12 幕間 竜魔王の夜の読書
読書は夜がいいと、シリウスは思う。
まあ、正直言うと、読書は朝でも昼でもいつだっていいものだ。
本の中には様々な人生や冒険、わくわくもどきどきも全部詰まっている。
何百年長い生があったとしてもきっと味わえないだけの人生に浸るのは、最高に楽しい。
のだが、それでも息を抜きたい時はあるもので、魔道具による通信が入ったのは、そんなときだった。
「本当に、アウラの独断だったんだな」
『彼女が主だと言っていたティアンナ姫に接触しましたが、それは確かです。私が祝福された短剣を持ちだしても、無視もせず、状況を把握しようと聡明に対応していました』
シュヴァルの理知的な返答に、シリウスはほっと息をつきつつ通話器を眺めた。
魔結晶を組み込んだそれは、お互いに結晶を持っていればどこででも会話ができる優れものだ。
ただし、距離が広がれば広がるほど、魔力を持って行かれるため、人間界と魔界で会話するのは中級魔族でも難しいだろう。
魔力が有り余っているシリウスはいくら話していても問題ないが、シュヴァルに負担をかけないためにも、手短に大事な情報だけを交換すべきだった。
とはいえ、いつもは多少無駄話を挟みたくはなるが、今回は気楽だ。
『アウローラは、姫に何も言わずに単独で魔王暗殺にきたようです。アイツベルを出たのが2週間ほど前。城に着いたのがその3日後。ちなみに私が魔王城からアイツベルにたどり着くのに、元に戻って同じでしたから』
「シュヴァルの足と同格って……魔王城のやつにも走れるやつは少ないぞ」
改めてアウローラの規格外の身体能力に感心を通り越してあきれたものの、シリウスは安堵に長いすへ沈み込んだ。
「でもそうかあ、アウローラは利用された訳じゃなかったのか」
『ええ、ティアンナ姫は心の底から彼女を心配していましたよ。宝物を盗んだ咎人として私を捕縛しようとしませんでしたからね。アウラの言うとおり、理知的で聡明なお嬢さんでした』
アウラから話を聞いた時、シリウスたちがまず考えたのは、アウローラが捨て駒として扱われたことだった。
魔王という存在が人間界では悪と認識されていることは知っており、シリウスが魔王となってからも、何度か人間の部隊が領地で目撃されていたものだ。
たいていは瘴魔の森で力尽きるか、戦闘が得意な同胞たちによって丁重にお帰り願ったりしたものである。
そう、まさか単身で魔王城に乗り込んでくるなんて、思いもしなかったのだ。
確かに魔王城に入り込むのは簡単だ。
ここには様々な事情を持った魔族が集まってくるために、門戸は広く開けている。
むしろ、シリウスはそのために魔王城を洞窟にしなかったくらいだ。
引きこり感が出るような地下施設にしたかったのだが。
今でもそう思っているが。
全力で反対されたのであきらめた。
あきらめは大事だ。うん。
だから、この魔王城にたどり着いた時点で、ただの人間という可能性はない。
レブラントも、シリウスすら、間近で見るまで彼女が魔族だと疑ってもいなかったほどだ。
そもそも人間は、生身では魔界に漂う魔力にさえ耐えられないのだから。
「アウラが俺たちよりな理由は、何かわかったか」
もちろん、彼女を引き留めたのは、魔王紋の分割というアクシデントがあったせいもある。
だが、彼女の年齢不相応な戦闘能力の高さと、いびつな気配に違和感をもち、彼女を保護することに決めたのだった。
魔族にそれほど同胞意識があるわけではない。
ただ、シリウスは、不自由な境遇にあるのなら、せめて手を貸す位のことはしたいと思う。
しかし、通信器から返ってきたのは否定の言葉だった。
『いいえ、ティアンナ姫は慎重ですから。そこを明かしてもらうには、まだ信頼が足りないでしょう。ほかの方向からも、もう少し時間をかけて探ってみます』
「たのむ、俺も彼女から聞き出せないかやってみる」
シュヴァルをはじめとする同胞たちにはシリウスの願いを受け入れて、アイツベルへ潜入してもらっていた。
彼らには頭が上がらないな、と本気で思う。
でなければ、自分は魔王として立つことはできなかっただろう。
