第六十一話 匠の決意
凛音がドアを閉めると、匠はロックをかけて、私をソファーに連れて行った。そして、私を座らせて、目を見て静かに言う。
「昨日、泣いたね?楓。描いてたらわかる。」
なんで、匠にはわかっちゃうんだろう。号泣したわけでもないのに。私が黙っていると、匠はため息をつく。
「ねえ、楓は、荒川のことを今、どう思ってる?」
私が答えることができないでいると、匠に静かに言われる。
「俺、ちゃんと受け止めるって言ったよね?正直に言って、楓。」
そう言われて、私は重たい口を開く。
「気持ちに応えられなくて、申し訳なく思ってる、心苦しく思ってる。」
「そう、それから?」
「……友達に戻れなかったのを、残念に思ってる。」
そう言って、私はうつむいた。
「……ごめん、匠。」
「どうして謝るの?俺に対して、申し訳ない、やましい気持ちがあるから謝るの?」
……友達としての「好き」の感情を持ち続けることは、やっぱり、匠にたいしてやましい気持ちだろうか。わからないから、私が黙っていると、匠は私を抱きしめた。
「ごめん。こんなこと聞いて。あの時、楓が俺にも荒川にも黙って姿を消したのは、どっちも選べなかったからってわかってるのに。……でも、一年して、俺のところにちゃんと戻ってきてくれたのに、こんなこと聞いてごめん。」
匠は私を抱きしめたままつぶやく。
「でも、ちゃんと、俺は楓を全部、自分のほうに向かせることができてるだろうか、そう考えて、時々不安になる。」
「ごめんね。匠のこと、ほんとに好きだから。恋人として好きなのは匠だけ。」
私は匠の耳にささやくと、匠はびくっとした。
「恋人として、ってどういう意味なんだろうね。」
匠は私の額に自分の額をつけて、つぶやく。
「俺、楓がいないときは、ただ楓が帰ってきて、自分のそばにいてくれたら、もうそれで満足するだろうって思ってたんだけど…。一緒にいたら、もっともっと欲深くなる。底なしに全部、楓が心の底から全部、俺だけ見てくれたらいいのに、って思ってしまう。」
匠はそう言って、ソファーに私を押し倒して、ゆっくりと優しい口づけをする。
「たぶん、俺は、楓が考えるよりも、もっと嫉妬深くて、不安にかられて、小さい男なんだよ。楓の心の片隅に、アイツがまだ住んでることも全然許せない。」
「ごめんね。」
そう言いながら、私は涙をこぼす。凛音の言う通りだ。友人としての感情を、私がタケルに持ち続けているだけで、私は匠を傷つける。匠はもう何も言わず、私にキスを繰り返す。そのどのキスも、優しくて暖かい。それだけで心が満たされていく。けれど、匠は違ったみたいで。
「もう、限界。」
苦しそうに匠はうめいた。匠は私から身体を離して、切なさと怒りに満ちた眼をして言った。
「俺のこと、恋人として好きって言うなら、楓の身体に、めちゃくちゃそれを刻み込みたい、もう、収まらない。」
匠の身体からふつふつと怒りがたぎってあふれているのがわかる。私は黙ってうなずいた。匠はそのまま、私を寝室に連れていく。
愛の行為なのか怒りの行為なのかわからない匠のそれを、私は黙って身体で受け止める。
私の中に残る、タケルへの思いが、こんなにも匠を傷つける。そのことが身に浸みる。いつになく無言で、動きを止めない匠が、私の唇をこじ開けてキスを落としながら、やっと口をきく。
「ねえ、アイツに何回、こんなキスされた?」
途端に、脳裏にあの緑のコートで受けたキスが蘇る。屋上で、視聴覚準備室で、空き教室で、私は幾度となくタケルのキスを受けた。
「いやあ……。」
私は目をかっきりと見開く。身体が震える。驚いたように、匠は私を抱きしめた。匠の身体にしがみついて、私は号泣した。
「キスされるのも、触れられるのも、抱かれるのも、匠じゃないと嫌なの!匠だけがいい!匠だけが好きなのに!」
