29.堪能 そして罠
「とまあ。こんな感じかのう?」
「ん。大丈夫、リリスありがと」
「うむ、余に感謝するのじゃ!」
リリスに訳してもらう事によって、イルゼは魔導書を読む事が出来た。
そしてイルゼは、その天性の才能だけで通常は習得に時間のかかる魔法を一瞬で会得してしまう。
「ん。たぶん出来る」
「どれ、やってみるのじゃ」
転移の魔法は、魔王であった頃のリリスでもすぐには出来なかった。だからいくらイルゼでも、流石に無理かろうと鷹を括っていた。
しかしその予想は簡単に覆される。
「ん」
言うが早いがイルゼは意識を集中させ、パッとリリスの前から姿を消した。
一瞬の出来事に、「もしやイルゼなら出来てしまうのでは」と身構えていたリリスも驚きを隠せない。
「ぬぁっ!? 本当に消えた……どこにいったのじゃ?」
リリスが辺りを見渡すと、かなり後ろの方から「こっち」と可愛らしい声が聞こえてきた。
そしてとてとてと自分の元に戻ってくる。途中で転移した方が早いと気づき、パッとリリスの目の前まで転移する。
「おうっ!!」とリリスは二度驚いてしまった。
「イルゼ、一瞬でそんな遠くまで転移しておったのか」
「ん。これ便利。たぶんもっと遠くにも行ける」
しかし欠点もある。それは一度行った場所でなければ転移する事は出来ないと魔導書に書いてあった。
転移魔法は本人の記憶を読み取って転移するのだから、故郷の記憶がないイルゼは故郷に転移する事は出来ないのだ。
「故郷へは、地道に旅を続けるしかない」
「ま、それがいいじゃろな。旅は見聞を深めると言うしの」
「リリス逆。見聞を深める為に旅をするんじゃないの?」
「どっちでもいいじゃろ」
「ん。そうかも」
イルゼは自分の傍に転移魔法の魔導書を置くと、持ち帰る残り一冊の本を神妙な面持ちで探し始める。
その行為に、リリスが「ん?」と首を傾げた。
「のうイルゼ。余が読んでやった本も持ち帰るのか?」
「ん。一冊は一冊」
イルゼは変な所で真面目だった。いや純粋と言った方が良いのだろう。
リリスもそんなイルゼに同調する。
「そうか、イルゼは欲がないのじゃな」
「リリスとは違う」
「なっ!? 余に貪欲さなどないわ!!」
「ん。性欲」
変わらぬ表情で呟くイルゼに、羞恥心というものはない。反対にリリスの顔はどんどん赤くなっていく。
「性欲!? イルゼどこでそんな言葉を覚えてきたのじゃ!」
当然の疑問をぶつける。なにせイルゼはリリス以上にそう言う事に関しての知識を知らないのだ。
「さっきリリスが見せてきた『性についての知識』の本をちらっと見たから」
「余のせいだったかッ!」
ぐあーと項垂れるリリスの頭をイルゼがよしよしと撫でる。イルゼは少し大人になった。
「ん。これじゃない」
その後もリリスに初めの方だけを訳してもらい、これも違う、あれも違うとイルゼは魔導書の山を積み上げていた。
リリスがもうどれでも良いじゃろ、と言ってもイルゼは妥協を許さない。
「イルゼ〜まだ決まらんのか?」
「リリス、重い」
頭の上に、その豊満な胸を乗せたリリスが気怠げな声を上げる。二冊目の選定を始めてからもうかれこれ二時間が経過し、リリスは極度の退屈に襲われていた。
彼女は元来飽きっぽい性格をしているのである。
「ぬあー」
そんなわけでリリスは、15分程前からイルゼにちょっかいをかけている。
「暇じゃ、暇じゃよイルゼ〜」
リリスが動くたびに、彼女の胸がぐにゃぐにゃとイルゼの頭の上でその形を変形させる。
「もう少し待って」
「……それをあと何回聞けばいいのじゃ? もう四回は聞いとるぞ」
「ん。いっぱい」
本に目を向けながら無表情でそう答える。
しかしリリスの胸がイルゼの頭を包むごとに、イルゼの口角は上がっていた。
前を向いているイルゼの顔は、後ろにいるリリスでは見れない為、リリスが胸を乗せている限り、イルゼは作業を続けるつもりである。
彼女はリリスの胸を堪能していた。
その反面、本選びはしっかりと行っている……ように見える。
「ん」
ペラリとページをめくり、お気に召さなかったのか見ていた本をパタリと閉じて山の上に積み上げる。
積み上げられた魔導書の山は、ぐらぐらと揺れ、今にも崩れ落ちそうになっているが、絶妙なバランスを保っていた。
「……なんという神業」
「ん」
そして手慣れた動作で、新しい魔導書を手に取るとリリスが訳し、またページをめくり始める。
ここ数時間で繰り返され、洗練されたパターンだ。
「これにも載ってない」
パタリと本を閉じ、新しい本を手に取る。
リリスにとっては、終わることのない悪夢を見ているようだ。
