122
月神の足下で瞬く二つの星のかけらが輝きを増した。
静音は目を細めてそれを見て、微かに眉を寄せた。
月神は笑みを苦笑に変えた。
---そんなに嫌な顔をしないで。
先ほどまでの狂気に近い感情を綺麗に消し去って、月神は言った。
---一つは本来、不本意だったでしょうに。
静音は表情を消した。
---なんだか色々思い悩んだようだけど、最後に吹っ切れたようよ。
---そうですか。
---神など信じてはいないと言い放ったわ。なかなか神経の太い神殿の住人だわ。
楽しそうに月神は言った。
神殿は今や治癒魔法を信仰する場だ、と言い切ったのは月神だ。
故にもう、神たる者の務めからは解放されたいと。
静音はそのことについて、特に何かを思う事もなかった。
己であれば、とっくの昔にすべてを投げ出していただろうとぼんやり思う程度の事だった。
月神は銀の手で虹色に輝く星のかけらの片方を拾い上げた。
虹は銀を混ぜてより不思議な色合いに染まった。
---これはレイメの祈り。先見の娘よ。ああ……
複雑な色の混ざり合いから、琅かんのような澄んだ碧が浮かび上がる。
---あの子の瞳の色ね。
優しげに月神はもう片方の手でそれを撫でる。
---あの子は躊躇いもなく、今世の太陽神に祈りを捧げ始めたわ。
星のかけらはいつの間にか碧玉となって月神の手を離れ、静音の傍へするりと距離を詰めた。
---あなたは緑と縁があるのかしらね。
碧玉から溢れる光はリルの薄緑の髪を照らして濃くした。
---この人も……
静音は浮かぶ緑の光に見入る。
---あなたが振りまいた毒の一つですか。
ふふ、と月神は笑った。
---そうね。でもそもそもの初めから、この子は創造神には祈らなかったわ。
一度目も二度目も。
---祈らない事が、毒になる……?随分迂遠な話ですね。そういえば最初の乙女は精霊に取り立てたのではなかったのですか。
---伝承ではそうなっているわね。
---実際はそうではない?
---信仰と信念で輝きは増していたけれども、傷だらけでぼろぼろの魂は繊細過ぎてすぐにはどうにもできなかったわ。だから眠ってもらったの。私と同じに。
長い年月を眠って過ごした。それだけ傷つき、それだけ力を奪われていた。
---まだ完全ではないのよ。それなのに、ある日、吸い込まれるように人の身体へ宿ってしまった。行方も判らなくなってしまって、暫くあちこち探したわ。探している間に、またあんな事になってしまって。何故この子は人に傷つけられてしまうのかしら。
月神の目を潜り抜ける、などと言う事が可能なのだろうか。
だが、先見の精霊がついて、しかも「冬」に力添えを申し入れた事がそれを可能にしたのか。
---そうね。アルデシオンと私は、殆ど交流がなかったわ。不思議なことに。「元は近い」筈なのに。
静音は首をかしげた。
月神は銀の光をより強くした。
---私は自然現象が意志を持った者。創造神と呼ばれる者よりは僅かに遅れたけれど、原初の精霊よ。「同じ」なのよ。そしてそれはアルデシオンもそう。
力持つ太古の精霊、と呼んだのは竜だったか。
---私は「秋」だから、本当に近い筈なのだけれども。
月神の呟きを耳にする。
月神が「秋」であれば、太陽神は「夏」なのだろうか。
---「春」と「冬」は僅かばかり遅く生まれたの。その僅かが力の差でもあるけれど、人から見たら大した差でも無いわ。
ふふふとまた笑って月神は静音の胸元を指さした。
---太陽神の力はほぼ私と同じな筈なのだけれど、まさか身の内の魔力が空っぽで現れるとは思わなかったわ。
指さされた場所にはリルがいて、身体を斜めにして月神を振り返っている。震えながら。
---でもその「空っぽ」具合がとてつもなかった。まるで虚無。そんなものを抱えて生きていられるほど、あちらの世界って特殊なのかしら。
そう言われて、静音は己の中を探ってみるが、空間も虚無も洞も何も感じない。
---そんなこと言われても、私生まれながらにこうですし。
静音は己の身体をスキャンしようとして、本来の「身体」はもう存在しない事を思い出した。
