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水面に浮かぶのは転移の魔法陣だった。
静音は、泉の水に手を浸す。
水は、青い燐光を帯びて波打った。
明らかに、以前の水とは違っていた。
魔力は魔法陣から供給されていた。
ふわふわと淡い光が舞う。
リルによると、これらは生まれたての精霊らしい。
「名前つけたらもっとはっきりするわよ?」
輪郭が曖昧で、意識も曖昧。そういう存在であるので、何かを尋ねてみるには向かないと言いつつ、そんな提案をしてくる。
「名前つけたらもれなくリルみたいになるじゃないの」
そう言うと、頬を膨らませた。
「嫌なの?」
「困る」
「ええ、静音には何の不都合もないわよ」
「いやいや」
熱烈に慕われても困るのだ。
「リルのようにはならないだろう」
だが、ルーが冷静な声で言った。
「文字通り、生まれたてなのだ。リルのように以前の記憶があるわけではない以上、自我がはっきりする程度の事だ」
静音はリルを見る。
「そうなの?」
「ん~」
リルは周囲の同族を見回した。
「そうね。みんなぼんやりしているわ」
恐る恐る、目の前にたまたま来た光の玉を両手の平で囲って(つかめないので)そっと囁いてみる。
「青い子だから……『セイ』」
安直だとは思ったが、覚えやすくていいかと考えた。リルもルーも、結局長い名前をそのまま呼んだことは一度もないのだ。
すっと、幾ばくかの魔力が身体をすり抜けていく感触があった。
このか弱い精霊にしては、結構な魔力を吸われた気もしたが、元より自分の中にあったわけではない。別段影響はない。
周囲の魔力を練って直接与えようかとも思ったが、それは何となく、うまくいかない気がした。
儚い光はぱっと輝きを増し、線香花火のように弾けた。
そして、手の中で、背中に虹色の羽を生やした幼い子供の姿になった。
「セイ、私の言葉が判るかしら」
子供は不思議そうな顔をして静音を見上げ、すっと寄ってきたリルに驚いたような顔をした。
「セイ?」
「はい。判ります」
はっと気を取り直したように答える。
「では、ここで何が起こったか言える?」
首をかしげたセイだったが、リルが近づいてその手を取った途端、ぱちぱちと瞬きをして目が覚めたような顔をした。
「あっちの壁から」
指さす先には、亀裂の入った氷壁がある。何か所も、切り刻まれたようになっていた。
「現れた竜が、この魔法陣を置いて、去りました」
「魔法陣の中へ?」
「そうです」
「では、この水はその前から魔力を帯びていたということね。あなたたちが生まれたのだもの」
「魔核が投げ込まれていました」
そう言われて、静音は泉の中を覗き込んだが、それらしきものは見当たらなかった。
「どういうわけか今はありません。竜とともに消えたのかもしれません」
「水に魔核を投げ込んだくらいで、精霊って生まれるの?」
リルに尋ねてみる。
「あんまり考えられない。よっぽど特殊な魔核だったのかしら」
「炎のような色をした、大きな大きな魔核でした。魔力の波動があふれ出して、水は常に振動していました」
リルは眉を寄せた。
「大きいってどれくらい?」
「泉の底を覆うくらい」
それは、考えられないくらいの大きさではないか。
「魔物から出た物ではないわね?」
リルに問う。
「多分。魔力脈に近い所で生成されたものだと思う」
この世界で「魔核」と呼ばれるものは、主に魔物から取り出されたものだ。
だが、魔力脈に長時間さらされた特殊な鉱石が変容する事もあるという。
暁の神官に渡されたオパールに似た石は、ルーによればそうやって出来た物だという話だった。
「突然現れて、精霊を生んで、竜と一緒に去る巨大な魔核ね」
うんざりした顔をしながら、静音は溜息をついた。
そんなことをするのは、この世界において知っている者のうち二つの存在しか考えられない。
暁の神官か、「神」と呼ばれる存在か。
そこには「システム」の思惑がある。
「所で、この辺に、竜の他にもゴーレムやら自動人形やらいたと思うんだけど、それらがどうしたか知らない?」
セイは亀裂でボロボロになった氷壁を見やる。
「竜が去った後、人間が一人来ました」
「へえ。こんなところへねえ」
「人間は、氷壁をこのように切り裂きました。彼らは眠りから覚め、次々と魔法陣の中へ消えて行きました」
「あ~、今、人間の住む所に、彼らが順番に現れているんだけど、ここから魔法陣で移動したのかしらね」
「彼らは同時に二つはない特殊な個体ですから、それが現れたと言うならそうなのでしょう」
セイは幼い顔で、どこか達観したように答えた。
静音は首をかしげた。
「もしかして、あなたにも前の記憶があるのかしら?」
セイはふわりと飛び上がると、周囲を確認するように何度も見回し、ぼろぼろの壁面へ近づいた。
「先ほど、リルに触れた時、昔もここにいたような気がしました」
リルを見やると視線をそらす。意図的だったのか。
「最初からここにいたわけではなく、移動してきたのではないかと思います。理由があったような気がしますが、定かではありません。もう少し時間をおけば、はっきりしてくることもあるかもしれませんが」
ふわふわと静音の所まで戻ってくる。
「人間は、氷壁の中の鳥と一緒に移動していきました」
「鳥?」
「白い鳥です」
静音は、嫌な記憶を呼び覚まされて顔をしかめた。
「それはひらひらの服を着た、背中に羽が生えた人間かしら?」
「いいえ、そちらではなく、本当に鳥の姿をしたものです」
もっとも、真の鳥とも言えないかもしれませんが、と呟く。確かに、この氷壁に閉じ込められていた以上、自然に存在する鳥ではあるまい。
セイは宙に丸く円を描くように指を動かした。
そこに、水鏡が現れる。
「まだ、力が充分ではないので、この程度しか出来ませんが」
水鏡の中で、人間の男が一人、氷壁に向かって剣を突き立てていた。
見る間に亀裂が広がり、中に閉じ込められていた魔物たちがゆっくりと動き出す。
魔物たちは、まっすぐに泉の魔法陣へ歩みを進め、次々と消えて行った。
最後に、氷壁から飛び出してきた白い鳥が、男の前を導くように飛び、一緒に魔法陣の中へ入って行った。
「彼が何者か判りますか?」
セイは尋ね、静音は疲れたような顔でうなずいた。
「ええ。知ってるわ」
溜息をつく。
「私の監視者だった男よ」




