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ミチル【7】

 その人は静かに、笑みを浮かべていた。そして、静かに首を横に振る。

「わしは、月の神ではない。それから、雲を編むすべも知らない」

 欺いているようには思えなかった。それほどまでに、その人の目は涼やかで透き通っていた。

 太陽はもう、沈む方向に向かって落下を始めている。迷いの森で、ミチルはずっと彼を呼んでいた。大声を出して、時々泣いて。月の神様、と何十ぺんも叫んだ。走り回って、地面をはいつくばって。太陽がぐるりと別れの準備を始めても、帰らないミチルの前に、そうしてその人は訪れた。

「あの雲は、本当の月の神が飛ばしたとわしは思う」

 そう言ってから、その人は空を見上げる。

「わしではない、本物がの」

 どこか、寂し気に。

「わしは、ただの欠陥の命じゃ。それ以上でもそれ以外でもない。お主と同じ言葉は口にして、やや外観が似ておるが――…ただ、それだけじゃ。つまらぬことで泣きながらここに来るお主が愛らしゅうて、つい相手をしてやったが、ついやりすぎてしもうたようじゃ。…もう、ここに来てはならぬぞ」

 どうして、とミチルはつぶやく。汗は、ひかなかった。髪をぐちゃぐちゃにして、服を濡らして、そして夜のように冷えていく。

「わしは、お主には何もしてやれぬ。何故なら、生き方が違うからじゃ。わしのこのからだは、何でできていると思う?どうやってわしが、結びの儀の日を生きていると思う?――住む世界が違うのじゃ。わしはただ、甘美な星の味を味わいたいと思う、下賤の生き物じゃ」

 帰れ、とその人は言う。

「知りたかったことは、すべて知ったじゃろう。わしは何でもない、ただの勘違いをした屑じゃ。――そら、もう日が沈む」

 帰れ、とその人は再び言ってミチルの背を押す。

「月の神の怒りを呼ぶな。再び結びの儀が失敗に終わったら、村は壊れるぞ。お前の大切な、友達と家族を苦しませるな」

 ミチルはした唇をかんで、それからゆっくりと足を動かす。森の入り口まで戻った時には、既に太陽は半分ほど姿をにじませていた。

 ふとミチルは、彼に聞きそびれたことを思い出して振り向く。けれど、彼の姿はそこになく。ただ、小さな声で「金糸雀」とだけが聞こえた。ミチルはその名をつぶやくと、走り出した。もう、振り向かなかった。



 両親は、怒らなかった。母はただ泣いており、父は少し離れたところから黙ってミチルを見ていた。弟たちは、何かを言いたげにしていたが父に促されて夜空に掛けていく。

 ごめんなさい、とミチルは母につぶやいて頭を下げた。二度と行きません、と付け加える。

「きちんと、結びの儀には出ます。竜と、つがいになって…子どもを産んで、そしてその子供を、結びの儀に送り出します」

 母は頷いて、ミチルの手を握る。

 しかし、ゆっくりと父がこちらに歩みを進めた。

「あれは、人だ。それも、男の」

「…えっ、どうし――」

 言いかけて慌ててミチルは口をつぐむ。嫁入り前の女は、竜と口をきいてはいけないのだ。ミチルの言葉をつなぐように、どこか諦めた口調で母が口を開いた。

「…どうして知ってるの、と聞きたいようよ」

 うん、と父は言う。

「女には女の世界があるだろうが、竜には竜のそれがある」

 世界、とミチルは頬の中で反芻する。

「少しずつ――…変わっていっている気がする、と竜たちの間でも噂がある。もう最近では、竜の力も衰えている。昔の竜は、もっと巨大で、たくさんの力を持っていた。今では、雷ひとつ防げぬ」

 言ってから父は、再び言葉を紡ぐ。

「――時折、人の形をした男が生まれることがここ最近あるそうだ。たいていはうまく生きられず、生まれてすぐに亡くなるそうだが…。昔は、そういう子が生まれると、すぐに捨てていたそうだ。あの、森に」

 ミチルは目を見開く。

「それが、神と間違うてしまうほどに、成長していたということか」

 母はただ、ぽかんと父を見ている。

「ミチル。お前が、竜との結びを拒むのも、おそらくは時代が変わっているせいだ。――進化していくのだ。この、今のこの風習も、営みも、全てがなかったことになる」

 その言葉と同時に、二匹の竜が空から舞い降りる。つやつやと輝く、今までに見たこともないような、美しい星を、二人で持って。

「姉貴、これを贈るよ」

「俺たちからの、はなむけだ」

 ミチルはただ驚いて、二匹の弟を見つめる。

「――行け。月の神など、存在しない」

「あなた!」

「近いうちに、この世界は終わる。結びの儀が失敗に終わったのが、全てだ」

「だってそんな――」

 悲鳴に近い母の声が、空に向かって、そして吸い込まれるようにまた降って来る。

「そういうことだ。たった一人の人間の男が、生き残っている。それが答えだ。例えあれが、悪だとしても。我々の前に立ちふさがる、障害だとしても。この世の中を捻じ曲げて壊そうとも。――それが、答えだ」

「そんな…!」

 母ががくりとうなだれる。行け、と再び父が言う。

「――元気でな」

 母の嗚咽が、父の言葉に重なって美しい重奏のようになった。弟たちは、再び空へと舞い上がる。まだ温もりを感じる星を、一緒に共有したいと思う相手は、一人だけしか思いつかなかった。



――はるか昔。男も女も、どちらも人間の形をしていたという伝説がある。同じように柔らかな肌を持ち、背丈も、寿命も、食べ物も同じ。彼らは手に手を取り生き、そして一緒の墓に眠ったと。

 それが未来で、それが答え。

 ミチルは深く父母に一礼をした。そして、歩き始める。胸に抱いた星は暖かく、美しく。まるで、竜の瞳のようだった。

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