「ぬぐぐ……」
ぬあー!! と突如声を上げたリリスがイルゼを後ろから抱きすくめる。
我慢の限界であった。
「――――ッ!!」
リリスとしては軽いスキンシップのつもりであったのだが、イルゼはビクッと肩を跳ね上がらせた。
とうとうバレたのかと思ったのだ。イルゼはリリスがちょっかいをかけ始めた15分前に目当ての本を見つけていた。
それを敢えてスルーしていた。
なぜかと言えば、リリスに声をかけようとした時、丁度そのタイミングで頭に柔らかい物が乗る感触に襲われてしまったからだ。
「そい!」
リリスは両手をイルゼのお腹に回し、がっしりと掴むと、イルゼをひょいと抱える。
「あっ!!」
イルゼが驚きの声を上げたのもつかの間、イルゼを抱えたリリスは、そのままの状態で書庫の出入り口へと向かおうとする。
咄嗟に転移魔法の魔導書と目当ての魔導書を掴んで、アイテム袋にしまう。
「リリス降ろして」
「嫌じゃ。余はこのまま帰ってゆっくり温泉に浸かりたい。そして余は気付いたのじゃ。イルゼは余の護衛。余が帰るならお主もついて来るしかない。こんな事を考えついた余は天才じゃな。それに本はまた明日探しにくればよかろう」
「むぅ……」
当のイルゼはたっぷり胸を堪能したので、抵抗する気はなかったのだが、今更目当ての本が見つかっていたなどとは口が裂けても言えなかった。
そして今度は自分の背中に、むにゅむにゅとした柔らかい何かが当たる感触を覚える。
それが何かはすぐに想像がついた。
この感触はもう少し味わっていたいという葛藤に苛まれ、結局イルゼは抵抗せず、リリスに抱きかかれられたままの状態になった。
「やっと大人しくなったのう」
イルゼは抱っこされた猫のように、だらーんと両腕を脱力させリリスに身を任せる。
(なんじゃ、今日のイルゼは随分とまあ可愛いのう)
これも魔王の威厳のおかげ、イルゼもようやく余の偉大さに気付いたかとリリスは高笑いする。
イルゼが大人しい本当の理由が、自分の胸にある事を知るのはまだ先の話である。
「よし、そろそろ降ろしてやろう」
「ん……」
イルゼは名残惜しそうになりながらも、リリスから降り、自分の足で扉の前に立つ。
「ふぬっ!」
リリスは一応扉を押してみたがびくともしない。やはり外側から開けてもらわないと出られないらしい。
「イルゼ、ベルを鳴らしてくれ」
「分かった」
イルゼがベルを鳴らす。
リーゼが鳴らした時と同じように、リーンという鐘のような音が館内に響き渡った。
イルゼとリリスは、心地よい音色を出すベルの音に暫し聞き入っていた。
「相変わらずいい音を出すのう〜」
「ん。一つくらい欲しい」
ベルの音は数秒程で鳴り終わってしまうので、リリスは絶え間なく鳴らし続けた。
そしてリリスがベルを鳴らした分だけ、リーゼ達の元へ伝わる。
彼等がそこにいれば――管理室にいれば良い迷惑である。
そこにいれば…………の話だ。
「……遅いね」
「そうじゃの」
「忙しいのかな」
「リーゼの方はそうでもなさそうに見えたが」
暫く待っていたが一向に扉が開けられる気配はなかった。それどころか誰かがやってくる気配もない。
「何かあった?」
「そうとしか考えられんの」
「…………」
イルゼは最悪を想像する。スラム街で自分達を見ていた気配がもしも『オメガの使徒』だったらすでに目を付けられていたのではないか。そしてリリスを奪う機会を狙っていたのではないかと。
そうなると此処は絶好の場所だ。なにせ自分達では外に出ることさえ叶わないのだから。
「ううん。ここにいれば連中も入りにくい筈。やっぱり狙うなら外」
「イルゼ?」
イルゼは思考を巡らせる。そして襲撃はないと判断した。
すると急に扉の外からパタパタとした足音が聞こえてきた。足音からしてリーゼのものであると判断する。
「よかった。忙しかっただけみたい」
「うむ……」
ほっと安堵するイルゼ達の前で足音は止まった。
「イルゼ様、リリス様。大変遅くなりました。今開けますね」
扉の向こうからリーゼの声が聞こえてくると、少し不安が和らぐ。
暫くしてカチャカチャと鍵を差し込む音が聞こえ、ギイッと重い扉が開いた。
「まったくおそい――ッ!!」
扉が開いたと同時に、書庫の外へと飛び出したリリスが何者かにグイッと乱暴に襟首を掴まれた。
「――リリスッ!?」
イルゼも慌てて飛び出す。その瞬間、頭に激痛が走った。
「うぐっ!」
鈍器のような物で頭を強打されたイルゼは思わずその場でうずくまる。
うずくまるイルゼの前に、大きな影が掛かる。
「よう、ギルドで会って以来だなSランクの嬢ちゃん」
「……お前はッ!!」