26 とりあえずぶん殴ろう
軽いめまいを起こしたように、視界が揺らいだと思ったら、白んだ空が広がっていた。
足下には地面はない。
もちろんだあたしがそう頼んだからだ。
だってここはアイツベル大司教区の、大聖堂上空なのだから。
姫様誘拐計画の実行は翌朝になった。
最速で準備を進めたけれど、それでもそれなりに時間が必要だったのだ。
力強い羽ばたく音ともに、力のない声が聞こえた。
「あー久々の空だなあ。太陽がまぶしい……溶ける」
「まだ朝日じゃない」
「朝日の方がこう、浄化されそうな気がしないか? 俺はする」
ちょっと顔を上げれば、こちらを見下ろしているシリウスの真顔が目に入る。
あたしは今、シリウスの首に腕を巻き付け、抱えられている状態だ。
さすがに跳ぶことはできても飛ぶことはできないから当然なのだけど。
なんかじみーにおしりがもぞもぞして落ち着かない。
この高さから落ちたらさすがにあたしも無事では済まないし、誰かに命を預けている状態が慣れないからだろう。
シリウスの背中には、白銀の皮膜の翼が朝日に透けていた。
「あたしから頼んでおいて何だけど、あんたって空飛べたのね」
「一応ドラゴンだからなー。ただ、うっかり落としそうだから、もうちょっとしっかり捕まってくれるとありがたい」
のんびりと返してきたシリウスの忠告にやっぱり筋力はないのだろうか、と首をかしげる。
けど、足と腰に回っている手から、つたわってくるかすかな震えに気がついた。
はっと横顔を見上げてみれば、シリウスの横顔がこわばっている。
「あんた、外苦手なの」
「……さすがに、80年ぶりくらいに出るとちょっと戸惑うさ」
「そんなに!?」
人間じゃ考えられない規模の引きこもりだ、とあたし素直に言葉を返そうとしたのだが、その前にシリウスがへらりと笑った。
「うん、だって俺、瘴気集めちゃうからさ」
その表情の寂しさに、あたしは言葉を詰まらせる。
「さあ、久々のシャバだし、思いっきり楽しまないとな!」
そんなふうに明るく言ったシリウスが、翼を羽ばたいて移動すれば、すぐに大聖堂が見えてきた。
アイツベル王城である、白鳥城は壮麗で上品だったけど、眼下に広がる大聖堂はごてごてぎらぎらとした外観をしていて無駄に広い。
そういえば、飾り付けが派手になったのはここ100年とかって聞いたな。やっぱり見栄を張りたくなるものなのだろうか。
まあそれはおいといて、大聖堂をすっぽりと覆う、いやーな感じの結界も感じられて、あたしはぐっと眉間に皺を寄せる。
うん、たっぷり魔力が込められていて、やっぱり固そうだ。
シュヴァルさんは、なんと大聖堂のある街の端の方に、密かに転移用の魔法陣を敷いていた。
あたしたちはそれを使ってほぼ一瞬でアイツベルにやって来たのだ。
……もしかしてほかのところにもあるんじゃないの?と思ったりもしたけど、シュヴァルさんは転移用の魔法陣を守るために待機している。
なぜなら、他人と一緒に転移できるだけの魔力を持っているのがシリウスだけだったからだ。
あたしたちの目的は姫様だけ。だからさっと攫ってさっと帰ってこられるのが良いだろうと超少数精鋭で行くことになった。
さらにシュヴァルさんは、姫様に転移の目印になる魔結晶のはまった指輪を贈っていたのだという。
なんだと指輪を贈るなんて!?と気色ばんだのは許して欲しい。
そしてその魔結晶の片割れを持っているシリウスが、不安そうな顔をした。
「なあ、本当に壊すなんてできるのかい」
「できるわよ。あたしの魔導兵装なら。ちゃんと奥の手持ってきたし」
あたしの手にはすでにガントレットがはめられている。
メイド服の暗色のスカートが、風にあおられてはためいた。
戦闘服は、血まみれになってしまったから着替えたのだ。
