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清らな少女は月神の巫女となりて
その御手に恵みを授かり、暁の歌を歌う
珍しく吟遊詩人は邂逅した時の歌を歌っていた。
有翼の佳人の為には、なるべく明るく楽しげな演目を選んでいたように思ったが。
意識を傾けて、彼が今日はホールではなく、郊外の田園地帯にいる事に気が付いた。
休日なのか気まぐれなのか。
彼の歌は人を寄せてしまう。息抜きにはなるまい。
静音は、魔力蛍の一つを動かす。
防壁を越えて、爽やかな風がそよぐ中、歌声へ近づく。
吟遊詩人は村人たちに囲まれて竪琴片手に歌を披露していた。
何度もアンコールに応え、歌い終わると、足もとに置かれた帽子の中にコインが投げ込まれる。
村人たちの気前は悪くはなかったが、王都のホールで歌う方が遥かに実入りは良い筈だ。
吟遊詩人も別段儲けようというつもりもないのであろう、一礼してにっこり笑うとここまでと帽子を取り上げた。
村の外れまで歩くと森へ至る小道がある。
人の出入りが頻繁にあるので道は比較的綺麗で、森そのものも相当奥でなければ危険な獣も魔獣も出ない。
村人にとっては恵みの森であった。
吟遊詩人は森へ入り、見知った場所のようにずんずん歩いて行った。
道を逸れて、木立ちへ入り、時折短く歌いながら。
彼の歌には「力」がある。
獣も魔獣もくるりと向きを変えて遠ざかる。
中には人を食う類の魔獣もいたが、何かを感じ取ったように彼のいる場所を避けて通った。
吟遊詩人は、そういった生き物の気配を感じているようにも、全く気にしていないようにも見えた。
そうするうち、ぽっかりと開けた場所へ出た。
中央に泉があり、その周囲は樹木がなく、陽光が降り注ぐ柔らかな草地となっていた。
吟遊詩人は水面を覗き込むと竪琴の弦を弾いて短い祈りの歌を歌った。
木立の向こうに黒い影が見える。
巨大な一枚岩が森の中に埋もれていた。
朽ちかけた小さな祠がある事から、それなりに敬われていたのだろうが、現在では人が通う場所でもないようだった。
吟遊詩人が、何故その場所を知っていたのか。
静音は巨石に興味を引かれて少し浮き上がり、上空からじっくり観察してみた。
全体に真っ黒で台形に近い形をしており、小山のようだった。長い年月で侵食を受けてはいるが、固い岩質なのか大きなひび割れ等は見当たらない。
頭頂部はなだらかで、薄く土が積もっているのか、雑草がまばらに生えている。
岩の中を探ってみようと魔力糸を伸ばしかけた時、吟遊詩人の歌声が聞こえた。
意識を向けると、祠の横に立ち、岩に向かって歌っている。
短い歌が終わると、ぽこりと岩に穴が開いた。
吟遊詩人はためらうことなくその中へ入っていく。
静音は後ろに続いた。
吟遊詩人は囁くような声で歌いながら歩く。
緩やかな、小川のせせらぎのような優しい歌声が薄明るい洞窟に満ちる。
そう、薄明るい。
それがどこからくる光か静音は見回し、岩壁が薄く発光している事に気が付いた。
一体この岩の材質は何だ。
天に満ち、地にも満つ
そは暁の光
不意に吟遊詩人が朗々と歌い出した。
道はいつの間にか広いホールのような場所へ出ていた。
天井は高く、歌声は美しく反響していた。
四方から押し寄せる音は混ざり合い、不思議な共鳴を呼び起こし、それに反応するように壁が天井がうっすらと光り、色を変える。
そして気が付く。
広間の中央には明らかに人の手で作られたであろう長方形の穴があり、そこには澄んだ水が満ちて、更にその水の中に。
シリル・バトゥの神像が横たわっている事に。
どうやらここもまた神殿の名残りのようではあった。
よく見ると、壁には月神の神殿で見たレリーフとよく似た像が彫られており、月神の神殿と異なる点は、天井の中央に仄明るいオレンジの光が浮かんでいる事か。
