思ったのか、夫人は開かれた扉の向こうで様子をうかがっていた使用人達を手招きして、侍女を連れて出るよう促した。
「そんなはずがあるか」
それを見送りながら、公爵は言った。
夢見以外は役に立たぬ妻から引き離し、公爵令嬢として最高の教育を施したのだ。
その性格は公爵によく似ていて、野心もあり貪欲で、貴族として必要な高慢さも備えていた。
細心の注意を払って研磨した最上の宝石。
戻ってこないだと?
「あちらがよほど楽しいのでしょう」
冷ややかな眼差しのまま、妻は踵を返した。
「どこへ行く」
「部屋へ戻ります」
ゆっくりと廊下へ出て歩き出す。
優雅で威厳に満ちた足取りだった。
何もできず、震えて泣いていた幼女の姿はどこにもない。
「そなた」
公爵は思わずといったふうに呼び止める。
妻は足を止めて振り返った。
冷ややかな瞳の色は澄んだ緑だった。
そのことも、今、初めて知った。
「レイメ」
そう、名を呼んだ途端、その澄んだ緑からすっと輝きが失せた。
はっとした時には、常の通り、妻の表情は茫洋とした虚ろな仮面に覆われた。
何も見えず、何も聞かず、現でない世界に生きる哀れな姿に。
先ほどまでの威厳のある足取りとは違い、ふわふわと空気を踏むような拙さで、ゆっくり、ゆっくり、階段を下りていく。
見かねた使用人の一人が手を取ると、漸く、廊下の向こうから妻専属の侍女たちが駆けてきた。
恐らく、先ほどの娘の侍女と同じように、意識を失っていたのだろう。
***
泉の水は---
歌声に悲痛な響きが混ざる。
月神の要求した演奏は終わり、吟遊詩人は泉に沈む神像を見つめながら誰にも要求されていない歌を歌い始めた。
竪琴の音色に合わせてほのかな金色の光を明滅させる、美しい神像の為に。
ひそやかな眠りのたゆといに、慰めはあるのか、癒しはあるのか
我らの全てをその身におうて、水底に沈む彼の君よ
その水は清浄か
その水は慰撫するか
その水は……
ごぼりと、水が沸き立つ音がした。
金に光る神像の胸元に赤い靄が立つ。
無色透明な水の中の異物。
短くて済みません。




