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月影映る・海  作者: 林伯林
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 誰もいなくなった灰色の空間に、シリルは立っていた。


 負の魔力を蓄積して、生ける呪物のようになった竜と戦った者たちはすでに去り、当の竜の屍さえ結晶化して長く時を経たかのごとくその姿を変えていた。


 つい先ほどまでは剣士や学者、突然現れた渡り人の眷属によって中継される事になった月の神殿の精霊などで騒がしかったが、それらも各々の役割を果たすために去り。


 たった一人で。




 「シリル様」




 不意に、聞こえた呼び声に振り返る。


 謁見の間であった方の結界から、するりと一人の女が入ってきた。


 城務めの侍女のお仕着せをまとい、髪をきっちりとまとめ上げ、静かな表情でシリルを見つめる。


 「久しいな」


 シリルは溜息のように声を出す。


 「まことに」


 侍女はゆっくりと膝を曲げた。


 「人間風の挨拶か」


 「長くこうしていましたものですから。ご挨拶申し上げたい気持ちの表れでございます」


 「そうか」


 歩み寄った侍女は、きらめく石に変じてしまった竜の傍らで膝をつき、剣士の一撃で砕かれたかけらを手に取った。


 内部に綺麗に整った魔力を含んでいる。


 屍全てが魔結晶と化していた。


 これ全て、アルケによって凝縮された魔力でもあった。


 「呪いも影もございません。美しい浄化でございます……」


 侍女はかけらを覗き込んで言った。


 「さもあろう。あれ程我らの太陽神に力の近い渡り人はいなかった」


 「美しい歌声でございました。結界を越えて、城中どころか、恐らくは王都中に響いておりました。また、吟遊詩人の腕前は魔導士以上でございました。生まれたばかりの赤子であったあの者に力をお与えになったのは、これを予見しておいででしたか?」


 「もしやそうではないかと思っただけだ」


 「ご慧眼でございました」


 侍女の手の中で、かけらは一瞬光を帯びて砕けた。


 「何が慧眼か。あやつの輝きは赤子の頃には明らかであった。気付かぬものは人くらいだ」


 人であれば皮肉に口元を歪める所であったろうが、シリルの表情は全く変わらなかった。


 「月の方にご協力いただけるとは思いませなんだ」


 侍女が手をかざすと、砕け散った竜のかけらは微細な塵に至るまでその下へ集まった。


 集まって、輝きだした。


 「折よく目覚められたが、人形に身体を借りておいでだ。まだ完全なご回復には遠い」


 「それでも充分でございました。本当にあの方のお目覚めが無ければこれほどうまくいったものかどうか」


 かけらを塵まで集めてぎゅっと一つにまとめられた魔結晶からは陽炎が立つ。


 「性質はどうだ?合いそうか?」


 シリルは問う。


 「それはもう」


 侍女は初めて笑みらしきものを浮かべた。


 「元は()()()でございますよ」


 シリルは初めて顔をしかめて表情を変えた。


 「自虐はよせ。そもそも同じではない」


 侍女の傍へ歩み寄り、身をかがめるとしゃがみこんだ侍女の肩に触れた。


 触れた場所から魔力が揺らぎ、侍女の身体を包み込んだ。


 侍女は笑んだままシリルを見上げた。


 「同じでございますよ。自ら望んだわけではございませんが、始末はつけねばなりません」


 シリルはゆっくり首を振った。


 「同じではない。いいか、そなたには何の罪もない。アルケの自棄に巻き込まれただけだ」


 「ええ、そしてそれはあなたもそうです。けれども、もっと無関係だったのは渡り人達です。外の世界から来た者だからどのように扱ってもいいと考えた人間達の傲慢を償わなければ」


