12、エニグマ
駿は病院に緊急搬送された。
緊急搬送されたとき、駿はとても危険な状況で、担当医は助かる見込みはほとんどないと考えていた。
家族が見守る中、駿に可能な限りの蘇生術が施された。
このとき、駿の治療を担当した田中寿限無は次のように語った。
「心臓が停止した時間が実に1時間以上も続いていました。ですが、彼は呼吸をしていました。体温も正常でした。看護師が奇妙なことを言っていました。血管を虫のようなものが移動していたと。それが全身を巡っていたのだと。心臓が停止してから2時間後、彼は蘇生したのです。私の医師人生で最も不思議な体験でした」
駿は絶望的な状況を脱し、一命をとりとめた。
その後から、駿は真紅の翼病院に入院するようになった。
◇◇◇
駿の容態は決して良いわけではなかった。
頻繁に発作を起こしては緊急治療室に運ばれた。
体も免疫機能も衰え、もはや死に至るのは必至という状況が続いた。
駿自身、生きる希望を持っていなかった。
それゆえか、駿の衰弱は加速度的なものになった。
ある日、駿は緊急治療室に入って、医療機器につながれていた。
呼吸が微弱で意識がもうろうとしている。
見守っていた看護師の敏子は懸命に駿に語り掛けた。
「ガッツよガッツ。ほら、ガッツ」
敏子はそう言って拳を握り締めた。
駿は弱弱しい力で、敏子がやったように拳を握った。それはあまりに弱弱しかった。
駿はまもなく亡くなってしまうだろう。
誰しもがそう考えざるを得ない状況だった。
担当医の田中も持って数日と予測していた。
そんな中にあっても、敏子は希望を信じて駿を励まし続けた。
だが、あらゆる応援を与えても、駿の生命力が戻って来ることはなかった。
ちょうどそのころ、駿の隣に急患が運ばれてきた。
下半身を失った女性だった。ただ、彼女がここに運ばれた理由は下半身を失ったからではなく、リストカットによる失血だったのだと言う。
慌ただしく女性の輸血が進められ、敏子も応援に回った。
誰もいなくなった中、駿は隣の喧騒を聞いていた。
どうも、この女性は下半身を失う事故に遭遇してから心を病んでしまっていたらしい。
そして、自殺を図ったのではないかという話だった。
この場所は死を目の前にした者たちの邪悪なオーラに包まれていた。
駿は目の前のすべてがドロドロと溶けだしていくような光景を見ていた。
輸血を受ける女性の母親と思われる者も駆けつけた。
「千尋、千尋、頑張って」
と、娘に懸命な呼びかけをする母親の声が聞こえて来た。
すると、駿の視界が少しずつ正常に戻っていった。
死にゆく者と死にゆく者を呼び止める者たちによって、この世界は白黒の混沌の中に揺れた。
駿は客観的にその様子を見ていた。この世界のすべてが見えたような気分だった。生死を掌握した存在になっていたのかもしれない。
◇◇◇
翌日、リストカットしたという女性が息を引き取った。
決死の治療は実らなかったようであった。
駿はまだ生きていた。
もはや半分死んでいる状況だったが、隣の様子を聴覚でうかがうことができた。
宗教関係者が同伴しているのか、誰かが何かをしゃべっていた。
「死によって終わることはありません。常世のすべてがこの地にあるわけではないのです。千尋さんはさらに先進の地を得た存在となったのです」
おそらくは家族を励ましているのだろう。
科学は現世を終えた者に知らんぷりをする。だから、この場所では宗教のほうがずっと強い力を持っていた。
午後になって、亡くなった女性の母親と思われる者が駿のもとにやってきた。
ずいぶんと長い間涙を流していたのだろうか、瞳が赤く腫れていた。しかし、表情は穏やかだった。
女性はぬいぐるみを抱えていた。
どこかのアニメのキャラクターなのか、おかしな形をしたぬいぐるみだった。
女性は駿のもとに腰を下ろした。
「私の娘が常世を超えた神聖の世界に旅立ちました。娘はずっと世界の中心で輝く存在でした。それは永遠だと思います。あなたにも輝きをもたらしてくれるでしょう」
気をおかしくしているそぶりはなかったが、母親は宗教の何かにとり憑かれたようになっていた。
「あなたにエニグマをもたらしましょう。この子はたったいま娘の化身になりました。私の胸に抱えたままにしていては娘に叱られてしまいます。世界を輝かせる存在らしく、世界を巡ってほしいと思うのです。あなたが奇跡を得たなら、あなたからまた新しい奇跡を伝承してください」
母親はそう言うと、おかしな形をしたエニグマと名付けられたぬいぐるみを置いて行った。
◇◇◇
それから数日、駿は奇跡的な回復を見せた。
エニグマが奇跡をもたらしたのか、駿は緊急治療室を出るほどまでに元気になった。
「信じられない。でも本当に良かった。すごいわ、エニグマちゃん」
看護師の敏子はエニグマを抱えて頭を撫でた。
「あの……このぬいぐるみをくれた方の娘さんは亡くなってしまったのですか?」
駿は改めて尋ねた。
「気づいてたのね」
「話し声が聞こえていましたから」
「でもあなたは生きているのよ。生きなきゃ叱られちゃうわよ、エニグマちゃんに」
敏子はそう言うと、駿にエニグマを抱えさせた。
駿が回復を迎えたころ、世の中は動乱していた。
血液型がB型の人間が謎のゲジゲジに襲撃されるという不可解な事件が多発するようになった。




