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ミチル【1】

 緩やかに、夜は青を侵略する。ミチルはそれを目の端でとらえると、逃げるように走り出す。生まれた時から一度も切っていない髪が、足に絡まないように気を付けながら。竜たちが目覚める前に、家に――木の下に、帰らなくてはいけない。

 既に、竜たちの唸り声が夜の方から聞こえる。僅かに太陽の明かりが残る赤に向かって、ミチルは走る。ざざあ、と聞こえるのは風の声。竜の声じゃない。そう、自分に言い聞かせながら。

 大きな木の下には、彼女の母――サツキが座っていた。サツキはミチルを認めると眉根を顰めた。

「もっと早く帰ってきなさいよ」

 サツキはそういって、ため息をつく。彼女の手元には、雲がある。彼女はそれを風に乗せると、どこかいとおし気に息を吹きかける。それはゆっくりと風と共に空に舞い、そして他の雲と同じように馴染んで、漂い始めた。

「お父さんも、真赭(まそほ)藍鉄(あいてつ)も、もう起きたわよ?」

 ミチルは答えないまま、サツキの横に滑り込む。木の上で、竜の唸り声と枝がしなる音がする。耐えきれなくなった葉が、はらり、と数枚落ちてくる。

「だいたい、どこに行っていたの?まさかあの、迷いの森に入っていないわよね?」

 ミチルは母の睨み付けた方角を見る。ぽつりぽつりと木の茂るこの原っぱの奥には、山と言うには貧相な丘があって、そこにはびっしりと木が隙間ないように生えている。一度入ったら出られない、というありがちな脅し文句で大人たちはそこに行くことを禁じる。ミチルは、出られることを知っているのだけれど。

「あと、七晩で結びの儀なのよ?」

 分かっているの、と彼女は言う。ミチルは、小さく頷き、森から目をそらして空を見上げる。大きく広がり、青を完全に隠した夜空には、無数の星が瞬き、そしてその間を何頭もの竜が行きかっている。

 ああ、とサツキは笑みをこぼす。

「あの、橙色の星のそばにいるのは、お父さんだわね」

 いつの間にか木の上には、もう何もいなくなっていた。ミチルは母に気づかれないように、そっと息を吐く。空を飛ぶ竜は――父は、とても小さく見える。ミチルの指先に乗るほどに。けれどミチルは知っている。それが近くに舞い降りてきたときの、あのずしりとした重厚感を。つやつやと光る鱗や、大きくて鋭い爪、つややかな瞳も。

(あたしは、あれに触れられたいとは思えない)

 うっとりと父を熱っぽい瞳で見つめる母に気づかれないように、もう一度息を落とす。

 世の中には、男女の区別のつきにくい生き物が多数いるが――例えば小鳥や魚のように――「ニンゲン」は違う。男は、うろこで包まれた、長い体に四肢のついた形。身体はどこからか尾に変化している。長いひげ。くぱりと開く口。それとはまったく異なり、女は、つるりとした皮膚に最低限――頭と目の上と陰部――に毛が生えている。爪や歯の形だって違う。

 ふいに強い風が吹いてきて、ミチルは顔を上げた。いつの間にか、うつむいていたことに気づく。

 目の前には、二人の弟がいた。

「姉貴! 帰ってきてたんだね」

 低い声で真赭は言い、そして身体に比べるとやや小さな腕の中を見せる。

「ほら、星だよ。この黄紫のは姉貴にあげる」

 言いながらその竜は、鋭い爪のある指先を器用に動かして、ミチルに星を渡す。ミチルの顔ぐらいの大きさのそれは、ずしりと重い。末の弟の藍鉄は、青い星を母に渡していた。

 そして、ゆっくりと父が降りてくる。大きな星を抱えた彼は、目を細めて笑う。ミチルは彼の視線から逃げるように、先ほど弟に渡された星に視線を落とした。腕の中にあるそれはまだほんのり温みを帯びている。

「もうすぐだな。七晩の後であったか。…結びの儀は」

 父――白緑は言う。ミチルは小さく頷いた。嫁入り前の女は、竜と口をきいてはいけない。姿を見せていいのは、家族だけ。髪を切ってはいけない。それもこれも、全てあと七晩後の――結びの儀のため。

「――今日は思いのほか、星が豊富だ。もう一度、星を狩ってくる」

 気を付けて、と母は言って、父に頬ずりをする。父は弟たちを従えて、再び、夜空に羽ばたいていく。竜は、夜行性だ。彼らは星を狩り、その星を家族のもとへと届ける。女はそれを待つ。昼間は雲を編み、竜たちの狩ってきた星を砕いて食料――金平糖と呼ばれる――を作る。年に一度の繁殖期には、結びの儀という儀式を行い、そこで子作りを行う。生き物の一生など、そんなもの。食べて、排して、子孫を残す。ただ、それだけ。

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