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天井近くで渦を巻いていた炎が再びゆらり、と動いた。
一瞬の間に、炎は蛇のように長くくねり、玉座に座す王の足もとから首までにぐるぐると絡み付き動きを封じた。
「何をする!」
あまりにも予想外の事に一瞬動きを止めたが、近衛たちがすぐに我に返って玉座周りを取り囲んで学者とガイキに向かって剣を向けた。
名だたる剣士であるガイキに対して武器を向ける事にいささかの躊躇いは覚えたのであろうが、今彼は帯剣していない。それを思い出して気を取り直した。
一方のガイキは肩に小さな炎の竜をとまらせたままその刃先を平然と見据えている。
「大事ないですか陛下」
宰相が王の肩に触れようとすると絡み付いた炎が燃え上がって手を焼こうとする。
「別段命に別状ありませぬよ。今のところは。
あなたも一緒にその炎に焼かれるか、宰相殿。そう言えば、あなたとて全く無関係と言うわけではないな」
学者が言うと、宰相は蒼い顔をして振り返った。
「何のことだ」
「おや、この碌でもない術の事は良くご存じであろう」
学者はにっこりと笑う。
「王と一緒に積極的にご利用になっていたではないか」
学者の肩に制約の紋を施した時、宰相は王と一緒にいて、一部始終を見ていた。いや、そもそも進言したのは宰相だった。
それを思い出して宰相は黙り込んだ。
「そなた、一体、何者だ」
炎の蛇に絡み付かれて身動きできぬ王がふと問う。
学者は微笑んだまま無言。
王の周囲がざわめく。
「アディトリウスはどこにいる」
王の暗い色をたたえた眼差しが学者を見据える。
学者はゆっくりと背後を振り返った。
公爵夫人と令嬢の後ろには、何者かは判らぬがこの世のものとは思えぬ美貌を持った人物が二人立っている。
それぞれが白銀の長い髪を持ち、白いトーガを羽織り、抜けるほど真っ白な肌をしていたが、瞳の色だけが違う兄弟のようないでたちをしていた。
この世のものではないとその場にいる者たちは本能で悟って直視も誰何も避けていた。
その二人が、一歩ずつ、それぞれ左右に避けた。
二人の後ろに更にもう二人。
一人は緑色を帯びた白髪に近い髪をした、痩せぎすで長身の男。
その場にいる者たちがよく見知った男。
そして今玉座の前に立っている男と全く同じ姿。
シラサギ伯爵家の変り者の三男坊。
もう一人は。
金髪と灰青色の瞳をした、大柄で筋骨隆々とした男。
かつて王都の門の前で、森からあふれて押し寄せる魔獣の群れをたった一人で防ぎ切った男。
伝説の剣士と言われ、その活躍が吟遊詩人にまで謳われた。
「そなたら……」
絶句したのは王子だった。
何故なら、神殿跡から学者と剣士を連れ帰ったのは王子だったからだ。
玉座の前にいる二人と、扉の前に立つ二人。
見比べて困惑したのは王の周囲だけで、中心の王は溜息をついて扉前の二人を見やった。
「そなたらの企みか?」
シラサギ伯爵令息アディトリウスは肩をすくめた。
「協力を依頼されたので、このお二人を迎えに馬車を回しただけですよ」
公爵夫人と令嬢を示す。
「誰に依頼されたというのだ」
王が問うと同時に竜を肩に乗せた方の剣士がふっと息をついた。
本来なら、余程近くにいなければ感じ取れないほどの吐息。
だが広間中の人間の耳に届いた。
そして目を向けると、ぱっと竜が肩から離れ……
見上げるほど大柄な男がその姿を変えた。
黒い髪、黒い瞳、肌の色は白いがこの国の人間とは質が違っている。
飾り気の一つもない黒一色のワンピースをまとい、手には白木の杖を持っていた。
「セラ……」
王子の掠れた声。
渡り人は表情を変えず、玉座の王を見据えている。
一旦肩から離れた炎の竜は、再び舞い降りて渡り人の杖にとまった。
杖は全体に炎を帯びた。
「お久しぶりですね」
渡り人は王を見据えた。
「そなたか……」
渡り人は肩をすくめて学者であった人物の方を見る。
彼は未だ学者の姿のままだったが、もうその表情から誰もそれをアディトリウスとは思ってはいなかった。
「此度の事は、彼の要請です。こんなところへ来たくて来たわけではありません」
静音の声は冷ややかだった。
「さよう」
学者であった男は頷いた。
「そろそろ購ってもらわなくてはならぬ。歪はたまりにたまっておる」
「……何故、今なのだ」
王は呻くように呟いた。
「私の父の代でも良かったし、息子の代でも良かったであろう」
男はそれを聞いて笑う。
「そうかもしれぬな。例えば、そなたがあの呪われた闇魔法の玉を使わねば、もう少し持ったかもしれぬよ」
