それぞれの憂鬱
「…メイド長、」
「…如何なさいまして?司さま」
小さな声でそっと呼び止めたのは此処のメイド長である綾乃。
彼女が振り向くと茶色くボリュームのある髪が揺れ、ふわりと石鹸の良い香りがする。
若く見える彼女だが、屋敷の使用人の中では古株の部類だ。
「今日、夜、エドガー様がいらっしゃる。」
「あぁ…フォーサイス家の。」
なんの感情も感じられない、起伏のない話し方は流石だと思う。
俺は久々にエドガー様がいらっしゃると聞いて、手が震えたというのに。
「メイドは皆、部屋に入っているように伝えてくれないか。」
「あら…よろしいのですか?」
「日向さまのご意向だ。」
「畏まりました。…では、ごきげんよう。」
貼り付けたような笑顔を俺に向けたあと、彼女はコツコツというヒールの音を立てて俺から離れていく。
気丈な女性だと、改めて感じた。
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「お呼びでしょうか、お嬢様。」
ノックの後に返された返答をきちんと待ってから入室した彼女は、スカートの裾を指で摘み、一礼してからそう尋ねた。
書類に埋もれたテーブル越しに愁い気な表情を浮かべる主人、彼女はその表情よりも、主人に日光が当たっていることに注意が向いた。
「あら、いけない。カーテン、閉めますね。」
「いいよ。日に当たりたい気分だから。」
ヒールの音を響かせ、主人の後ろにある窓に近付くとカーテンにそっと触れた。
主人である日向は首を横に振る。
そして強めの口調でその行為に制止をかけた。
「よろしいのですか?お嬢様は『ヴァンパイア』なのに。」
愁い気であった日向の表情は、綾乃のその言葉によって余計に歪められる。
そんな主人の様子を見ても、綾乃が臆することはない。
「いくら『チョコレート』を食べて人間に近い体質へ変化したとしても…強い日差しは辛いのではありませんか?」
「…今日、エドガーが来る。メイドたちは皆、エドガーが屋敷から出るまで鍵のかかる部屋で休んでいること。いいね?」
「しかしお嬢様、ヴァンパイアであるエドガーさまには生き血を用意しなくては。」
日向の睨むような視線を受けてもなお、メイド長は気にする素振りを見せない。
むしろ感情を煽るように微笑み、日向の頬に手を添えた。
そのままゆっくりと頬を撫で、首筋に手を滑らせる。
日向は綾乃の手に自分の手を重ねた。
日向は、綾乃の手はヴァンパイアである自身のそれよりも冷たいと感じ悲しげに眉を寄せる。
「…私は確かにヴァンパイアだよ。だけど、私は、香坂家の人間は、永遠を誓った愛する者の生き血しか吸わない。ここは香坂の屋敷だから、エドガーにもそれを徹底してもらう。」
静かな声で、しかしはっきりとそう言い切った彼女を見て、一瞬、綾乃の表情が消える。
しかしその後、いつもの貼り付けたような笑顔を日向へと向け、手を日向から離す。
「畏まりました、お嬢様。…なにか軽食をお持ちしましょうか?」
「じゃあクッキーと、ミルクココアを。」
「はい、今すぐに。」
入室時と同様にスカートの裾を摘んで一礼すると彼女は部屋を後にした。
ぱたん、と扉が閉まって暫し。
数秒後、深い深い溜め息が室内に響いた。
「やっぱり苦手だなぁ……」