 「そなたに何の責がある」


 「少なくとも、この世界に属するものです」


 「たったそれだけのことでそなただけがその責を負う事そのものが間違っている」


 「ええ、ですけれども、もう他に償えるものはおりませんでしょう?あなたがお覚悟を決めておいでのように、私も心はとっくの昔に決めてございます」


 つと、黙り込み、束の間見つめ合った。


 侍女は微笑んで手を伸ばし、シリルはその手をそっと取った。


 「できれば、どうしてもお名前をきちんとおよびできなかった此度の渡り人様には、最後にもう一度お会いしたかった。それだけが、心残りと言えば心残りでございます」


 「時が廻れば、いずれ会う事もあろう」


 侍女は目を伏せた。


 「さようでございますね」


 取りあった手から光がこぼれる。


 陽炎の立つ魔力の塊である竜の屍がなお一層輝く。眩しい程に。


 そして、その光の、魔力の奔流は、一本の光の柱となって高く高く立ち上がっていった。



***



 「え、何」


 あっという間に大樹となった金木の上で、リルを包んだ薄い繭が虹色の光を強めた。


 樹上にいた学者は、そこに溜まっていく力を感じて慄いた。


 膨大な量の魔力だった。


 「大丈夫。私が守るわ」


 エイファが耳元で言った。


 と、同時に、視界が真っ白に染まる程の眩い光の奔流に巻き込まれた。



***



 「わたくしは、精霊様には避けられていると聞かされておりました」


 娘は薄紅色の精霊が背後から見守る中、花の中で跪き、指を組み合わせた。


 中空に浮かぶ花に縁どられた鏡には銀に仄かに光る月の神殿の精霊が映っている。


 「紅蔓薔薇以外の精霊様に御目文字出来るとは思い及ばず」


 鏡の中の精霊は、月の神殿のイェルキラと名乗った。


 「何を言っているの。冬の大精霊ともシリルとも顔を合わせているでしょう」


 「あ……」


 娘はつと口を閉じた。


 「静音様はこの世界の事に関心が無い。あなたの事など思い出しもしないわ」


 関心が無い、と聞いて娘は唇をかんだ。


 この世界において、どれ程の存在となれるのか、それのみを思って過ごしていた過去を思い出した。


 換えがたく、この上なく価値が高いと思い込んでいた物が、他者には何の価値もないものであるという、ある意味当たり前の事ではあったが、娘には生まれて初めて真に思い至った事でもあった。


 この世界は、ひいてはそこに生きる自分は、「あの方」には何の価値もない。


 逆にゴミ屑同前と蔑んでいた者が「あの方」と呼ばざるを得ないほどの存在となる事もまた。


 「あなたを忌避する者もいれば、そうでない者もいるというだけの話よ」


 紅蔓薔薇から聞いた話とはだいぶ受ける印象が違う。


 そう思っていると背後からため息が聞こえた。


 「私は「春」の眷属なの。「春」は太陽神の眷属だった。太陽神に己の全てを捧げて魔力変動の際に消滅してしまった。今世の渡り人は、太陽神の力に最も近く、私たちが本当に待ち望んだ人だったのよ」

 

 紅蔓薔薇の庭は、「春」の庭と聞いた。


 火の薔薇石に中てられて導かれたが故に、最初は火の精霊かと思っていた。


 そう思うくらい、苛烈で辛辣でもあった。


 娘が思う精霊のイメージとは程遠い。


 「「春」の話はともかく、今、あなたに求められているのは祈る事ではあるのだけれども、その気持ちはあって?」


 母であるレイメは既に祈りに入っていると聞いた。


 「正直、何に祈るべきなのか判りません。ここは神に見捨てられた世界だと聞きました」


 「古の乙女は、月神に祈りを捧げたわ」


 「お聞き届け下さるのでしょうか」


 娘の言にイェルキラは眉をひそめた。


 「疑っている限りはないでしょうね」


 「お気を悪くなさったのなら申し訳ございません。ですが、これで三度目、もしかしたらもっとあった事かもしれないのですよね?力を失いすぎて月神様は長い眠りについておいでとか。これ以上御無理を申し上げて大丈夫なのかと思ったのです」


 イェルキラはふと小首を傾げ、画面外の何かを見た。


 「レイメは今世の太陽神に祈っています」


 それを聞いて流石に娘は表情を硬くした。


 「確かに、今、最も力を持っているのはあの方でしょう。どうするかはあなたに任せます」


 そう言って、イェルキラは画面から外れた。


 鏡の向こう側は、細かな光が飛び交う花畑。


 娘は考え込むように俯き、紅蔓薔薇はその後方で何も言わずに娘を見守っている。

 

 「母と話すことは可能でしょうか」


 誰もいなくなってしまった鏡面に向かって娘は問うた。


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