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「一体、どういうことです……」
ギィは今何が起こったのか俄かには理解できず、消えてしまった静音がいた場所へ駆け寄って、天使を振り返った。
天使は常とは違ってすぐには消えず、宙に浮いてもおらず、地に足をつけて立ち尽くし、愛してやまぬ吟遊詩人を静かに見つめていた。
変わらぬ美貌に微笑を浮かべて。
だがギィは先ほど、それが変貌する様を僅か一瞬の間ではあったが見てしまった。
瞬きする間の出来事で、見間違いではないかと思いもした。
しかし、天使の血まみれの右手と、返り血に染まった白い衣が、現実を知らしめる。
長く伸びたと見えたかぎ爪は元に戻っていたが、白くたおやかな指先からは血がしたたり落ちている。
血の匂いに気が遠くなりそうになりながら、ギィは何故、と繰り返した。
「彼女が何をしたというのです。何故こんな事を」
天使は微笑んだまま小首をかしげた。
そして、ゆっくりと右手を上げ、目の前に持ってくると赤く染まったそれを確かめるように指を開いたり握りこんだりした。
「そも彼女は霊体であったはず……何故」
天使はギィを柔らかな眼差しで見つめる。
瞳は空の色で、見つめられていると、ギィはいつもそこから空を覗いているような気分になってくる。
金色の豊かな髪は空に差す陽光のように光っている。
それはまさに「天の使い」にふさわしい姿だった。
右手と衣服の血糊さえなければ。
「何故……」
ギィは掠れる声でなおも問う。
天使はふと視線を巡らせ、天井のオレンジの光の玉を見やった。
と、同時に、そこから小さな閃光が弾けて薄暗い周囲が一瞬だけ昼の明るさになる。
思わずぎゅっと目を閉じたが、ふわり、と何かの気配を感じて、ギィは瞼を上げた。
天使の傍に淡い金の光を放つ羽毛が一つ浮かんでいた。
羽毛の淡い光は羽毛を中心に輪郭を天使の姿に変えた。
翼がはためくと、暖かく柔らかい魔力の気配が周囲で渦巻いて、包まれる。
すっとその光の輪郭が天使と重なった。
---この体に発声装置は無い。
頭に直接響いてきた声にギィは息をのんだ。
---天井の魔力を少し削り取ってみた。聞こえているか。
「……聞こえて、いる」
ギィは呆然と答えた。
人形の口元は微笑のまま。
---私の使命はあれに攻撃を加える事。それのみの為に存在している。
「何故そんな……」
---問われても、私は答えを持っていない。
「では、あなたにそんな使命を与えたのは誰です」
---誰、誰だろうな。同じく答えは持っていない。
「そんな、誰とも判らない人に命じられて、疑問に思わないのですか」
---私は人形だ。作った者の意志のままに動くだけ。
微笑の形をした口元が開くと、そこにはぎらつく金属の鋸歯が見え、瞳は金色に変じてそこもまた金属の光を反射した。
ギィは恐怖し、それでもたじろがず首を振った。
「では、何故ホールに現れ続けたのです。それもあなたを作った者の意志というのですか」
人形は答えなかった。
微笑を浮かべたまま時が止まったかのように沈黙が降りた。
「私はあなたに歌を聴いてもらえてとても嬉しかった。気に入ってもらえたのだと思っていた。違ったのか?」
ギィが静かに問う。
人形は答えない。
ギィの指先が竪琴の弦に触れると澄んだ音がぴんと響いた。
人形はぱしりと瞬きした。
吟遊詩人は即興のメロディを紡いだ。
人形は竪琴を凝視し、周囲を取り巻く金の光の翼が再び羽ばたいた。
暖かい魔力の波動はやはり心地よく、ギィは緩やかな酩酊に身を任せたくなる。
そんな場合ではないのに。
だがその波動こそが天使の心持ちの証左であるように感じて、手を止める事が出来なかった。
---あれへの攻撃は試練であろう。
ふと人形は呟いた。
瞳の色は空に戻り、口元もまた微笑に戻った。
ギィはよりゆったりとした旋律に変えた。
---何度も襲い掛かり、何度も斃された。私の魔核に刻まれた記憶から恐らくそう判断する。
「静音は一体何者なのです」
人形は空色の瞳を上げた。
金属的ではない金色の光が反射して、より神聖さを増していた。
---異界より呼び寄せられし力持つ者。
「異界……?」
---魔力脈に弾かれし負の魔力粒子のなれの果てをあれに祓わせたであろう。
黒い髪、黒い瞳。
そこで初めてギィは静音の特徴に思い至る。
召喚された神子と同じではないか。
何故、今まで気づかなかったのか。
「では、あなたは」
伝説に聞き、また近くは火と水の魔獣として王都を襲って存在を実際に知らしめた一連の---
---私は「鳥」だ。
「浄化は終わったのに何故出てきたのです。あなただけではない。火の魔獣も水蛇も」
---何故か。何故だろうな。我らの出現は異界より召喚の成った時に連動するよう定められているのだが。
