119
映し出された鏡の画像の中で、一人の女性が膝をついて目を閉じ指を組み合わせ、熱心に祈っていた。
緩く結い上げられていたはずの髪は解けて流れ落ち、本来の女性の年齢よりもその姿を若く見せている。
まるで少女のように。
「お母様」
呼びかけると女性は目を開き、顔を上げて、青白い顔に微笑を浮かべた。
「お祈りの邪魔をしてごめんなさい」
娘の詫びに笑みを深くする。
「何を聞きたいのかしら」
単刀直入に、母は問う。
時間が惜しいのだろう。
「月神ではなく、今世の太陽神、渡り人に祈りを捧げているとお聞きしました。何故ですか……」
娘も迂遠な会話を避け、問い返す。
「まず、創造神に祈る事はありえない。月神様は、そうね、まだご回復の途中なの。あなたが言う通り、もうこれ以上のお力添えを願うのは控えるべきかなと思ったの」
「その……今世の太陽神様も、存在を解いてしまったと……。祈りは届くのでしょうか」
アルケの最後の闇の発露と相殺し合ったと聞く。
「届かなければ、終わるだけよ」
母はきっぱりと言った。
緑の瞳は何かの覚悟を浮かべていた。
娘は戸惑う。
「終わるだけ……」
思わず母の言葉を繰り返す。
母は頷く。
「そう。終わるだけ。私は私が出来る事をするだけ」
「お母様の先見は、どう告げていますの?」
「何も」
母の端的な答えに娘は言葉を詰まらせる。
「私の先見はごく弱い。鮮明に見える時もあるけれど、見えないとなれば、全く見えない。今は何も見えないわ。これが、私の力が弱いせいなのか、それとも先が無いが故なのか、それは判らない」
母は深く息をつく。
「自分が出来る事で最善を尽くすしかない。私の祈りは、古代の乙女と同じ力を持つというのであれば、一心に祈るしかないでしょう。ほんの一滴でも届く可能性があるのなら」
娘は、母の組み合わせた指の下、胸からふわりと浮かびだした小さな光が、万年眠りつづけた竜の鱗に触れるのを見た。
それが、竜を現世へ呼び覚ます最後の小さな力のひとかけであった事を思い出す。
「あなたが疑問を感じて、祈りに意味が無いと思うのであれば、何もしなければ良い。強制されて行う物ではないから」
母の言葉に胸のうちを言い当てられ、娘は更に言葉を詰まらせた。
母はそれ以上何も言わず、娘が何か言うのを静かに待った。
娘は何度か口を開けようとして躊躇い、そして母の顔から視線を逸らした。
「私は、神殿に所属する身ではありましたが、正直神の存在を信じていたわけではありません。お母様と違って精霊を見たことも感じたこともありませんでしたし」
とつおいつ、躊躇うように話しだす。
「神殿内での私の身分はあくまでも治癒者であって、祭礼に参加することはあっても自ら望んで祈ったことはありません。「御勤め」とは私にとっては治癒であり、それは仕事でした。信仰心とは全く別のものです」
何しろ身分の高い者や裕福な者を優先して治療していたのだ。順番は神殿側が決める事ではあったが、それに疑問を抱いたことは無い。
欲と身勝手の渦巻く場所でしかなかった。そんな所に成人前の少女のころからどっぷり浸かって生きてきたのだ。
「今更、真に祈れと言われても、祈る対象を信心する気持ちも育っていないのです」
娘の心は戸惑いに満たされ、「祈らねばならぬ」という現状に追いついていないのだ。
それを聞いて母は「それは困った事ね」と微笑んだ。
「でも精霊の実在はもう明らかでしょう?あなたは紅蔓薔薇という友人もいる」
「友人……?」
娘はつと胸をつかれたような顔をした。
すぐ背後にいるはずの紅蔓薔薇を思う。
