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ミチル【3】

 迷いの森に生まれて初めて来たのは、すぐ上の姉が嫁入りをした次の日だった。姉と別れたくなくて泣いて泣いて、ずっと泣き続けて、ついに母に叱られたミチルは、ひたすらに走った。走って走って、ここにたどり着いたのだ。

 ああ、と当時まだ五歳だったミチルは息を吐いた。走っている時から、嫌な予感はしていたのだ。ここは来たことのない道のような気がする、とか、若干傾斜のある道を進んでいる気がする、とか、ひとけがないな、とか。

 ぐる、と後ろを振り返ると幸いにしてまだ空は青い。今のうちに引き返せば、母のもとに戻れるだろう。

「…帰ろ」

 そう呟いて、しかし、ミチルはその場に座り込む。やや湿った落ち葉や草が、臀部を冷やす。

「帰らなくちゃ」

 もう一度声に出したが、しかし、ミチルはそのまま座り込んでいる。空を眺めていると、まだ明るい色のそこには雲がたなびいている。誰かが飛ばした、愛の軌跡。いつか自分も母のように、雲を編むのだろうか。竜のために。食物のために。子どものために。

「――帰ろっかなあ…」

 三度呟きながら、空を見つめていた時だった。

「…うっとうしいのう」

 低い声が聞こえて、ぎょ、とミチルは目を見開く。慌てて髪で顔を隠す。

(竜の――男の声!)

 嫁入り前の女は、家族以外の竜に姿を見られてはいけない。どうして、とミチルは慌てて走り出す。

(まだ、昼間なのに――)

 長い髪で顔のほとんどを覆いながら走る。髪がぐちゃぐちゃになってしまう。帰ったらきっと叱られるだろう。そんなことを考えながら走っていたせいだろうか。その長い髪が、足元に絡みつくことまで気が及ばなかった。そして、この坂道。

 つまりは。

 きゃあ、という声が出た。

 右足に絡んだ髪に引っ張られて、頭ががくん、と下がる。どうにか体制を整えようとした右手はしかしうまく機能せず、身体をぐるりと半回転させただけで。そして、踏ん張った左足はやや濡れた落ち葉の上で、ずるりと揺れて。

「大丈夫か」

「…あれ?」

 転んだ、と思った。だって途中までの様子はひどくゆっくりとコマ送りのように見えていたのだから。空をつかむ手。揺れる景色。頭から出たのではないかと思うぐらい甲高い自分の声。

 ようやく自分の状況を理解したのは、数十秒が立った後で。

「――うあっ」

「よくもまあ品のない声を出せるものじゃの」

 その人は呆れたようにそういうと、ミチルを支えていた手をどかした。とすん、とミチルはその場に座り込む形になる。ミチルは慌ててその声の主を見て、そうして、肩の力を抜いた。

(…人…女の人だ…)

 声からするにてっきり男――竜だと思って焦っていた気持ちが抜けていく。

 そこにいたのは、「人」だった。切れ長の目と通った鼻筋。薄い唇。髪はとても長いが、着ている服はあまり長くない。髪が長いということは、つまりはもう結びの儀を終えていないということだろうか。

「…なあんだ…」

 ぽつりと出た言葉に、その人は不思議そうな顔をする。多少声が低くても、姿かたちは間違いなく人だ。ここに住んでいるのだろうか。この人の家族はどこにいるのだろう。

「あの、助けてくれてありがとうございました」

 ぺこりとミチルは頭を下げる。その人は少し笑って、言った。

「この森は、彷徨う者だけを受け入れる。――不安になったらまたおいで」

 と。

 そしてそれから五年――。

「…またお前か」

 その人はため息をついて、ミチルを眺める。

「またおいで、って言ってくれたじゃないですか」

「こんなにもしょっちゅう訪れるのはお前が初めてじゃ。皆来ても一、二度程度じゃ」

 その人はそういうと、諦めたように少しだけ笑みを浮かべた。

「――今度は何じゃ。姉が嫁入りをして寂しいのも、父が死んで悲しかったのも、友人と喧嘩したのも、うまく雲が編めなかったのも、上等の星を落として駄目にしたのももう解決したじゃろうに」

「…まだ覚えてたんですか?」

「まだあるじゃろ。転んで顔に傷をつけたり?木の皮で前髪を少しだけ切ってしまったり?」

「…そういうのは、忘れてほしいです」

 ミチルの言葉に、その人は朗らかに笑った。それから、つ、と真面目な顔になる。

「…もう少しじゃの。結びの儀は」

「知ってたんですか?」

「そりゃあの。まあ、ここに来る者は、お前さんだけではないのでの」

 そうですか、とミチルは答える。

 いまだにミチルはこの人の名前や家族を知らなかった。ここはあくまで、辛くなった時に逃げてきて弱音を吐くだけの場所。そしてこの人は、いつだってミチルのそれを受け入れてくれる。ひそかにミチルは、この人のことを「月の神」ではないかと思っていた。なんだかよくわからないけれど、人々を守ってくれるという存在。

「…いつもここに、いるんですね」

「うん?――…ああ、そうじゃの」

「家族は…いるんですか?」

 その人は答えずに、ただ薄く笑っているだけだった。

「――それで?今度はどうしたのかの?」

 ただ、笑っているだけだった。

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