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「あなたなら「見える」でしょう?」
月神が囁いた。
エイディスは促されて、氷壁のスクリーンに浮かぶ、竜に嬲られ、血を吐き散らしながら転がる渡り人の様子を見る。
「あれは一体何です」
眉をひそめてエイディスは問う。
かつて、傍に控えていた時は「命の危険がある時のみ」手助けするよう命令を受けていた。
結局一度も手を出す局面はなかったが、今、まさしく命の危機であろう場面を前にして、エイディスは妙に焦れた心持ちであった。
「そうね……」
月神はふっと溜息をついた。
「あれは……」
映像の中、静音は一際大量に吐血し、その中に魔力の塊を見た。
はっとエイディスは息をのんだ。
先ほどから、静音の身体の中をぐるぐると動き回るそれに気が付いてはいたが。
拾い上げられたのは魔力をまとった石。
小さな体積の中に極限まで圧縮された魔力が蠢いていた。
静音がその「中」を覗き込み、エイディスは無意識に止めようと手を伸ばす。
水の中へどぶんと落ち込むような気配と同時に、エイディスは濃厚な「気」の中に浮いていた。
呼吸は出来たが、濃度の異なる「気」が己から漏れている為に、ゆらゆらと目の前が揺れている。
「一体ここは何です。どういうことだ」
パニックを引き起こす寸前で、どうにか気持ちを保つために、声を大きくして月神に問う。
「「渡り」が出来たわね……」
「は……?」
月神の姿はなく、溜息のような声のみが聞こえてきたが、これもまた実際の音声ではなく、頭に直接響いてくる。
「もっとも、異界というわけではないし、転移ともまた違う。なんと言えばいいのかしら」
「何のことです」
「あなたの存在が解かれて、静音の持つ石と同調したの。ここはあの石の中よ」
エイディスは混乱しつつ、腕を振り回してみる。
ゆらりと陽炎のように「気」は揺らめく。
「解かれて、また繋がれたのか?」
「繋がれたわけではないわね。そのような気がしているだけよ。周囲を認知するのに慣れた感覚器官が一番良いでしょう?」
「ではこの腕も幻覚なのか」
「あなたは今、意識体だもの」
存在が丸ごと解かれたというのなら、「外」に肉体もないのだろう。
それは死とは違うのだろうか、とエイディスは不意に冷静になって思う。
「似ているけれど、ちょっと違うわ」
月神は心を読んだように言った。実際、筒抜けなのかもしれない。
「あなたたちの言う死は不可逆だけれど、こちらはそういうわけではないもの」
「戻れるということですか」
「望めばね」
望まぬことを想定したような物言い。
「ここで何をしろと?」
気を取り直して尋ねる。
「あなたの好きなように」
月神は微笑を含んだ声で言う。
「あなたの血に遠い昔に刻まれた印はね、王家の呪いだったけれど、今、綺麗に消滅したわ」
この空間は、闇精霊の瞳の一部であるが、玉をなしていた外殻の呪いをはらわれた後、暫くの間静音の体内で浄化の力に浸っていた為、高濃度の浄化空間となっている、らしい。
「強くは無いけれど、魂にまで絡み付いてなかなか取り除けない厄介な呪いと化していたから、どうしたものかと思っていたの。うまくいってよかった」
「……アディトリウス殿に制約の紋は焼いてもらったはずだが……」
「ええ、あの王家の碌でもない術はなくなっているけれど、あなたの場合はね、遠い昔の先祖が受けた更に碌でもない術が絡み付いていたのよ。その名も「神の恩寵」」
エイディスは眉を寄せた。
「影」の間でひそかに取沙汰されている術の名でもあったが、それは古代アルトナミの秘儀であって、現代には残っていないという話であったと思う。
「存在したのですか……」
「昔にね。初代王が精霊と契約し、作りだした魂を縛る術。精霊との契約が解除されて術の効力も消えた筈だったのだけれど、どういったわけか、あなたの血筋にずっと残ってしまったの。あなたで突然顕在化して、驚いたわ」
月神の様子からすると、そんなものが密かに受け継がれていた事自体あり得ない事のようだった。
「王に望まれて力を貸したけれど、精霊の本意ではなかった術なので、脆くてこんなに長く引き継がれるような物ではなかったはずなのだけれども」
「それは、あの、白い鳥とは関係があるのですか」
ある日突然瀕死のエイディスの前に現れた。その姿を目にすると、身体が無意識にその意に添おうとする。
「恐らく術本体が、そういう形で表れていたのだと思うわ」
エイディスは首をかしげた。
「私はあれの首を落としました。そして赤から青に変じた瞳に嵌った石をえぐり出しました。実体はあったと思うのですが」
そう言えば、存在を解かれ、あの石はどうなっただろうか。
「あなたの意識の中に一緒に溶け込んでいるわ」
心を読みとったように月神は言った。
「実体はあった、というか、あなたの魔力が実体化させていたのでしょうね。あなたが首を切った事で、元々緩かった術の効力が薄れたのだと思うわ。石の色が変じたのもそのせいね。石は元々あなたの魔力よ。今はあなたの中に戻ったという所ね。石の分だけあなたが使える魔力は増しているはずよ」
言われて自分の内部の魔力へ意識を向けてみる。
確かに、かなり魔力量が増している気がした。
あの小さな石二つ分とは思えぬほど。
「あの石は魔結晶だったわ。あなたは元々魔力量が豊富なのよ。城や塔の魔導士をしのぐほど」
ずっと、せいぜいが薪に火をつける程度の魔力量だと思ってきたが。
「ああ……、魔力量のせいだったのかもしれないわ……」
月神が今、ふと気が付いたように言った。
「今顕現してしまったのは、あなたの魔力量がこの時代の人間にしては多かったからかも……それにあなた……」
ふわりと何かに心を撫でられたような心地がした。
「闇魔法の属性があるわ……」