吟遊詩人の歌はいつのまにか再び囁くような声に変わり、人工の泉の傍へ近づき膝をついた。
暁の愛せし精霊よ
目覚めの時は来ぬか
吟遊詩人の声の魔力が水面を波立たせ、像の輪郭が金色の光を帯びる。
だが、それだけで終わってしまった。
吟遊詩人ははっと顔を上げた。
静音は息をのんでその場を引いた。
魔力蛍で覗き込んでいた筈が、どういったわけかその姿が水面に映りこんでいた。
「待って!」
慌てて戻ろうとしたが、吟遊詩人の「声」に呼び止められた。
静音は信じられない思いで顔を上げる。
勿論、振りほどこうと思えば簡単に振りほどける。
その程度の「力」ではあった。
しかし、どういうわけか顕現してしまった霊体に近い静音を一瞬でも捕まえてしまえた事そのものがあり得ない。
「あの日から」
吟遊詩人は頬を僅かに紅潮させて話しだす。
「ずっとあなたに会いたかった。あれきりなのかと思うと悲しかった」
静音は何とも言えない気持ちになった。
この熱の意味が分からぬわけもなく、どうしたものかと思いながらも口を開いた。
「時々、あなたの歌を聴いていたわ。姿を見せなかっただけよ」
言うと、吟遊詩人は悲しげな顔をした。
「どうして」
絞り出すような声だった。
ふわん、と空気が揺れて広間の壁がちらちらと瞬いた。
「幽霊は人前にあまり姿を現すべきじゃないでしょう」
「あれから、天の使徒が姿を現すようになった。あれこそもっと姿を現すべきではないのではないか」
「……そうかもしれないわね。でもあれの出現は私のせいじゃないし」
吟遊詩人は意外な事を聞いたとでも言いたげに目を見開く。
「違うのか。あの時の異変も含め、私はてっきりあなたが現れたせいかと」
「いや、本当に関係ないから……」
言いさして、そうとも言い切れない事に気が付く。
全体に今起こっている諸々は、静音が起点になっているとも言える。
だが、それもこれも、自分を召喚などしたアルトナミ王家の責任だと思いなおし、首を振った。
「あれの出現は純粋にあなたの歌が気に入ったせいよ。あなたの声には力があるもの。多分」
結果的に人々も押し寄せ、美しい姿に癒されているのだから良いのでは、と言うと、彼は首を横に振った。
「あまり良い事ではないと思う。人里に神が姿を現すこともあったという古代ならともかく現代では、あれは毒になってしまう」
最初は、音楽に慰めを求めているのかと思い、なるべく朗らかで明るい歌を選んで披露し、嬉しげに微笑む天の使いに喜びを感じていたが、そのうち押し寄せる人々の異様な熱気や、居丈高な貴族やついに足を運んできた王族等の嬉しくもない褒美や囲い込みの勧誘など、現れた天の使いが眉をひそめる事が増えてきた。
「神には苛烈な面もある。むしろ、かつては苛烈でしかない神もいた」
吟遊詩人は溜息をついた。
「皆、人など神の前では等しく虫けら以下であるのに」
それを聞いて静音は笑った。
土くれの中の微生物扱いされた事が確かにある。
「そうね。でもまあ、この国は滅びと復活を繰り返してきたようなものではないの。今更でしょう」
吟遊詩人は静音を悲しげに見た。
「罪のない者も大勢いる。それらを巻き添えにしてしまうのは理不尽だ」
余りにもまっとうな言葉に、逆に静音は感心した。
この国の人間がこんな事を言うとは思ってもみなかったが、それもまた静音の偏見であったか。
「あなたはとても善良な人なのね」
そう言われて吟遊詩人は驚いたような顔をした。
「私が特別善良というわけではない。普通だよ」
あなたは一体、どういう所で生きていたのか、と吟遊詩人は言った。
紛れもなくこの国だ、と静音は答えた。
「殆ど誰も信用できなかったわ」
吟遊詩人は沈痛な面持ちで静音を見る。
静音は肩をすくめて笑った。




