金糸雀
夜の月は、ひどく美しい。形を少しずつ変えながら、こちらをあざけるように浮かび上がり、見下ろしている。今夜は、満月だった。
(――月の神)
どこかで夜行性の鳥が飛び立つ音が聞こえた。もしかしたら、小さな何か――虫や獣――を狩っているのかもしれない。
こんな夜には、人は誰も彼のもとは訪れない。
満月の夜にはいつも考える。誰かが泣いてこないだろうかと。月の神は竜と女の数を揃えるという逸話がある。もしもそれにあぶれた者がいたら。――竜でも、女でも。そうしたら、ようやく自分の正体が分かるかもしれない。
金糸雀は、異形の子として生まれた。つるりとしたきめ細かな肌は柔らかく、鱗の鎧は一切ついていない。爪は頼りなげに薄く小さく。尾も羽根もなく、のっぺりとした顔に目鼻口がぽつんぽつんとついているだけだった。まるで、人の子のように。けれど、彼の脚の付け根にはついているはずのないものがついていて。
母は、金糸雀を分厚い布でくるんで隠した。可愛い女の子よと、自分の夫やすでに産んでいた兄姉に金糸雀を見せ、ほほ笑んだ。
けれど、それがそのまま隠し通せるはずもない。
生後一年に満たない金糸雀を抱いて、母はこの、迷いの森へと訪れた。そして。
金糸雀は、体こそ人間に近かったが精神の方は竜に近かった。ゆえに、一歳未満の年であったが、様々なことを理解していた。自分が異端であること。世の中の仕組み。母の苦悩。言葉。そして、自分が赤子のふりをしていなくてはいけなかったこと。既に自力で歩くことのできた彼は、空腹をそのあたりにいる獣を真似て木の実で満たし、ぼんやりと空を見つめる日々を過ごしてきた。過ごして――今に至る。ただ、それだけだ。
あれから、どのくらいの時間がたったのか。竜であれば、おそらくとうに死んでいるだけの歳月は過ぎたはずだ。けれど、彼の体はまだ朽ちていく様子も見えない。自ら死を選ぶという選択肢を知りえない彼は、ただ生きていくしかない。
ぼんやりと空を眺めているうちに、眠ってしまったらしい。気づけば空は明るくなり、朝が来ていた。おそらく森の外では数えきれないほどの組の夫婦が誕生したことだろう。
月の神は、どうやら自分を竜とも女とも認めていないようだ。何十、何百回も繰り返し出した結論を再び出すと、金糸雀は木の実を探しに、森の中をさまよう。誰も、彼に星を捕ってはくれない。昔食べたあの甘やかな味は、もう忘れてしまった。美味だったという記憶は残っているが、果たしてそれが「味」としての記憶なのか、「記憶」としての記憶なのかは曖昧なままだ。既に空から消え失せている月を思いながら、同じような形の黄色い木の実を口に運ぶ。そうしていると、自分が毛むくじゃらの獣になったような気持になる。男と女が、同じ形状の――まるで、一つの種族のような獣に。
ごめんね。と母は言わなかった。ただ黙って、自分を――歩けないと信じ込んでいた赤子を、彼女はこの森に横たえて、そうして踵を返した。だから金糸雀は、思ってしまう。母は悪くないのだと。
迷いの森には、ふらりと女たちがごくまれに訪れる。ここは、訪れることを推奨されていない場所だから、たいていはそんな言葉を無視するような精神状態の女たちだ。竜たちは訪れない。
人間の体と、竜の精神。それを持っているせいか、あるいはここを訪れる女たちが弱っているせいなのか、金糸雀から見ると彼女たちは幼く見えた。さほど年は変わらなく思えるのだが、あまりにも幼い。彼女たちを見ていると、抱きしめたくなるほどに。
これは母性なのだろうかと、金糸雀はぼんやりと思う。そうして、だいぶくったりと年季を重ねてきた着衣に触れる。母が金糸雀を包み込んでいた布。ずるずると常に持って歩くのは疲れるので、ある時から木の枝を使ってちょうどよい大きさに裂いて、蔦で巻いて固定をした。幼いころはそれでも引きずっていたが、今ではだいぶ短くなってしまっていた。星の表面を削って作った布は丈夫だが、それでも十年以上も使っているとさすがに傷んでくる。けれど、金糸雀は新しい布を手に入れるすべを知らない。空を飛んで、星を狩るすべを知らない。そのあたりを飛ぶ鳥や、獣や、竜のように体を覆う羽根や毛皮や鱗は持たない。
女をいとしいと思う一方で、竜の庇護を受けたいという欲求を覚える。だれかを慈しんで抱きしめたい。けれど、あの美味だった星を口にして、新しい衣を身にまといたい。結局のところ、どちらもできない自分はやはり欠陥なのだなと金糸雀は思い、そして千切れそうになってしまった蔦を新しいものにすべく、森の中をまたさまよい始める。時折、木の実を口にしながら。
母は、謝らなかった。それは、金糸雀がまだそれを理解できていないと思っていたからかもしれない。謝罪が彼を癒すことはあり得ないと思ったからかもしれない。
けれど、だからこそ今でも金糸雀は思う。
母は悪くないのだと。悪いのは、自分なのだと。
「生まれてきて、ごめんね。母さん」
そう呟いた声は、まるで竜のような、低い声で。悩み涙をこぼす女には、月の神の加護がある。けれど自分にはない。それが、すべての答えのように思えたのだ。




