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ゆらゆらと月神の姿の輪郭は揺らいでいた。
それ故、人形でなく、思念体であろうと思われた。
あの世にも美しい人形の特徴は薄れぼやけていて、静音はオウナの地下神殿の棺に横たわる本来の姿の月神をそこに見出した。
鋭い銀色の光。
ただ、それだけ。
---何かまだ、私にやってほしい事がおありですか。
静音が問いかける。
銀の人影は微かに頷いて見せた。
遠くから、これもまた微かな竪琴の根が聞こえてくる。
どこかで吟遊詩人が一心に奏でている。あの秘された洞窟は無事であったのだろう。清らかな水と結界に守られて。
輪郭が曖昧な月神の足もとに、きらめく虹色の星のかけらが二つ転がっていた。
月神と同時に現れた物で、それに目をやった静音は更に溜息をついた。
---事はここまで成ってしまった。
月神の思念が伝わってきた。
---私は吟遊詩人に演奏を促しただけ。たったそれだけだったのに。
その言葉に静音は肩をすくめた。
---見ていらしたのでしょう?先見にも見えない先を。
月神は応えない。言葉に詰まったようにも見えた。
---思わせぶりな言葉、ちりばめられた事象。星座の星のように、それらを置いてきたのは誰なのだろう、と思っていました。
星のかけらは強く弱く、呼吸するように瞬いている。
---最初は暁の神官或いはシリル・バトゥとその周辺だと思っていました。彼は「我ら」と言いましたから。ただ、ずっと不思議だったのです。彼は「神はシステム」と言いましたが、であれば、そのシステム内で、流れに逆らうような事をしながら、何故彼らは存在し続けられているのか。
不穏な動き、予期せぬ動きをするような不確定因子は真っ先に排除される筈ではないのか。
巧妙に隠れているのか、それとも危機管理がガバガバで些細な事として見逃されているのか、とはいえ、何度も繰り返された召喚が、何度も浄化される魔沼が、果たして些細な事なのか。
---あの「五つの障害」にしてもそうです。あれらは、異界からの召喚に対する揺り返しであり、システム上の必要悪であると理解していましたが、本当にそれだけなのか。そもあれで本当に「システム」は誤魔化せるのか。魔沼はその度綺麗に消えているのに。
---その最初からずっと眠り続けている月神様。今、私が同じような存在になって、改めて判った事がある。この状態であっても、「何でもできる」。
***
---静音……
気遣いを滲ませてリルが声をかけた。
静音は精霊の姿へ目を向け、ゆるゆると首を振った。
---あなたも、真の姿を現しなさい。
リルの瞳の中で、小さな光が弾けた。
それまで幼い少女の姿で顕現していた精霊は、瞬きひとつの間に姿を変えた。
薄緑の髪の色はそのままに、見上げる長身と恐ろしい程の美貌。
シリルそっくりな姿に。
***
薄緑の髪の先だけが黒く染まっている。
それが髪全体の色であればシリルと同じ。
瞳の色も、青であれば……
しかし、それは青は青でも静音の愛した南国の海の色だった。
---ああ、ここまでシリルと同じとは……
瞳と髪の色を覗けば瓜二つだった。
それを聞いて、リルは首を振った。
---あれと同じじゃない。嫌わないで。
涙を浮かべて訴える。
それがシリルと同じ顔である事に強烈な違和感を覚える。
---別に嫌いはしないけれど、その姿でリルの口調で話されると、ものすごく変な感じだわ。
苦笑いするしかない。
---私は確かに太陽神の眷属ではあったけれど、あれとあれに同調した者たちとは違う。魔力脈をシリル・バトゥと一緒に巡っていただけ。時が経つうち意識も存在も希薄になって、全て消滅したと思った時、もう一度精霊として生まれた、だけ。
必死に言い募る。シリルの顔で。
違和感を堪えて見ているうち、シリルとは違う存在であるとは心のどこかで納得が出来た。
そう言ってやると、リルは安堵の息をついた。
---どこまで本当なの?緑の精霊だった事は本当?流離っていた事は?記憶が曖昧とは言っていたけれど、ずっと太陽神の眷属であることは思い出せなかったの?
