カサネ【4】
カサネは、ただ歩く。何をすればよいのかが、分からないまま。女たちが言葉を交わすようになったのは、ここ最近のことなのだそうだ。他人の夫や子、衣類に興味を得るようになったのも。故に、年かさの女たちはあまり出歩かない。カサネと親しくしていた女たちは、ちょうど皆出産か夫との死別の時を迎えており、たわいない会話はできなかった。先日ミノリの子の話を教えてくれた女は、娘の「結びの儀」が近いと言っており、忙しいようだ。
まだ、はっきりとは膨らんでいない腹が、ここ二日ほどで、ぐい、と前に出てきた気がする。その形が、どうなっているのかは、上から見ているだけではよくわからない。
どのぐらい、歩いただろう。ずっと見ていた腹に影が多くかぶさっているのに気付いた。ふと、上を見上げると木々が間隔を詰めて茂っている。
(――森?)
迷いの森、という言葉を聞いたことがあった。村のある広場から遠くに見える、木々が多数生い茂っている場所を指して、誰かが言っていた。近づいてはいけないよ、という言葉とともに。
(…いけない。帰らなくちゃ)
空はまだ淡い色を保っている。今引き返せば、夜までには家に戻ることが可能だ。
けれど。
足は止まらない。カサネの視界には、揺れる腹。まるで、この歩みを励ますかのように。つま先だけが、時折見え隠れする。
(どうして)
「迷いの森は、心がさまよっている者が来る場所だからじゃの」
不意に低音が響いて、カサネは目を見開く。
(竜――…)
どうして昼間に、と思ったが、しかし次の瞬間、見開いた目を幾度か瞬かせる。あ、と口から無意味な言葉が零れ落ちる。
(人…)
目の前にいたのは、背の高い人だった。長い髪を無造作に垂らしている。
「迷いの森に、近づいてはいけないというのは正しくない。正しくは、迷いの森に近づくような心を持つな、という意味じゃ」
その言葉をうまく呑み込もうと、カサネは再び目を瞬かせる。けれど、それを行うより先にその人はさらに言葉を続ける。
「そんな心も、愛しいと思うがの」
うっすらと目を細めてその人は言う。ワコウのような――つまりは、老婆のような言葉を使う人だな、とカサネはぼんやりと考える。
「後学のために教えておくれ。お前が、何に迷っているのか」
こうがくってなんだろう。カサネはそう思いながらも、頷く。膨らんだ腹が、視線を落とすと同時に揺れた。
「――…わたし、いま、ややを、宿しているんですけれど」
見ればわかるだろう、ということを改めて言う。その人は驚きも飽きれもせず、うん、と頷いた。
「あの…いま、うわさが、あって」
どうして見ず知らずの人に、こんなに言葉を紡いでいるんだろう。と、カサネは思う。亜麻にだって、まだ言えていないのに。揺れる腹と、昼間のはずなのに暗い空間、そして、この、不思議な声の人。そんな偶然が重なっただけだろうか。言葉は、するすると雨だれのように落ちる。まるで唇に、雨雲がかかったかのように。
「異形の子が、生まれるそうなんです。異形、ていうのは…女の形をした、竜だったり、竜の形をした、女だったり――もしも、私の、ややが、それだったら」
だったら、ともう一度繰り返してカサネは口をつぐむ。雨が上がってしまったかのように。けれど虹はかからない。
「…だったら、どう、しようって」
ぽろりと落ちた言葉は、先ほどの雨のような冷たさは持っていなかった。葉っぱのような、軽いもの。
沈黙が、じっとりと身を包む。その人は、相槌も打たずに、カサネを見ている。また、雨が降り出すのではないかと見ているかのように。雨宿りをしているのは、果たしてカサネなのかその人なのか。
「――…どうしよう、といっても、結論は一つしかないって聞いて…。死ぬしか、ないって」
幼いころ、父の死に立ち会ったことがある。父の死は、とても美しいものだった。寝たふりをしながら、母が父を食らっているのを見た。泣きながら、それをまとめながら口に運ぶ母は、ひどく美しくて、それと同時に、ひどく悲しく見えた。
腹にいる子が、ああなるのだろうか。とろりと溶けた、彼を思い出す。
「…でも、いつか、そう、寿命を迎えて、死んじゃうのは仕方がないけれど…。わたしは、まだ…」
そう、とカサネはつぶやく。
「わたしと、亜麻が…夫が、生きているうちだけでも、生きていてほしくて」
違う。生きていてほしい、じゃない。
「…わたしが、生かす。絶対に…生かすわ。そう、誰かに、頼む…私が、死んだ後も――」
言いながら、それは無理だと心の中で――あるいは腹の中で――誰かが叫ぶ。結びの儀の問題だけじゃない。竜は、必要な分しか星を狩らない。
「――…だけど」
言い淀むカサネの前で、その人は動かない。
「…考えても、どうしようもないけど」
「子は、死なぬ」
ぽつり、とその人は言う。
「殺さぬ限り」
「コロ?」
「人を、死なせることを、そう言う」
カサネはぱちぱちと目を瞬かせる。ワコウの行っていたことを思い出して、首筋に手をやる。
「殺さぬ限り、子は、死なぬ。生き延びる」
そして、とその人は言う。
「最後まで、生きる。それだけは、間違いない」