ハスミ【4】
儀式は、深い夜の中に執り行われる。
月が煌々と夜空できらめく。今日だけは、雲を飛ばさない、ならびに星を狩らないという暗黙の了解があるので、空はひどく静かだ。
広場には想像以上の数の女と竜がいた。月があるとはいえ、昼間ほど明るくないそこでは、ミイナの姿は見つけられない。既に儀を終えた竜と女の姿も所々にある。まだ伴侶を探してうろうろとする竜や、虎視眈々とそれを見つめる女の姿もある。
そして。
ハスミの目の前には、美しい目をした竜がいた。彼は言う。
「――僕と結婚してくれませんか」
はい、と答える前に、どうして、という言葉がハスミの口をついた。基本的に、求婚に対して言葉を発するということはそれを承諾することを意味する。けれどもたぶん無意識に、ハスミは言葉を吐き出していた。
「…あた…あたしは、綺麗じゃないし、雲も、あんまり、上手には編めません…」
竜はぱちぱちと目を瞬かせてハスミを見てから、ふ、と笑った。
「僕は、手が綺麗な人が好きなんです」
そういって彼は、ハスミの手を取る。
「とてもきれいな爪をしている。いつも丁寧に、手入れをしているのでしょう?」
顔が駄目なのだから、せめて身ぎれいにしなさいというのは母の口癖だった。ハスミはそれを忠実に守り、爪を綺麗にとぎ、髪を丁寧に梳き、口の中をいつも磨いていた。
「――爪は…竜の命です。でも僕は、不器用であまりきれいに整えられなくて――。その…別に、そのためだけに求婚するわけではないのですが…。僕の爪を、整えてくれませんか」
そう言いながらぽりぽりと竜は頭をかいた。なるほど彼の爪は父のような鋭く綺麗なものではなくて。やたらと短かったり、左右どちらかに偏ったりしている。
「――私でいいんですか?」
その問いに、竜はにっこり笑う。
「あなたがいいんです」
ハスミはそれから毎日、竜――紺碧という名だった――の爪を磨いた。彼の狩ってきた星を処理して、相変わらず下手くそながらも雲を編んだ。子を宿し、産んで、そして送り出す。そんな毎日を繰り返しながら、何年が経っただろう。
夫が、紺碧が死んだ。
静かに、彼は目をつむって横たわっていた。夜空にはまだ、竜たちが飛び交っている。紺碧は少し笑って、綺麗な爪でつかんだ星をハスミに渡した。そしてゆっくりと、寿命を迎えた。
どうしたらよいのか、ハスミは知っている。母に教わっているからだ。紺碧の最後にとってきた星の内部を開けると、赤い熱源がとろりと零れ落ちてきた。それを紺碧の体に垂らす。まだ幼い娘は木の根元で眠っている。その娘のすぐそばで、紺碧の身体はゆるりと溶けていく。あっという間にとろりとした飴状になった紺碧を手に取ると、ハスミはそれを指ですくってぺろりと舐める。次の結びの儀まで、この最後の星と竜で、生き延びなくてはならない。管理しやすいよう、少しずつ手のひらにすくっては丸めていく。紺碧のとってきたものとは比べ物にならないぐらい、いびつな丸が出来上がってくる。
ハスミは、もうひとくちだけ紺碧を口にする。
紺碧の身体は、少し塩辛くて、少し甘くて、優しい味がした。
それはきっと、誰もが通る道で。誰もが抱く感情。今、自分の横で寝息を立てている愛娘も、きっといつか。たぶん、この広場で誰かが自分と同じように夫の遺体を溶かしていて、きっと誰かがそれを口にしている。
ただ、それだけのことなのに。
ふ、と息が漏れた。それは嗚咽の代わりに。
「――ありがとう」
紺碧の味は、優しくて。それはあの時の笑顔と同じぐらい。
単純な営みの中にあった、誰にも分らない――たぶん、自分が死んだらこの世界のどこにも残らない、その幸せ。
紺碧と出会ってから、ハスミは一度も謝らなかった。