今までの自分であれば、「友人」と言いながらも高位貴族の令嬢は腹の探り合いがかかせない「知人」であったし、神殿の同僚もまた同じようなもので、何かを決断するような場面に立ち会わせたいと思うようなものではなかった。
だが、紅蔓薔薇は傍にいるというだけで、どこか心強い。
「なんというか、あなたは今まで、他者が少しも信用できないと思って過ごしてきたのよね。あの男の教育の賜物なんでしょうけど。そして、それはある程度はあなたの身を守っても来たんでしょうけども。まあでも本当に、困った事だわ……」
小首を傾げて母は少女のように微笑む。
「あの男の教育は偏りすぎね。誰を信用すべきか見極めに失敗するよりはその方が安全ではあったろうけれども、見極めの能力が育たないじゃない」
「あの男は自分が選んだ者のみを信用できる者としてあなたの傍に置きたかったのかもしれないけれどもね」
その方が監視もしやすい。
実際、当たり前ではあるが、侍女も護衛も、父である公爵が選び抜いた者たちではあった。
「ねえ、ではあなたが信じられるものは何?」
笑みを消して、真剣な顔で母は尋ねた。
「え……」
娘は戸惑う。
「何一つ信じないでは生きていられないわ。この世の全てが幻覚だとしても、まずは自分という存在がある事は信じられるでしょう?」
「そう、ですね……」
そういう次元のものしか、信じるに足るものが無い、と思った所で、娘はふと考え込む。
確たるものが己の存在しかないのであれば、捕らわれつづけていた父や神殿の意向、貴族同士の腹の探り合いなどは、一体、何の為のものなのか。あれほどまでに精神を削る必要がどこにあったのか。
「私という存在がある、なら、私があるこの世界も、ある?」
娘は呟く。
「それ以外は、存在の確たる証拠はない」
顔を上げて周囲を見回し、背後の紅蔓薔薇を振り返る。
紅の羽の精霊は時折緩く羽を羽ばたかせて浮かんでいる。金色の光をこぼれさせながら。
その光に目を眇める。
そうして思い至り、自覚する。
「神殿という場所で、ただ一つ信じていたものがございますわ」
娘は精霊を見つめたまま呟いた。
「己の力、光がもたらす治癒魔法。そう、神殿は」
もう一度正面を向き、画像の中の母と相対する。
娘のハレーションを起こしたような視界の中、母もまた、きらきらとした微細な光の粒子に取り巻かれて見えた。
「あそこは今や、光を、治癒魔法を信奉する場所。私も、それだけは信じていました。己の存在以外が幻だとしても、それだけは信じていたい」
神殿が選んだ者たちのみとはいえ、何人も何人も患者を癒してきた。
初期の頃は、神殿付属の診療所の前に集まった者たち全員に広域治癒魔法を施したこともある。
いつの時も、その力だけが、己の寄って立つ所であり、己の存在そのものでさえあった。
「逆に言えば、私の存在意義はそれしかなかった、という事でもありますが、その事を気に入ってもおりましたわ」
娘は、久しぶりに微笑を見せた。
「私にはこの力があって、それが私の全てを形作っている。いっそ潔いでしょう?」
晴れ晴れとした顔で娘は言い切った。
「祈ります」
何に、とは言わなかったが、母は何も言わず、頷いた。そして指を組み合わせ、すぐさま祈りの続きに入った。
母の周囲を取り巻く光はますます強くなったように見え、姿も霞み始めた。
「ありがとうございました」
娘は虚空に向けて言うと、その場に膝をついて、母と同じように胸の前で指を組んだ。
娘は目を閉じた為、視界を霞ませていた光がますます強くなった事に気づかなかった。
鏡の向こうの母も同じ様子であり、鏡越しであったためか、もう一個の光の塊にしか見えなくなっている事にも。
娘が祈りに集中し、その身体が輝きに包まれてゆく様を、背後の紅蔓薔薇は淡い微笑を浮かべて見つめていた。