---あなたは虚無を抱えた器だわ。この星中の魔力をすくいあげてもまだ余る。
は、と静音は笑う。
---ではこの星の魔力を吸い上げつくして、「外」の力も吸い寄せて、死の世界にしてみましょうか。
まるでブラックホールのように。
---あなたがそうしたければそれで構わないわ。創造神も吸収されてしまうでしょう。
静音は顔をしかめた。
---それはなんだか嫌です。
くすくすと少女のように月神は笑う。
---正直ね。でも、現状あなたの事は創造神ももうどうにもできないわ。だから好きにしていいのよ。
何もかも滅ぼしたければそうすればいい。
---今までのあなたの行動原理とは矛盾するように思いますが。
---そうね。まあでも、私は私のできる事をしてきただけだし。何度も言うけれど、私たちは自然現象だから、本来であれば、何事も「あるがまま」受け入れるだけ。そういう存在なのよ。
足元にもう一つ残った星のかけらを拾い上げる。
それは月神の銀の力を受け、薔薇色に輝いた。
---私たちを動かしたのは「祈りの力」。この子たちが滅びを拒むから、生きたいと望むから、私たちは尽力しただけ。人ってイレギュラーな存在なのよ。でも強烈な生命力に溢れている。私たちはそれに動かされる。
溜息。
---でもね、もう疲れたわ。
月神は呟く。
---思えば太陽神は、苛烈であったけれど、誰よりも人に心を寄せている所があったわ。だからこそ、避けるように人のいない大陸に住んでいたけれど、結局、この世界の為に、その身を犠牲にするような真似をした。その心情が、私には判らない。双子で生まれたようなものだけれど、私と同じではなかったという事ね。そして私は、彼の人の「願い」の為に動くことになった。
---あなたは人が好きであったように言われているのでは?
月神は笑う。
---人の中にいるのは好きよ。面白いもの。でも多分、太陽神に比べるととても軽い「好き」だわ。その程度だし、それ以上でもない。
静音は月神の言葉に、ひどい矛盾を感じたが、それを否定するものを何も持っていなかった。
人と人の世界に飽いていた、疲れていた、今までの彼女を思えば、そういった心境に至っていても不思議ではない。
---銀漣。
静音が呼びかけると、月神はつと言葉を止めた。
---ギンレン。私はあなたをそう呼ぶと約束して、一度も呼んでいませんでした。
月神は小首をかしげた。
---銀漣、あなたに問いたい。あなたは太陽神の再来を望んだのですか?
月神は答えず、薔薇色の光を手放した。
それは先ほどの碧玉と同じように、静音のすぐそばまでふわふわと漂って止まった。
---あなたと太陽神の関係がどういうものであったのか私には判りません。ですが、双子のようなものだった、とおっしゃるからには近しい存在であったのでしょう。
あなた方は「自然現象」であるとおっしゃるが、人だとて突き詰めて言えば「自然現象」です。力の差からなる心の持ちようは違えど、根本的な感情は同じなのではないかと思うのですが、どうなのです?
月神は肩をすくめたようだった。
銀の強い光は輪郭を曖昧にしている為、動きの細かい部分は視覚では明瞭でなくなっていた。
---そうね。私と太陽神の間にあったものは、人で言う友情や兄弟愛と似ていたかもしれないわ。
---穏やかな感情でしたか?それとも
---何とも言いようがないわ。あの時決まってしまった私の役目と太陽神の役目は違っていた。そのことに関して、違和感や忌避感はなかったもの。
---心の底から納得していたと?
---私たちは「そういう」ものだもの。
静音は首をかしげる。そして、胸の中にいるリルを見る。
---あなたって、感情豊かよね?泣いたりわめいたりするわよね?
リルは静音が何を言いたいか気づいたのかむっと唇を尖らせた。
---静音が色々な事をしでかすからよ。
---でも不自然な事ではないのよね?
---まあね。
静音は月神を見やった。
---リルはあなたに比べれば未熟なのかもしれませんが、それでも「そうして」悪いわけではないようですよ?
