ハスミ【2】
どういうわけだかは分からないけれど、結びの儀に参加する竜と人の数は同一になるのだそうだ。成獣および成人するまでには、様々な理由により命を落とすこともあるが(例えば星狩りの時の不慮の事故など)うまく帳尻が合うらしい。結びの儀は「月の神」が見守るともいわれているから、それの配慮だとも言われている。
(――だから大丈夫)
ハスミは、池に映った自分の顔を見て頷く。よし、ともう一度心の中で呟いたときに、その言葉が耳に届いた。
「やあだ、不細工と会っちゃった」
振り向かなくてもわかる。三つか四つほど向こうの木の下に住むミイナだ。
「こんな日にこんなところで会うなんて最低。――ていうか、あなたもしかして自分の顔でも見に来たわけえ?いやあねえ」
ハスミは黙って立ち上がる。言うべき言葉は何一つ浮かばなかった。そんなことない、とも、本当にそうだよね、とも、どちらとも本心ではなかったし、やめて、などと言っても彼女がやめないことはとうに分かっている。
「ほんっと不細工。何のために生きてるわけ?生まれる子供も、あんたに出会ってしまう竜もかわいそう。――結びの儀になんて、来ないでよね」
念を押すようにミイナはそういうと、ぷい、と踵を返したらしい。
なぜ彼女が言うのか、理由は一つだ。彼女が大切にしている弟の竜も、ちょうど今年は「結びの儀」に参加する。確率は驚くほど低いが、ハスミとその竜が結ばれてしまうのが嫌なのだろう。
(…関係ないのに)
嫁入りをしてしまえば、兄弟も親ともほとんど触れ合う機会はない。竜と人であれば、その確率は零以外の何物でもない。
葉が踏まれてきしきしという音が耳に届く。
(――かわいそう)
自分は果たして「月の神」が計らったという頭数に入っているのだろうか。空を眺める。今日の空には、雲が多かった。いびつな雲は見当たらない。結びの儀の門出を祝う、薄くて美しい雲たちが、ゆったりと漂っている。
当てもなく歩くハスミの瞼の裏には、父のくれた美しい星が瞬きのたびにうつった。自分のために、とってきてくれた綺麗な星。
もしもあれをミイナが見たら言うことはただ一つ決まっている。
――あんたなんかのために、とられた星がかわいそう。
実際に言われたことがないのにそれを思いつけるのは、今まで幾度もいろんなことを言われてきたという経験と、そして自覚に他ならない。
分かってるよ、とハスミは心の中で呟く。
(あたしなんかで、ごめんね)
その謝罪は、世の中のすべてに。
綺麗な星に。優しい父に。不機嫌な母に。愛らしい妹に。すでに旅立っていったきょうだいに。ハスミの踏んだ草に。顔を映した池に。今まで腹の中に収めてきた星たちに。吸い込んだ空気に。飛ばした雲に――。
――結びの儀になんて、来ないでよね。
ミイナの声が、まだ体中にまとわりついている。
ごめんね、とハスミは再び謝る。
(あたしなんかに、声をかけさせて。時間を取らせて。ひどいことを、言わせて)
それはミイナに対する、謝罪。
「――あれ?」
きょろ、とハスミはあたりを見回す。こんなに木が密集している場所などあっただろうか。拳一つ二つ分の距離に無数に木が生えている。
「…やだ、あたし迷子に――」
慌てて踵を返そうとして、そしてハスミは体を止める。
「――…そっか」
きっとこれは「月の神」の計らいだ。空を見上げれば、まだ昼間の空気が漂っているが、じきにそれはまた夜へと変わる。
閉じ込められたのだな、とハスミは思う。結びの儀に、参加させないために。
(だってこんな不細工が来たら…困るものね)
人の評判を落とす。相手の竜はきっと困惑する。そして生まれた子どもが万一自分に似ていたら――。
(…良かった)
これでよかったのだと思う。このままずっとここにいたら、いつか腹ペコになって、寒くなって、それからどうなるのだろう?
「――それは間違いなく死ぬのう」
ふいに聞こえた低い声に、ハスミは肩をすくませる。低い声。まるで、自分の父のような。
(いけない、竜が――)
――嫁入り前の女は、家族以外の竜に姿を見せてはいけない。
慌てて顔を隠そうとして、それからその手をのろりとハスミはおろした。
(もしも見られたら、どうなるの?)
その疑問と同時に、ああ、という気持ちと共に体が弛緩していくのを感じる。やはり「月の神」の計らないなのだ。昼間のこんな時間に竜がいるわけがない。もしもいるのであれば。――ハスミに、禁忌を犯させるため。
(…やっぱりあたしは…)
「そんなわけが無かろう」
再び聞こえた声に、びくりとハスミの肩が跳ねて、ちらりと視線がさまよい――そして脱力した。
「…あ…女のひと…」
目の前にいたのは、まぎれもない「人」だった。ひょろりと背が高いが、鱗も牙も長い爪ももっていない。ただ、声だけが低く竜のような、人。
「娘よ。よくもまあ、そんなに悪いことばかりぽんぽんと思いつくのう」
「え…?あ、やだ…声に出てました…?」
ぱ、とハスミは口に手を当てる。その人は否定も肯定もせずに少し微笑んだ。
「それよりも、後学のためにぜひ教えておくれ。どうしてお前さんは、そんなにも謝る?」
「…え?」
「お前は、何に対して謝っておる?」
ハスミは目を泳がせる。――どうしよう、という思いがやわらかく彼女を包む。
「あ――た、あたし――…」
人に何かを問われたのは、久しぶりだった。説明を求められたのも。意見を聞かれたのも。
言葉よりも先に、目から涙がこぼれた。目の前のその人は、ぼやけながらも、それでも笑っていた。