ナツメ【2】
迷いの森に行った子がいるの、とイリヤが言ったのはその翌日だった。少しだけだよ、とナツメがイリヤの衣服に刺しゅうを施しているときに、彼女はそう言った。
「…迷いの森って――…どうしてそんな」
ナツメの幼いころは、迷いの森という言葉を出すことすら禁忌だった。訪れてはいけない場所。
けれど、イリヤはけろりとした顔で。
「なかにね、かみさまみたいな綺麗な人が住んでるんだって。チリコのおかあさんも、昔行ったらしいよ。そこで迷いをトロすると、心が軽くなるんだって」
ところで、トロってなあに、とイリヤが聞く。吐露ね、とナツメはその言葉を説明してから、ふとイリヤに問う。
「…あなたは行ったことがあるの?」
「ないよ。トロしたいことなんてなんにもないもん」
即答した娘に苦笑しながらも、ナツメは遠くに見える迷いの森を見る。あそこに子どもを捨てたという女の逸話を聞いたことがある。何故だか理由は分からないが、それでも結びの儀のときに人数がきちんとそろったので、死んでしまったのかあるいはもとより獣のように、神の見届けの数に入らなかったのではなかったという話も聞いた。
かみさま、ねえ。とナツメはつぶやく。神の名を気やすく呼ぶまだ幼いその唇は、すらすらと言葉を紡いでいく。
「それでねえ、その子もそのかみさまに会おうと思ったんだって。でも、そういう心のせいなのか、会えなかったんだって。迷った心を持っている人しか、ダメなんだって」
ふうん、とナツメは相槌を打ちながら刺繍を続ける。イリヤの希望により、衣服は薄い紅色の幾何学模様で彩られていく。幼い子供たちは、今日は比較的温いので日向でごろりと横たわっている。
「ねえ、母様は迷ったことなんてないの?」
ナツメはぱちくりと目を瞬かせて、自分の娘を見る。そして、少し笑んだ。自分がまだ若いころ、自分の母のようになれないと悩み苦しんだ時期があった。子どもを育てながら雲を編んで、星を割って、夫を見守ることが、あの時の自分にはどうしても苦しかった。昼間も夜も、うとうとと常に眠く、それに、最初の夫はあまり狩りが上手ではなかったから、子どもが腹が減ったと泣いたこともあった。でも、迷ったことはなかった。道はただ一つしかなくて、周りには何もなかったから。時折、空を飛んでいる竜や遠くの木の下で雲を編む女を見たけれど、結局彼らのその遠い姿しか知らないナツメには、比較のしようがなかった。せいぜい比べるとしたら、後ろを振り返るだけしかできない。幼かった頃の、記憶ぐらいしかまともに突き合わせるものを持っていないのだ。
それでも、その夫を失った時はひどくひどく悲しかった。とろけた竜の体を食べながら、備蓄の食料を作りながら、悲しくて、つらくて。けれど、やはり選択肢はなかった。子どもを育てなくてはいけなかったし、次の結びの儀で新しく夫を探すまでは、夫の体で生き延びなくてはならないのだが、その夫の体はあまりにも小さすぎた。ナツメだけなら何とかなったが、当時は子どもを五人も抱えていた。幸い、当時は二番目に産んだ竜が狩りの練習をしているところで、母子は飢え死にをしなくて済んだ。そうでなければ、死んでいたかもしれない。
「母様?」
イリヤは、比べるのだな、とナツメは思う。表面の、はがれてしまいそうな――たとえるなら、鱗のような――きらきらと光る部分だけを見つめて。中にある柔らかな部分も知らないのに。
「迷ったことは、ないかしらね」
けれど。とナツメは言う。
「つらかったことはあったわ。逃げられないし、受け入れるしかないけれど…それができるまで、少しだけ時間がかかって。その間は、少し、つらかった」
「…それは、どうやって乗り越えたの?」
かみさまのところに行ったの?とイリヤは問う。ナツメは微笑みながら、愛娘に刺繍を終えた服を手渡すしながら言う。
「心を抱きしめて待っていると、いつか消えるものなのよ。自分で何とかするしかないの。他のなにものにも、癒せないの」
「でも、わたし、母様に話を聞いてもらえると心が落ち着くわ」
真剣な顔でイリヤが言い、思わずナツメは吹き出しそうになる。
「それはあなたが子どもだからよ。子どもの手はまだ小さいから、心を抱きしめることができないの。あふれてしまうのよ」
むう、と頬を膨らませてイリヤはそっぽを向く。
「子ども扱いしないでよ。わたしだってもうすぐ、結びの儀に参加するのよ」
「そうね」
否定はせず、ナツメはイリヤの髪をなでる。長い髪は、もうくるぶしのあたりに届きそうだ。ころころと寝そべって遊んでいた幼子たちは眠ってしまっている。久しぶりに、イリヤも外には行かずにナツメのそばに大人しくいる。
ああそうか、とナツメは今更ながらに気付く。彼女は暇だから出歩いたり新しいことを求めているわけではないのだ。寂しかったのだ。いつも幼子の世話と星の処理でろくに構いもしなかった。ほとんど大人と同じ見た目になった彼女は、もう手を放していいのだと思っていた。
「…結びの儀までは、あなたはまだ子どもよ。あたしの、子ども」
少しだけくすぐったそうに、イリヤは笑う。
ナツメはゆっくりと空を見る。少しずつ、空の色が変わってきた。ぼんやりと星の姿が浮かび上がってくる。夜に、なるのだ。星の大きさが、以前に比べて少し縮んだ気がする。短命である竜にはわからないかもしれないけれど、ナツメはそう感じた。瑠璃がとってくる星がそうなのではない。こうして空を見上げているときに、目に入る星。それが。
(――何かが、変わっている)
しかし、それを理解したところで何もできないのだろうとナツメは思う。今までと同じように、その道以外の道を模索することはできない。また、抱きしめて行くしかないのだ。――ナツメは。
もしかしたら、と珍しく自分に甘えるように身を持たせかけてきたイリヤを見て思う。彼女たちの世代が敏感にそれを察知しているのかもしれない。
それが新しい道になるのかもしれない。




