第七話 「誰ともつきあわないよ。」
二度目に太郎が来た次の日、私は駅まで行って、電車に乗ろうとしたら、定期を忘れていることに気がついた。しょうがないので、教室に取りに帰る、きっとロッカーの中か、机の中に違いない。教室に入ろうとしたら、部屋の中から女の子の必死な声が聞こえた。
「でも…何度言われても『誰とも付き合う気が無い』って理由じゃ納得がいかないの。匠くんはそれでいいの?」
しまった、天野くんへの、女の子の告白シーンらしい。しかも、なんかピュアなのじゃなくて、修羅場な匂いがする。廊下でしばし、どうしようか悩む。天野くんの大きなため息が聞こえた。
「困ったな。僕は、絵の中でしか女の子を愛せないんだよ。そういう冷たい人間だと思ってもらうしかないね。」
「だって、私は、その匠くんの絵が好きなの。」
震えるような声で女の子が主張する。
「あんなに素敵な絵が描けるんだから、きっと匠くんはあったかい人だと思うの。冷たいなんて言わないで。それに、匠くんは才能がある。きっと、画家として世の中に出られると思う。」
「買い被ってくれるのは嬉しいんだけど、僕の絵は売れないよ。」
突き放すように天野くんは言う。
「君は売れない画家を支えることを甘く見てるよ。僕ぐらいの才能は掃いて捨てるほどいる。自分の才能の限界は、自分でよくわかってるけど、それでも、僕は絵を捨てられないだろう。」
激しい口調で天野くんは女の子に言い切る。
「君は売れない画家の末路を知ってるかい?アルコールに溺れ、薬に溺れ、それでもふらふらになりながら、絵筆を取ろうとする。いっしょにいる女性は悲惨だよ。彼に抱きしめられることはなく、ひたすらに彼の手に金を握らすか、アルコールを渡すか、高い油絵の具を買ってきて渡すか。」
「………そんな。」
「売れない画家と一緒になった女性は、一生わが子を胸に抱くこともなく、身を粉にして働いて、半ば廃人のような夫を支え続けなければいけない。きみはそんな人生でいいの?」
「そこまで先のことは、私……。」
「悪いけど、高校生らしい男女交際なんて、僕は興味が無い。でも、きみが、人生のすべてを投げうって、ぼくに捧げてくれるって言うなら話は別だ。幸せにしても、愛してもあげられないけど、君が僕を支えてずっと働いてくれるって言うなら、一緒にいてもいいよ。…時々気まぐれに抱くかもしれないけどね。」
「…………それは…。」
女の子の声が涙で揺れる。
「君は十分に可愛くてきれいな子だよ。そんな人生を送らせるのは忍びない。どうか、普通の健全な男を選びなよ、絵理ちゃん。それが君の身のためだ。……いつでも、君の絵なら描かせてもらうから。」
急にバタバタと駆け出してくる音がして、私は廊下で身を縮める。幸い、私に気づくこともなく、絵理は泣きながら教室を飛び出していった。……さて、なんとか、天野くんに気づかれることなく、定期を取りにはいけないものか。私が悩んでいたら、天野くんが再びため息をついて、声をかけた。
「望月さん、入ってきなよ。立ち聞きなんて趣味が悪いよ。」
望月楓、非常に決まりがわるいです。
「ごめん、ちょっと定期を教室に忘れて、取りに来ただけなんだけど…。」
「あ、そう。」
天野くんは不快そうな顔を隠そうとしない。さっさと定期を探して、この場を去ろう。私がロッカーをごそごそと探っていると、天野くんが後ろから声をかけてきた。
「珍しいね、しっかりしてる望月さんが、定期を忘れるとか。……この一週間、望月さん、かなり変だよ。」
ぎくっ。太郎が私の前に現れてから、そんなに私の行動はふだんと違ってるんだろうか。
「先週の木曜日は、泣き腫らしたような目で学校へ来たかと思えば、そのあとはぼーっと物思いにふけってさ、一昨日の雨の日には、君の心も雨模様だったんじゃないかな。」
「………なんでそんなこと。私、そんなにわかりやすかったかな。」
「別に。俺はただ、人を観察するのが趣味だから。……でも、一昨日は、心配だからよっぽど声を掛けようと思ったんだけど、あんまり普段と違ってるふうのあんたが珍しくて、ついつい声をかけて様子を聞くよりも、あんたの絵を描く方を選択してしまった。俺、そういうどうしようもないヤツなんだ。」
沈んだ様子で天野くんが言う。絵理を振ったのに、そうとうパワーを使ったんだろうな…。しかし、かなり私、見られてるんだな、あまり気を抜けないな…。
「女の子を振るとき、天野くんずいぶん饒舌なんだね。びっくりした。」
はぐらかすように、私は言う。
「ああ…あそこまで言うことも、なかなか無いんだけど、そうでも言わないと、あの子あきらめそうに無かったから…。かなりいろんな画家のエピソード織り込んで、話を盛ったけど、言いたい意味はそんなに真実から外れてないよ。…でも、疲れた。」
「……そっか。結局は誰とも一生本気で付き合うつもりも、結婚するつもりもないってことだよね。……そこは大いに共感できるんだけどね、幸い私、天野くんみたいにモテたりしないから、そんな悩みが無くて良かった。」
「へえ、あんたも、俺と一緒か…道理で。……それにしてもこの一週間……。」
天野くんになにか嗅ぎ取られそうな気がしたので、私は、定期の入ったパスケースを手に「さよなら!」と教室を飛び出した。
ふう、怖い怖い。天野くんて、急に何を言い出すかわからない。しかも、妙に勘が鋭いし…。
翌日の金曜日、「絵理ちゃん」こと浦部絵里は、学校を休んでいた。ま、昨日の今日だしね…。ショックだよね。天野くんは、昨日の疲れた顔もどこへやら、今日も女の子を窓際に立たせて、
「ちょっと逆光を利用した方が、きみの綺麗さが映えるね、うん、いいね、色っぽいよ。」
……飽きもせず、似顔絵描きにいそしんでる。よくもまあ、ぺらぺらと思ってもない軽薄な褒め言葉が、次から次へと出てくるなあ。私は感心して、ちょっと眺めていたら、凛音に
「最近、結構、楓も匠くんが描いてるとこ、うらやましそうに見るようになったね。……そろそろ描いてほしいんじゃない?」
と、言われてしまう。
「いやいや、いろんな褒め言葉のレパートリーがあるなあって感心してるんだよ。」
「確かに…でも、そんなことに楓が興味を持つってこと自体が、珍しいよね。……でも、匠くんはダメだよ。絵を描いてもらうこと以上のことは、望めないから。」
「だから、描かれることすら望んでないってば。」
どういう人なのか、という興味が少しだけ湧いたのは確かだけれども。そこへ、ほかの子も絡んできた。
「でもさ、似顔絵王子はストイックに絵を描いてるだけだけど、三組のさ……。」
「あー、知ってる、バスケ部のエースの子だよね、あの背の高い。」
誰か知らない男の子の話題で盛り上がりはじめたところで、私は教科書に目を落とした。教室の雑音を遮断するように、私は目の前の文字に集中する……。