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月影映る・海  作者: 林伯林
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 死んでたまるか、と思った時、それは身体の中で弾けた。


 ばちん、と分厚いゴムが千切れ飛んだような衝撃を感じた。


 同時にこみあげてきたものを必死に飲み下そうとした。


 今、そんな場合ではないのだ。


 だが、押さえつけてもあふれ出てくるそれは、「けほ」と咳ひとつで口からあふれ出た。


 赤い色をしていた。



 ---ほ、ほ、



 竜は目を細めて攻撃を中断した。


 静音は視線を竜から話さず、だが、口を押さえた手の、指の間からは、真っ赤な液体が零れ落ちていた。



 ---どれ



 竜は視線を合わせて静音の「中」を覗き込む。



 ---もう少しかの。



 漸くえずきが止まった静音に向かって、再び雷撃が落ちる。


 静音はシールドを分厚くしてそれに耐えた。


 それを見て、竜は風による斬撃を繰り出してきた。


 雷撃が粒子の結合を緩ませてシールドを薄くするなら、風の斬撃は、文字通りシールドを「削り取った」。


 いずれにせよ、静音は絶え間なくシールドを補強し続けなければならない。


 そのこと自体は、眠っている間でさえシールドを保持し続けてきた静音にとっては慣れてくればさほど難しい事ではない。


 だが、攻撃の衝撃が走る度、身体の奥から湧き上がってくる吐き気は一体何なのだ。


 しかも吐きだすものは血である。


 自分の身体で何が起こっているのか、静音には理解できず、混乱した。


***



 王城での、言うに言われぬ後味の会談から帰宅した公爵は、執事から驚くべき報告を受けた。



 「いつからだ」


 「つい先ほどでございます」


 公爵はすぐに庭へ出るべく踵を返したが、その前に、階段下にある人影に気が付いた。


 「奥様」


 執事が声をかけたことで、遅ればせながら公爵はそれが妻であることに気が付いた。


 奥庭の離れに閉じこもったまま出てこない、名ばかりの妻。


 表ではそう言われている。


 まだ幼女であるうちに攫ってきて、年頃になるとすぐに娶ったが、その能力以外に興味はなく、望みどおり力を持った娘が生まれた為、普段は殆ど気にすることが無い。


 「夢見」の時以外は。


 「レイメ……」


 公爵は妻の名を呼びかけたが、妻は聞こえていないかのように顔もむけず、するりと足を踏み出し、階段を上っていく。


 決して急ぎ足ではなく、むしろゆっくり優雅に動いているにも関わらず、すいすいと階段を上ってしまうと、そのまま廊下を歩きだす。


 一番奥の、東南の角部屋。


 そこは、公爵家の宝石の部屋。


 跡取りである息子よりも大事にされてきた娘の眠る。


 妻は扉に手を触れる。


 扉は音もなく開いた。


 ノブが動いた様子もない。


 はっとして公爵は駆け出した。


 「レイメ!」


 娘の部屋へ駆け込むと、妻は寝台の傍らに佇んでいた。


 娘が生まれてから、意図的に引き離したのではあるが、妻の方も今に至るまで一向気にかけた風もなかったのに、一体どういうわけで、と公爵が一歩近づくと、妻が茫洋とした顔をこちらへ向けた。


 視線が合うと、その茫洋とした表情が抜け、冷徹な仮面のようになった。


 公爵は足が止まってしまった。


 冷徹な顔のまま、公爵夫人は寝台に横たわる娘を見下ろした。


 娘は、火魔獣に襲われて後、意識を失って目覚めると、心をここではない場所へ移してしまったかのように、誰の事も見ず、誰の声も聞かず、茫洋とした表情で一日中寝台に横たわって過ごしていた。


 それは図らずも、無理やり妻にした女の、初夜後の過ごし方と同じであり、妻専属の侍女達は何か思う所があったのか、不安げにしながら妻の世話をしていた。


 そう言えば、侍女たちは、どこにいるのだろう。


 常に妻の傍に控えているよう、申し渡している筈なのに。 



 妻の心は壊れてしまったと思われていたが、時折、束の間、正気に戻る。


 夢を見た、と言って、短い夢の内容を話し、それだけで力尽きたように倒れ伏す。


 一人で部屋を出、屋敷の中を歩き回る事など、今に至るまで一度もなかった。



 「遠くにいるのね」



 公爵夫人は、やつれた娘の顔を見下ろしながら呟いた。



 「『あの方』に随分失礼な事をしたようだけれど……ああ、下の者達が忖度してそうなったと。まあでも、あなたも敢えて止めなかったのだから同罪でしょう」



 娘のガラス玉のような瞳を覗き込みながら、ふっと息をついた。



 「戻ってくる気があるのならば、呼んであげましょう。どうしたいの?」



 娘はゆっくりと瞬きした。





 公爵夫人はそっと寝台傍を離れた。


 そこで我に返った公爵はもう一歩踏み込み、そこで、娘の侍女が床に倒れている事に気が付いた。


 公爵夫人はそちらへ歩み寄り、右手をかざした。


 どういった作用か、侍女は意識を取り戻し、主人と、滅多に顔を見せない公爵夫人を見て慌てて立ち上がろうとした。


 「急に立ち上がっては駄目よ」


 公爵夫人はそう言って止めた。


 柔らかな声だったが、娘は縫いとめられたように止まった。


 「ゆっくり立って、そちらの椅子へ腰を下ろした方がいいわ」


 寝台の脇に置かれている椅子を示した。侍女は躊躇うような顔をしたが、公爵夫人の優しげな顔と声に促されるまま椅子へ腰を下ろした。



 「どういうことだ。何が起こった」



 公爵がやや固目な声をかけると、侍女はびくついた。


 対照的に公爵夫人は静かに、冷ややかな視線をよこした。



 「こちら側へ戻ってくる気があるなら、呼んであげようと思ったのですよ。『あの方』がお声掛けくださったので」



 謎な事を言う。



 「あの方とは誰だ」



 公爵夫人はふっと微笑んだ。


 はっとするほどの美しさだった。



 そう、美しかった。


 そのことに初めて公爵は気が付いた。



 「あの方はあの方ですわ。時により呼び名も違いますし、その分沢山の名もお持ちです」


 「部屋から一歩も出ぬお前がどこで見知ったのだ」



 ふふ、と彼女は笑った。


 周囲に得も言われぬ花の香気が満ちた。



 「生まれた時から存じ上げております。あの方のお姿を夢に見るくらいの事でしたが、先ほど初めてお声をかけて頂きましたの」



 彼女はうっとりと指を組み合わせて虚空を見つめた。



 「娘が望めば、その意識をこちらへ戻す事も可能、と」



 「では戻せ」



 公爵は即座にそう命じた。


 だが夫人は微笑んだまま、視線を冷ややかに変えた。



 「無理ですわ。娘はそれを望みませんでした」


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