男の皮肉な声に、王ははっと顔を上げ、静音を見やる。
静音は顔色も変えずに王を見ていた。
「そなた、だが、あれは全く効果が無かったではないか!」
王の叫びに静音は蔑むような目を向ける。
「だからなかったことになるとでもおっしゃるのか。おめでたいことだ」
静音はくるりと手首を返した。
そこには、虹色に光り輝く小さな石が一つ掌の上に乗っていた。
眩しさに皆目を眇める。
「これはあの黒玉とは正反対の力を込めた石だが」
その小さな石は高濃度の魔力の奔流の中心にあった。
そんなものを素手で持つ事が出来る静音を皆が恐れを持って見つめる。
「あの夜、あなたが私にしたように、これをあなたの身体に埋めてやろうか」
静音は静かに笑う。
その一言で、王が渡り人に何をしたのか、その場にいた全ての人間が理解した。
王の顔色が真っ青になる。
「これは私の中にあって、浄化の気に浸されつづけ、高濃度の浄化空間となったらしい。これで浄化されぬ物など現状ないそうだ。あなたの真っ黒な腹も汚らわしい血も浄化されてしまえば、さて、あなたという存在は残るのだろうかね」
面白くもなさそうに静音は言って王の方へ石を差し出した。
魔力の圧に押されて皆がたじろぐ。
「静音、それをするのは、後で頼むよ」
学者の形をした男がやんわりと言う。
静音は黙って手首を返した。石は消えた。
「まずは恨みの炎を受け入れてもらおうか」
王の身体に絡み付いた炎の蛇がずるりと蠢き、首に巻きついた。
王は悲鳴にならない悲鳴を上げてそれをよけようとしたが、頭がわずかに動くばかりで、ぐるりと回った蛇の頭が無理やり口の中へねじ込まれた。
「やめさせろ!王になにをする!」
炎を止めようとしても弾かれるばかりなので、近衛騎士たちは剣を振りかぶって男や静音に切りかかってきた。
しかし、男と静音に対しても、剣は意味を持たず、何かに阻まれて刃は届かなかった。
「無駄だよ。後ろにいる者たちも同じ障壁で守られている。我らを害する事は出来んよ」
「そもそも、王がそれを受け入れなければ、時空の歪は極大を迎えて崩壊します。そうすればどのみちこの世は終わりです。無駄な事はせぬことです」
静音の声に皆動きを止めた。
「そもそも、あなたは瘴気を浄化する為に現れたのではないのか!」
誰かが叫んだ。
静音はちらりとその男を見た。
近衛騎士の一人だった。
「さあ?私の事情を端的に申し上げれば、訳も分からず呼びつけられただけの話で、それ以上でもそれ以下でもありません」
近衛騎士の顔色も変わった。
皆はこの時初めて渡り人の心情に思い至った。
右も左もわからぬ異界へ突然召喚されて、碌な説明もされぬまま、魔をはらえ、と旅に出された。
何の対価も用意されず、道中は理不尽な扱いを受け。
周囲は浄化を行う事を当然のように思い、感謝の一つもないどころか、そのための装置である、程度の関心しか寄せず。
渡り人は旅の間、一体何を思っていたのだろう。
「あなたは……我々を恨んでいるのか」
近衛騎士はその可能性に今更衝撃を受けたような顔をした。
静音は冷ややかに笑った。
「溺れかけている人がいれば、助けに動く程度の思いやりは、私にもありはするのですけどもね。「助けろ」と命令される筋合いはありませんし、その命令をきく義務もありません。まして命じた者が溺れた人間の身内であるなら、人に命じる前に自分がまず飛び込め、と普通は思うものではありませんか?」
「しかし……我らには手立てがなく……」
それがため、召喚などという不確かなものにも縋らざるを得ず……
「そうでしょうとも」
渡り人は王を見やる。
「であれば、もう少し別の扱い方をしていただきたかったものです。あなた方の王が私に何をしたか、この国の中枢にあって政治の中心にいる者達が私をどう扱おうとしたのか、あなた方もよくご存じでしょう」
そもそも光魔法の魔導士たちが旅の道中渡り人に嫌がらせをした原因もそこにあった。
近衛騎士は王を見たが、王は炎の蛇が口の中に入り込んだ衝撃で白目をむいて失神していた。
「陛下はどうなるのだ……。このまま命で購うのか?」
力なく問う。
学者の形をした男が鼻で笑った。
「その程度で事がおさまると思うのか」
甘いわ、と言うと同時だった。
意識を失っていた筈の王が、不意に、すくと立ち上がった。
身体に巻き付いていた炎の蛇は燃え広がり、王の全身が燃え上がった。
青白い炎に包まれ、王は咆哮を上げる。
本日は雨で、現在外気温が25度だそうです。
ここまで急激に下がるとこれはこれで却って調子を崩しそうです。
連日地獄のような暑さだったので有難くはあるのですが。