『シリウス、アイツベルは数年前から魔族に寛容な風潮がありましたが、原因はラウディス教会への不信感にあるようですね』
「教会かあ……あんまり関わりたくないね」
シュヴァルの報告に、シリウスは今までやって来た、教会の聖騎士や司祭たちを思い出してしょっぱい気分になる。
白と黒の制服を目印とする教会は、シリウスは実際には遭遇していないものの、伝え聞く話だけでも問答無用で襲いかかってくる連中だった。
正直、小説で読んだ聖騎士の勇姿を熱く読んでいたシリウスは現実との差に涙をのんだものだ。
現実と物語の区別はつけよう。大事だ。
『今回、の魔王降臨の告知はアイツベル大司教区より出されたもののようです』
「言いがかりもいいところだよなあ。俺何もしてないのに」
『そして、アイツベル国内では、実際に瘴気に冒された魔獣が増加していました。おなじく空気に瘴気の色が濃く、民草に影響が出始めていますね。おそらく濃いところでは魔界に匹敵します』
「……なんだって」
瘴気はいわば、汚染された魔力だ。
魔族には瘴気を濾過して魔力に変換する力があるが、生身の人間にはそれがないため、瘴気の濃さがそのまま生死に直結する。
そのため、人間たちは魔法によって瘴気を浄化するすべを身につけた。
その技術の元となった存在が、その身一つで瘴気を浄化することができる聖女だったが。
「たしか、聖女ってアイツベルの王女だったんだよな。名前は……」
『ティアンナ・ウェーヴェル・アイツベルですね。今までも、定期的に慰問という形で方々を巡ることで、瘴気を浄化していたようです。現在巡る箇所を増やしています』
シリウスはシュヴァルがもたらす情報の正確さを信頼していた。
魔王城外との接点を持っていられるのも、この腹心がいるおかげだが、内容に関してはしかし、全くわからない。
「なんで教会と仲が悪いんだろうな、教会って聖女を守るための機構だったよな?」
『少なくとも200年前までは。定期的に聖女が魔界を巡回していたものです』
「そうだよなあ、でも最近、聖女が来なくなったのは事実だし、人間の時間の早さはすごいからなあ。やっぱり変わっていたんだろうな」
人間の変化はあっという間だ。
昔は小説すら探すのに苦労したものだが、小説の刊行ペースも収集に行ってもらうたびに増えていてうれしい悲鳴を上げている。
ああ小説は良いものだ。
『調べますか』
まだ読んでいない小説に思いをはせていれば、シュヴァルの言葉によって現実に引き戻された。
調べる。うん。調べるべきだろう。
シリウスは魔王だ。魔王には瘴気を吸収……つまり、瘴気を減らす役を定められている。
同時に、聖女は、瘴気を浄化……つまり消滅させる役割を持っているのだ。
シリウスが魔王城に篭もり、多少無理をして魔結晶を増産することで、魔界は均衡を保っている。
しかしそれはシリウスが数日でも休めば、魔界はあっという間に理性を失った魔獣と魔物であふれるということでもあった。
それを防ぐための聖女の巡回で、それは数百年前にお互いの生存領域を守るためにラウディス教会と交わした約定だったのだ。
今回の出来事は、それが途絶えてしまった理由を知る手がかりになるだろう。
「シュヴァルたちの安全が確保できる程度に。人間界での聖女の認識と、教会について調べてくれ」
『ええ、わかりました。ただ、アイツベル大司教区では、執拗に聖女を囲い込もうとしているようです。司教区内では特に聖女は教会から出ないものとされているようですから。そのあたりの齟齬の原因を中心に調べてみましょう』
「頼む」
ずし、と心にのしかかってくるのは、責任というやつだろう。
重いなあと思う。やっぱり責任なんて負いたくない。
『ところで、そちらはいかがですか。アウローラさんの様子は』
「あー、ええっと」
ここ十数日のアウラの行動を思いだしたシリウスは言いよどみ、頭をかいた。
「魔結晶が俺とアウ……アウローラが手をつながないと精製できなくなってるってのは話したよな」
『そういえば、あなた付きのメイドになったのでは』