月神は応えず身じろいだ。
何か思ってもみなかった事を聞いたかのように表情を動かしたかのようにも見えたが、相変わらず曖昧で詳細は判らない。
静音は気にせず、右手をくるりと返した。
半透明な手の中に、古びた杯が現れた。
一度粉々に砕け、静音の魔力によって再び組み上げられた、アルトナミ王城北東の塔に置かれていた神器。
既に神器としての力は失っている筈であったが、静音の手の中で縁がほんのりと光を帯びていた。
それに呼び寄せられるように、乙女たちの祈りの玉は杯の周りを一度、くるりと回った。
連星の惑星のように。
---あなたたち、祈っている以上は、付き合う義務があるわよね。
静音は二つの光に話しかけた。
光は応えるように明滅する。
静音は頷いた。
---静音、動いてくれるの?
リルがか細い声で問うた。
それに身を震わせて反応したのは月神。
静音は溜息をついた。
---あなたが言ったんじゃない。私がお人好しだって。
リルが泣き笑いの表情を浮かべた。
静音は上を見上げ、虚空に意識を向けた。
***
魔導人形は眠らない。
魔導人形は休止状態でも夢を見ない。
静音という渡り人からの力を身に受けた事によって、契約はなされてしまい、己は妖精と化したと言われても、ルーには実感がなかった。
ある程度の自律と思考の余地があるとはいえ、所詮は人形である。
それ故、契約主が姿を解いても、この星が闇に飲まれても、星中に広がった契約主の魔力の微かな気配を感じるだけで、満足していた。
妖精と化す事によって、魔力を感じる器官が出来、それによって契約主とのつながりが保たれている事さえ判っていれば、何の問題もない。
そう思っていた。
---ルー、聞こえるかしら。
だが、契約主の明瞭な意思が。
突然頭に響いた途端。
喜びが全身を満たし、溢れだした。
そのことに、戸惑う。
---ルー?
静音の怪訝そうな声にさえ、心が沸き立つ。
---聞こえている。あなたの声、いや、意思が届いて。とても嬉しい。
ルーは知らず、微笑を浮かべて答えた。
***
静音が夢の中を魔力脈に沿って移動した場所は、大洋の中にぽつんとある火山島だった。
始終噴火し、溶岩を流し続けていた山は、闇の中に取り込まれ、今は真っ暗闇の静寂が横たわっている。
その中に、一つ、小さな金色の光が見える。
以前、静音が繋ぎ合わせたシリル・バトゥの神像だった。
それを中心に、わずかな空間が聖域と化していた。
そこへ、静音は降り立った。
手にした杯の縁には二つの光が留まっている。
その二つの光の魔力に反応して、杯も仄かに光っている。
---この神像は、どうして海の底にないの……?
静音の胸からそれを見下ろして、リルが不思議そうに呟いた。
---火山の火口から飛び出してきたわよ。ばらばらになってたけど。ほら、前に話したでしょう。
---ああ、それじゃここ、うちの島から割と近い?
---まあ、星の真裏とかじゃないわね。
近さの定義にもよる。
静音は収納空間から、大振りなオパールを掴みだす。
以前、暁の神官に無理やり持たされ、何度もどこかで何かに使おうとして叶わず持ち続けた石だった。
---この神像にね、前、これを嵌めようとして「合わない」って言われたの。これも話したことあったわよね。
---ええ。
静音はその魔結晶を、手にした杯に入れた。
杯に刻まれた魔導回路がせわしなく反応を始める。
「祈り」である二つの玉も、それに合わせてくるくると周囲を回り始めた。
杯の中で、魔結晶は白銀に虹色の遊色を浮かべて輝き始めた。
内包されたエネルギーの膨大さを感じ取って、リルは身を震わせた。
召喚の神器であったはずの杯が、まるで、最初からそれが目的で作られたかのように、魔結晶からエネルギーを抽出しはじめていた。
静音の手の中で盃ごと白銀に輝くそれに慄いて、リルは距離を取った。
強すぎる力が小さな杯の中で逆巻いている。
周囲を回っていた二つの祈りの玉も、強い重力に引き寄せられるように、回転しながらその中へ溶け入ってしまった。
---抽出された力は、暴れ馬のようなものだから、力のある二つの祈りが溶け込んで指向性を持たせて、その導く先を示す、ということのようよ。
静音は、リルにとっては眩しくてたまらない杯の中を平気で覗き込む。
---ちょっと足りない。
そして、白銀の高濃度魔力の杯を指先でくるくる回しながら考え込む。
ふと、思いついたように、収納空間から、また石を取り出した。
それは、静音の体内に埋め込まれた闇玉の核となっていた石だった。
これもまた、何度も手放そうとして、その度拒否され、仕方なく持っていた物だった。
---よく考えたら、これってウ・ルフィネラとやらの魔眼の一部ではなかったのかしら。まあでも、私の中で浄化にさらされてなんだか別物になってしまったようだから、いいわよね。
これもまた内部にすさまじい力のこもった石を事も投げに杯に放り込む。
途端に、ばちばちとフラッシュのような火花を散らしながら力が変異する。
---充分ね。
足元に横たわる神像の傍へかがみこみ、その胸元に花のように開いた、本来であれば魔核の嵌められるはずの台座へ向かって、ゆっくりと杯を傾ける。
とろりと白銀の光がこぼれ出し、注ぎ込まれる。
杯一杯分の力。
---ソケットに合わなきゃ、合わせればいいのよ。
静音は全てを注ぎ終わると立ち上がる。
遠くで、魔力の迸りを感じて、リルはそちらへ目を向けた。
はるかかなたに、膨大な魔力を練って作られた巨大な光の柱が立ち上がっていた。
---あれ、何……?
