10、帰宅
駿が目を覚ましたとき、同居人のゲジゲジは駿の頭の上に乗っかっていた。
ゲジゲジが駿の部屋に入り込んでから2週間が経過して、ゲジゲジは奇妙なことに駿に懐くようになっていた。
駿はゲジゲジにおびえることもなくなっていた。
駿は頭の上にいたゲジゲジを手のひらに誘導した。
「危ないよ。僕が無意識に寝返りを打ったら潰れてしまうかもしれないんだから」
駿はゲジゲジにそう言い聞かした。その話がゲジゲジに伝わっているのかは誰にもわからない。
「この世界にはたくさんの危険で溢れているんだ。気をつけないと。わかったか?」
ゲジゲジは理解したようにもぞもぞと動いた。
駿は一日で最も多くの会話をこのゲジゲジと行うようになっていた。
駿がカーテンを開くと、眩しい朝日が差し込んできた。
今日は良く晴れていて、お出かけ日和だった。
「いい天気だから出かけようか」
駿は虫かごを用意した。
この虫かごはゲジゲジが部屋に住むようになってから購入したもので、ゲジゲジを外に連れて行くときに利用していた。
駿はゲジゲジと共に外に出た。
このころ、駿の容態はとても良かった。
これまでは薬を飲むと副作用でけだるさと眠気に苦しんだが、いまは薬を飲んでも快調を維持することができた。
「そうだ、教会に行こうか。最近、できたらしいんだ」
駿は特に宗教に熱心な身ではなかったが、病気で入院するようになってからは、宗教関係者と会う機会が増えていた。
駿が入院していた病院には、毎日のようにさまざまな宗教関係者が足を運んで、患者たちに演説を行っていた。
最近、アルマゴート教という宗教が日本で人気を博していた。
国政政党である真紅の党の議席が増えるにつけ、その政党を支持しているとされるアルマゴート教は存在感を高めていった。
アルマゴートの教えは迷える日本人に噛み合っていた。
アルマゴート教は以下のように、先進国の住民にとって共感されるものだった。
この地にやってきた者は罪を浄化するために苦しむ責務を負っている。
それに耐え抜いた者はアルマゴートの炎に焼かれ、神なる存在になる。
この教えは日々不幸を感じながら生きている現代人にとっては都合が良かった。
そのためか、熱烈な信者は右肩上がりに増え、今では政治家を動かすことができるほどだった。
宗教の話は色々と複雑なところが絡んでいるが、駿は深く考えずに向かい合っていた。
駿が教会にやってくると、アルマゴート教徒がアロマキャンドルをくれた。
そのキャンドルには青い炎が灯った。
その炎はゲジゲジにはあまり合わなかったようで、虫かごの端のほうで丸くなった。
「少年、さあこちらへ」
「ありがとうございます」
駿は教徒が用意してくれた椅子に腰かけた。
「珍しいものをお持ちですね」
「これですか? すみません。迷惑になりますか?」
「いえ、構いませんよ。そこに入っているのは昆虫ですか? カブトムシの類ではないようですが」
「ゲジゲジなんです」
「ゲジゲジですか。珍しいものをお持ちですね」
教徒はゲジゲジを見つめて、首を傾げた。
「ふーむ、何か特別な力を感じますね。この子は特別な使命を受けてこの地に参った神の化身かもしれませんね」
アルマゴート教徒は宗教チックにそう話した。
「それは面白い話ですね。どんな使命を受けたのかわかりますか?」
「そこまでは。しかし……」
アルマゴート教徒はゲジゲジをさらに見つめた。ゲジゲジはその目に応えるように顔を向けた。
「あなたにとって特別な使命だったことは間違いないでしょう」
「そうか、特別だったんですね」
駿はゲジゲジを見つめた。
「でも僕、この子を自然に還してあげようと思うんです」
「それはどうして?」
「人と一緒にいるのは自然な姿ではないと思いまして。もし、僕にとってこの子が特別ならなおさら、僕のエゴイズムに従わせたくないと思うのです」
「そうですか。それは優しい心持ちですね。たしかにそのほうがいいのかもしれません。我々人間もまた、何かのエゴイズムのもと生かされている身。決して自然な姿ではありませんからね。迷える子羊の自然への回帰を手伝うこと。それが我々の本当の仕事なのかもしれません」
アルマゴート教徒は宗教の本質を語った。
駿は改めてその決心を固めた。
◇◇◇
駿は近くの河原にやってきた。
このあたりは人工的な手が加えられておらず、自然の姿がそのまま残っていた。
「よし、ここにしよう」
駿は虫かごを開いた。
「出ておいで」
駿がそう言うと、ゲジゲジはかごの中から出て来た。本当によく懐いていた。
「ほら、見ろ。ここがお前の本当の住処なんだよ。僕の部屋と違って広いだろ」
「……」
当然だが、ゲジゲジはしゃべらない。代わりに、駿の視線の先に顔を向けた。
「天敵もいるだろうけど、でもそこが本当の君の世界観だよ。でも大丈夫。君は大きいからそう簡単に負けないよ」
「……」
「僕はあまり長く生きられない。それでも、君たち昆虫よりは長く生きるのかもしれないけど。僕たちはまったく違う運命のもとに生きているんだ。共に歩むことはできないんだ」
駿はそう言いながら、自分が人間という枠の外にいるということを思った。
心臓の病は確実に進行している。そう長くないのは明白だった。だから、駿は同じ人間だとしても、健康で将来のある人間とは共に歩めないとわかっていた。
駿は自分は誰とも共に歩むべきではない身であると考えていた。
改めてそう思うと、駿の表情に悲しみがにじんだ。彼は意識してその悲しみを打ち消して笑顔になった。
「さあ、行くんだ。君の新しい生活が今日から始まるんだ」
駿はそう言うと、虫かごを取り上げて立ち上がった。ゲジゲジは駿のほうを振り返った。
駿は首を横に振ると、その場から駆け足で立ち去った。
ゲジゲジはしばらくその場にとどまっていたが、誰もいなくなると、草むらのほうに進み始めた。
◇◇◇
その日の夕方、雨が降った。
部屋に閃光が入って来た。直後、大きな音がした。雷雲がかなり近くまで来ているようだった。
駿はぼんやりと雷空を見ていた。
ゲジゲジがいなくなると、どこか部屋が広く感じた。床に置かれた虫かごは静寂の中に取り残されたようになっていた。
空が強く光り、大きな雷音がとどろいた。
思わず、駿は目を閉じた。
「びっくりした……どこかに落ちたかな」
駿は窓に近づいて、あたりを見渡した。
かなり強い雨が降っていて、雨水が窓を激しく叩いていた。
そのとき、駿は驚くものを見つけた。
「あっ!」
駿は窓の端に張り付いているゲジゲジを見つけた。
それは紛れもなく、自然に解放したはずのゲジゲジだった。
駿は窓を開いた。
しかし、ゲジゲジはすぐには動きださなかった。ちょうど、駿が自分を受け入れてくれるかを確かめているように見えた。
駿が手を伸ばすと、ゲジゲジはゆっくりと動き出した。
ゲジゲジは駿の手の中に収まった。
ゲジゲジは帰って来た。自然の中を進み、そしてこの場所が自分の居場所だと確信したようだった、
駿は思わず涙を流した。その涙はお互いの絆がもたらしたものだった。