「毎日にらまれてる……しかも、魔結晶を精製するたびに指を握るんだけど、めちゃくちゃ不本意なのが伝わってきて毎度泣きそうだ」
アウローラはおとなしく従ってくれてはいるものの、毎日数時間の沈黙は大変心に悪い。
ただ、本当に彼女は魔結晶の精製に苦痛を覚えていないようなのにはほっとしていた。
アウローラにはさんざんあきれられたが、一人で精製していた時は、毎日憂鬱になるほどしんどい作業だったのだ。
好んで人に頼みたいとは思わない。
『おや、普段あなたは書物をめくっていれば、他人の存在を忘れるでしょう?』
「さすがにな、年若い女の子がそばにいて無になれるほどは枯れてない」
同時に、素直に喜べない部分もあるのだ。
シリウスは、あの日のアウローラの暴挙を思い返す。
無造作に、ためらいもなく脱ぎ捨てて、全く羞恥を感じている様子はなかった。
その理由は今でもつかめず、シリウスの胸中に複雑な思いをもたらしていた。
ただ、あのときのすがたが目に焼き付いてしまったのは許してほしい。
なにせ、彼女は物語でもなかなか読めないほどの美人なのだ。
甘く柔らかそうな乳白色の肌に、くっきりとした意志の強そうな眉は清廉だ。
にもかかわらず首筋を彩る夜を糸に紡いだような艶やかな黒髪と、紅を乗せているように赤い唇は、危うい色気を感じさせる。
まあ、あれだけの身体能力を有しているとは思えないほど華奢なのに、優美な曲線を描く豊かな体つきにも少々……いやかなり見とれたが。
何より、夜明けの空のような紫の瞳は彼女の意志の強さをそのまま映したような輝きに、シリウスは見惚れたのだ。
姫と呼ぶには強く、優美で気高い獣のような美しさを持った娘だと思う。
『なんにせよ、女性に興味を持っていただけるのは助かりますね』
通信機ごしのシュヴァルに大まじめに返され、かえってシリウスがうろたえる。
「魔王は世襲制じゃないだろ。俺はべつにいつ譲ったってかまわないんだからな」
『世襲制ではありませんが、魔王が精力的であればあるほど、配下の魔族たちも活性化しますから、より旺盛になっていただけると私たちも助かります』
「それ俺に求めないでくれるか!?」
『求めてませんよ。私はあなたくらいがちょうどいいと常に思ってます』
しれっとシュヴァルに告げられたシリウスは、いつものことながら肩を落とす。
この腹心はいつだってシリウスをほどよく突き放すが、同時に変化を求めない。
絶妙に居心地良い距離を保ってくれることに感謝をしていた。
『とはいえ、本気で嫌ならもっと別の方法を探す、という選択肢もあるでしょう。スティアには相談しましたか』
「あーいや、その。してはいるんだが、アウラもちょっと気になるというか。なんかほっとけないんだよ」
自分が感じる彼女も、女官長のハンナから聞く彼女お様子も、どこか息苦しそうなものだった。
とはいえ、自分のことですら手一杯な今、彼女についてしてやれることなどほとんどないのだが。
彼女の息苦しさの原因が自分ならば、ものすごく泣きたい。
歯切れ悪いシリウスに、シュヴァルは穏やかな声が返ってくる。
『わかっています、あなたの声が明るい。気兼ねなく話せる相手は久しぶりでしょう』
「やっぱ、わかるか」
図星をさされ、シリウスは勝手に騒ぐ心臓を押さえた。
アウローラは、久々にシリウスが一切気兼ねなく顔を合わせることができる相手だった。
多すぎる魔力で威圧することも、瘴気にのまれる心配をしなくてもいい相手はシュヴァル以来なのだ。
たとえ会話がなくとも、そばにいてくれる安らぎに浸りたいと思ったりもするのである。美人だし。
『彼女に関しては、あなたの心のままに。ではそろそろ。私はしばらく姫君と行動とともにします』
「……え、ちょっと待ってシュヴァル今どこでなにしてるの」
『姫君の護衛役として、公務に同行しています。ああ、あなたに頼まれた書籍は別の者に持たせましたから』
「さすがだシュヴァル! 気をつけてな!」
多少気になることはあるが、シュヴァルのそつのなさに感謝しつつ、シリウスは新たな書物へと思いをはせたのだった。