さすが作業着だけあって、戦装束並に動きやすいし、軽い瘴気避けと、強化の魔法がかけられてるから、普通の服よりはずっといい。
なんだかんだいって、気に入っているのもあるけど。
するとシリウスは、あたしの腕に視線をやった。
「や、たしかに君の篭手はすごいけど。『乾坤の篭手』にそっくりでかっこいいし」
「何で気づいたの!?」
「へ? 君こそ『武神アーライト』の主人公が使っているガントレットのこと知ってるのか!? 彼の活躍はそりゃあもう最高で、俺がテン・シー先生の著作に惚れ込むきっかけになった作品だぞ!」
「それは姫様があたしをモデルにして……」
気恥ずかしさがこみ上げて思わず口走ってしまい、しまったと思った。
姫様の密かな趣味はちまたで人気の娯楽小説を書くことで、特に人と魔族の物語は独特の人気があるらしい。
あたしにはよくわからないけど、国王陛下にばれたときも「魔族に対する正しい知識を啓蒙するための活動」とかなり強引に説得して継続していたくらいだ。
執筆中は姫様がすごく生き生きしているから良いかなとは思うものの、自分がモデルになっている作品はさすがに恥ずかしかった。
シリウスの蔵書の中になかったから安心してたのにー!
「え、なに。君がモデル!? ってことは姫様ってまさか……!!」
「っ! 始めるよっ」
顔が近い、顔が近い!
シリウスがかつてない食いつきっぷりで迫ってくるのを、あたしは思いっきり突き飛ばした。
腕から離れたあたしはもちろん自由落下だ。
シリウスの驚いた顔があっという間に遠のいていく。
うん、予定通りだ。
はためくスカートを押さえつつ、くるんと顔を地上へ向けたあたしは、ポケットから取り出した魔結晶を無造作に口に含む。
かみ砕いたとたん、膨大な魔力が体に広がった。
ちょっと苦しいけど、ぐっと耐える。
魔法で作られた障壁や結界を砕くのは簡単だ。
結界を形作っている魔力よりも上回る魔力を込めて殴れば良い。
ただ魔力が足りないから、複雑な術式で解呪しようとするだけで、基本は魔法戦と変わらないのだ。
そして眼下の結界は、シリウスが作った障壁よりちょっと強いだけ。
なら、魔結晶を大盤振る舞いできるあたしに砕けないはずはない!
このこぶしは姫様のため。
そしてちょっぴりお世話になった魔族のため。
さあ、徹底的に砕いてみせよう。
「“我が拳は、天をも穿つ”」
起動詠唱を唱えれば、右腕が熱を帯びた。
ガントレットが飽和した魔力によって煌々とした光を放つ。
あたしは落下の勢いのまま、全力で右拳を振り抜いた。
「貫けええええええ!!!!!!」
あたしの最大出力の拳が、大司教区の総力が結集された対魔結界とぶつかった。
拒絶の光が肌を焼くけれど、全く気にならない。
拳の下で対魔結界が悲鳴のようにたわみ、えぐれ、そして、飴細工のように、割れた。
四散した魔力が暴風のように吹き荒れる中、あたしはまた空中に投げ出される。
そろそろ地上で、あっけにとられたり慌てたりしている司祭らしき人たちが見えてきたけど。
着地の方法を考える前に体をすくわれた。
もちろんと言うか案の定というか、抱えてくれたのはシリウスだ。
「全く君はでたらめだな!?」
「助かった」
「そりゃ助けるよ!? 助けるけども、と言うかこの空気、やな感じだなあ」
安堵の息をついたシリウスが気もそぞろだったから、あたしは彼の胸を軽くたたいた。
「これでもう阻むものはないでしょ、とっとと行きなさい」
「ごふっわぁ、君力が強いんだから……ああもうわかったよ! 俺もめちゃくちゃ姫様に会いたいし行くぞー!」
現金なくらいやる気満々になったシリウスが魔結晶を片手に握る。
そしてあたしは転移の気配に包まれたのだった。