---緑の精霊だった事も、流離っていた事も本当。だから金木への変化も容易だった。私は太陽神が魔力脈へ身を投じた後、皆の元を離れて世界中をふらふらと風に吹かれて漂っていた。半ば眠りながら。私たちは、もう、太陽神の存在が希薄なこの世界で生きている意味を見いだせなくなっていた。ただ、太陽神は、「この世に在り続け、照らせ」と言ったから、「さすればいつかは会うも叶おう」と言い残したから、だから、在り続けた。それだけ。
---魔力暴走の際、巻き込まれて魔力脈へ返ったのも本当。シリル・バトゥが溶け込んで、暴走を鎮めて、同時に人との親和性を下げると言ったから、それを手伝って、力を使い尽くした。でも、魔力脈は暖かくて、太陽神の気配が確かにして、とても幸せだった。
思い出すようにリルは微笑む。
シリルの美貌で浮かべる微笑はすさまじく、静音は座りの悪い思いに身じろいだ。
---魔力脈の中で、私という存在はもう殆ど消えていたから、再び生まれた時、少しでも記憶が残っていた事に今更ながら驚いているわ。ずっと穴だらけだったのも本当の事。思い出したのは、ついさっき。
リルはゆっくりと静音の傍へ近づいたが、シリルの顔で来られて静音は思わず後ずさった。
ショックを受けたような顔でリルは足を止め、静音は天を仰いだ。
---真の姿を現せと言ったのは私だけど、元の姿に戻って、リル。いや、こっちが元なんだろうけど……
言った途端に、リルは元の幼い少女の姿に変じた。
変じてすぐさま静音の胸に飛び込んできた。
複雑な思いで、静音はリルを「抱き留めた」。
***
そして静音は、再び銀色の光の方を見やる。
---シリル・バトゥに魔力の変質を示唆したのはあなたですか。
ゆらりと銀色の影は揺れる。
---召喚と障害のシステムを考えたのも?神器を作ったのも?暁の神官の言う「我ら」ってあなたの事?あなた以外もいるならそれらの人達はどこにいるの?私を捕まえたのは偶然ではなく狙っていたの?
---ウ・ルフィネラをアルケに近づけたのは、あなた……?
---違うわ!
初めて月神が反応を示した。
---あれは、アルケの魔力に惹かれて近づいた。闇の深さに吸い寄せられるように。気づいた時には取り込まれていたわ。
---では、これ幸いと利用しただけ?
---否定はしないわ。
リルが静音の腕の中からはっと顔を上げた。悲痛な表情で月神を見る。
---「何でもできる」とあなたは言ったけれど、そしてその通りでもあるのだけれど、あの時の私は力を出し切って眠る事でしか存在を保てなくなっていたのは嘘ではないわ。力が及ばなかった。ウ・ルフィネラに呼びかけたわ。何度も何度も。精神だけでも「庭」へ連れ出そうとした。それも最初の内は叶わなかった。
アルケはウ・ルフィネラから力を奪いながら、禁術と言っていい術を行使した。人の心を奥底から縛り、それによって溜まる澱を竜になすりつけ、竜が闇に染まりきると時空を曲げて過去へ未来へ位相の異なる次元へ放り込んで、入れ替わりに同位体を呼び寄せ、それがためになおの事時空は歪み……
でも、ね……
銀の強い光がはっきりと人の形をとった。
世にも美しい容貌が現れ、それがにっこりと笑った。
何故かぞっとして静音は背中を震わせ、腕の中のリルも同様に震えた。
---アルケの滅茶苦茶なやりようは、創造神をも歪ませたの。
くくく、と月神の笑い声はくぐもって響いた。
---創造神は生体活力を欲したけれど、その存在は調和を保たねば続かないわ。だって、あれも私たちと同じ。
自然現象なのだもの。
おかしくてたまらない、と言いたげに月神は笑う。
---一番最初に、一番長い事「在った」だけの存在。最初であったがために、あるだけ力を得て強大になっただけ。
あれとてこの世の因果律の中にある。
己が作り上げた忠実な神子の破れかぶれな行動が全てその身に返った事に強大であるが故に気づかずにいた愚か者。
あははは、と月神は高らかに笑う。
普段の品のある姿からは想像がつかないほど、いっそ子供のように無邪気でさえあった。
---あれから少しずつ力をそいで、無力化させたのは当の神子。あれもまあ、「愛し子」からの愛を受け、本望でしょうよ。
---ウ・ルフィネラの力は、本来であればアルケに使い尽くされて、消滅する所であったけれど、「存分に毒が回るように」私が不足分は注いであげた。その分あれは苦しんだのだから、そうね、「これ幸いと利用した」上に「苦しみを長引かせた」事になるのかしら。
ウ・ルフィネラは、片目を失い、体力を失い、気力を失っていったけれども。
月神は笑いながら続けた。
狂気の縁にいるかのようでもあり、悲しみに沈んでいるかのようでもあった。
美貌の笑みの瞳からは涙が一滴零れ落ちた。
彼女の言う事は、矛盾している。
と、静音は思う。
他者へ力を注ぐほど、その時回復していたのか?
今でさえ、人形なくば、輪郭が保てないほどであるのに。
まるで自壊行為ではないか。
---あなたの望みは一体何です。
静音は問いかけた。
月神は哄笑を微笑に変えたが答えなかった。