呆然とリルは呟くが、そうしている間に、あちらからも、こちらからも、同じような光の柱が立ち上がった。
---シリル・バトゥの神像は、この時の為に作られていたようよ。勿論これも。
静音の足もとに横たわる神像も、力を全体に行き渡らせたのか、「稼働」を始めた。
白銀のエネルギー体となって、光の柱が立ち上がった。
距離を取っていたはずのリルは、いつの間にか静音に捕まえられて更に後ろへ下がっていた。
リルは、恐る恐る意識をめぐらせ、この柱がよそより一際巨大である事を確認した。
---シリルは一体、何をしていたの。
リルは柱を見上げながら呆然と呟く。
---この時を先見か何かで見ていたのかもね。
白銀の柱に呼応するように、南方面に、爆発的な力の奔流を感じた。
目をやると、闇の中でそちらはほんのりと光っていた。
---南の大陸は、神像の代わりに金木がその役目を果たしているわ。
南の金木の森の発動を起因として、光の柱同士は特殊なネットワークを築き始める。
---ルー、見えているかしら。どう?
静音はルーに思念を飛ばす。
---各地のシリル・バトゥの神像、および、聖域と思しき場所、そして金木から、魔力の迸りと光の柱の発生を確認した。柱同士が呼応し、蜘蛛の巣状に星を覆いつつある。特に静音が起動した神像からは浄化の波動があふれ出している。それがネットワークを伝って負の魔力の波動を中和し、闇が払われつつある。
---そのようね。
リルは周囲を見回した。
先ほどまで静寂に包まれ、闇しかなかった空間が、いつの間にか、うっすらと遠くに火山の火口を見せていた。
そして足下は冷え固まりかけた溶岩。
---ここってこんなに熱そうな所だったのね。
そう言って、顔を上げ、リルは驚いて息を飲んだ。
流れ出す溶岩に重なるように、うっすらと壮麗な都市の画像が映し出されていた。
古代の魔導都市の風景だった。
リルはそれを知っている。
---静音、これは、一体どういうこと……
この島もアルトナミの一部であった。
海に沈んだ壮麗なガラスの塔がきらめいて見える。
海岸から大洋へ向かって伸ばされた魔導の橋。
高速で海上を移動する小ぶりな船。
魔導国家で生きる人々は生き生きとしていた。
街は清潔に保たれ、小さな魔導人形が清掃にいそしんでいる。
---生体活力が低いって、誰かさんが言ってたし、過去がどういったものだったが実際見せてあげれば、また違うんじゃないかしらね。
静音は肩をすくめた。
これらの映像を見せたのは自分ではないと否定しつつ。
では、シリルが仕込んでいた物だとでも言うのだろうか。
恐らく、闇に飲まれて解かれた中から再構築され、徐々に我に返りつつあるこの星の住人達は、うっすらと映し出される過去の映像を見て何を思うのか。
リルが瞳をめぐらすと、水平線の向こうに、暁の光が溢れつつあった。
漸く終わりが見えてきました。
残りは僅かです。