そして、その通りに目覚め、この度の渡り人にも一度は斃された。
---この度の体には、前までとは違う命令が一つ追加されている。
「命令?」
---自壊というべきか……。使命は終わったという事なのだろう。
「ではなぜ静音をまだ攻撃するのです」
---我らの破壊衝動はそのままだ。元の使命も取り消されてはいない。
瞼は閉じられた。空が消える。
---攻撃せよ、破壊せよ、自壊せよ。火や水には躊躇いが無かった。土は僅かばかり思い残しがあった。そして我は何故かそなたの「音」にひかれた。
かたり、と首が傾げられ、かたかたと唇が震えた。
---我は、風。時に「音」を聞き、それを持って攻撃の手段とさえした。我は音の力を知っている。そなたの、力を……
唇の震えは酷くなり、それは全身をがたがたと震わせた。
かっと開かれた瞳はもう空の色ではなく、再び金属の冷たい金色をし、震えながら口は耳まで裂けてぎざぎざの歯を見せながらがちがちと音を鳴らした。
ギィは後ずさった。
---我は、そなたの力にひかれた。使命を忘れる程に。その、美しい、歌声、に……
かたかたと全身を震わせながら、人形は右腕を上げた。
血に染まった爪が再び現れていた。
---風を、風を、風を、
壊れた何かの装置のようにかぎ爪がガタガタと震えた。
恐ろしい歯が覗く口も閉じたり開いたりを繰り返す。
全身が揺れ、腰が反り返り、人体ではありえない方向へ折れ曲がり……
へし折れる……
ぱっと金色の光が一際輝いた。
ギィは眩しさに目を閉じ、恐る恐る開く。
そして息をのんだ。
二つに折れた人形のそばに、金色の輪郭が立っていた。
それは先ほど人形の姿に重なった光と同じに見えたが、ゆらりと翼を持ち上げて羽ばたいた瞬間、人形とは全く異なる存在であると、何故かギィは理解した。
その金色の波動は、先ほどの人形のそれよりもなお繊細で更に力強く、暖かな安寧でギィの恐怖に固まった心を包み込んだ。
---大丈夫かしら?
頭に響いてくる声さえ、人形のそれとは異なっていた。
「何が、起こったのです……?」
ギィは震える声で問う。
---自壊したのね。
「今、この時に……?」
---この時だったからだと思うわ。ここでたまたま利用できる魔力を得て、あなたと言葉を交わし、それによって内在する望みを自覚して、設定された命令以外のものの存在に混乱したのよ。
「望み……」
---この人形は、ことさら音に敏感に作られているようだから、あなたの魔力の乗った美しい音に惹かれたのね。本来なら、意思を持たない人形が。
「意思を持たない……」
ギィには信じられなかった。
人形は、自らの意思でホールに現れ、微笑んでいた筈だ。
---長い長い年月を過ごせば、自動人形にも意思が宿って不思議はないと思うわ。この子らは自己判断可能な回路を刻まれた魔結晶を搭載されている筈だもの。
溜息をつくように、影が揺れた。
---怖い思いをしたわね。可哀想に。
そう言ってギィを金色の魔力の翼で包んだ。
人形の羽ばたきの波動の数倍の力を感じた。
暖かく、心の底まで慰撫するような、安寧の波動だった。
人形のそれが天の使いの波動であれば、この金色の影のそれは天そのものの……
「あなたは神なのですか」
ギィの問いに、一拍置いて金の影はゆるゆると首を振った。
---そう呼ばれた事もあったけれど、私が出来ることなど限られているわ。実際神は別の所にいて、この世界にさほど関心もない。
「関心が無い?」
金の影の顔がこちらを向いたように思えた。
微笑が見えたような気がした。
---不満かしら。それとも不安?
---でも逆に人は自由よ。
陰ではなく、その表情が見えたなら、人の悪い笑みを浮かべているだろうと容易に想像できた。
「最初から関心が無かったのか、それとも途中から?」
---かなり早い段階からだったけれども、まあ、途中からね。
ギィは溜息をつく。
精霊や妖精と並んで、神話の歌は多く歌ってきたのだ。
---あなたの歌は美しいわ。本来魂の無い筈の人形さえ引きつけた。それで充分ではなくて。
確かに、神殿で歌われる祈りの歌とは違う。
とはいえ。
金の影はねじ曲がってしまった人形を包み込むように翼を動かした。
---この子連れて行くわね。
「どうするのです?」
---弔ってあげるのよ。意味も分からず渡り人をただひたすら攻撃するためだけに存在し続けた可哀想な魂を。
「そうですか……」
瞳は閉じられ、幸いなことに鋸歯の口も閉じていた。
元の通り、天の使いのように美しい容貌だった。
ギィは人形を歌った歌の旋律だけを竪琴で弾いた。
金の影は満足げに頷いたように思った。
「静音はどうなりました」
もう一つの心にかかることを尋ねる。
---多分大丈夫だと思うわ。あの子は治癒魔法が使えるし。貧血が心配なくらいよ。
ギィはほっと息をついた。