「ごめん!楓、ごめん!」
慌てたように、匠は私の身体を起こして、しっかりと抱きしめた。取り乱して泣き続ける私を、泣き止むまで匠はずっとそのまま抱き続けていた。
やっと泣き止んだ私に、匠は優しく服を着せる。小さな子どもの世話をするように、すべてのボタンも留めて、自分も服を着けると、匠は、またリビングに私を連れて行って、ソファーの上で、私を抱きしめる。
「泣いたりして、ごめんなさい。」
私は匠に謝る。
「いや、俺が悪かった。つまらない嫉妬で、楓を傷つけた。」
落ち込んだ声で匠は言う。
「ううん、私が悪い。私がはっきりタケルを拒絶できなかったから。」
愚かで、無力でいい加減だった過去の自分と、そして今でも、「友」としてのタケルを心にとどめる今の私、その両方が匠を傷つけている。
「いや、俺、ほんとは嫉妬する権利なんて無いんだよ。あの頃の楓は、俺とつきあってたわけでもないし、誰と何をしようと、楓の自由なんだけどさ。」
小さな声で低くつぶやく匠の声は、悔恨に満ちている。
「……でもさ、アイツとつきあってる時の楓は、ものすごく不幸せそうだった。痩せて、やつれて、顔色も悪くて、今にも倒れそうな顔してた。楓にそんな顔させてたアイツを、俺は許すことができない。そして、いまでも楓の心を縛りつけてるアイツが心底憎たらしいよ。」
再び匠の声が怒りに満ちる。
「ねえ……なんで、そんな目に遭わされたアイツを、なんで楓は嫌いになれないの?忘れられないの?」
「どうしてだろう……。」
私の目に涙が再び浮かぶ。
「タケルと私、友達だったときは、本当に仲が良かった。駆のことを思い出して、くだらない思い出で笑い合って、たった週に一回、一時間だけのその時間を、タケルは本当に大切にしてくれていた。」
「うん……、それで?」
「それを、私は、人目を気にして、もう終わりにしようって言って、タケルを怒らせて…、あの時、私がタケルを怒らせなかったら、タケルと私は、今でも友達だったんじゃないかっていう気持ちが、どうしても消えない。」
「それから?」
「タケルは、駆のために、好きでもない私に、無理やり自分に暗示をかけて、好きって思いこませてまで、私と一緒にいてくれようとした。私は、その気持ちに応えられなかった。」
「だからね……。」
匠はため息をつく。
「アイツは、本気で最初っから、楓を落とすつもりで、駆くんをダシに楓に近づいたんだよ。なんでそれが楓にはわからないかな…。」
「私にはそう思えない。だって、あの瞬間まで、私たちは、ほんとうに友達だったんだから。だから、私、空港からタケルに最後に電話した時、言ったの。『いつかまた、どこかで同窓会できたらいいね』って。」
匠は困ったように頭をゴシゴシと掻きむしる。
「……でも、それは、私のひとりよがりな思いで、タケルはもう、そんなことも望んでないと思う。……それに、匠は私とタケルが会うことなんて許せないでしょ?」
「当たり前だろ?アイツは今でも楓を忘れてないし、会ったら絶対取り戻しにかかる。それこそ、どんな手を使うかわからない。そんな危険なヤツに会わせるわけにいかないよ。」
「だから、もういい。」
私はそう言って、涙を一筋流す。
「もういい、って言いながら、なんでそんな風に泣くわけ?」
匠は低い声で言う。
「楓がアイツのことを、そんな風に心にとどめてるだけで、俺、どうしていいかわからなくなる。さっきみたいにめちゃくちゃに抱いて壊したくなる。……でも、そんなこと無意味だって、よくよくわかった。」
「ごめん…。タケルのことはもう忘れる。」
そうい言いながら、私の涙は止まらない。この涙が流れる分だけ、私は匠を傷つける。
「ごめん、そんな風に泣く楓、もう、俺、見たくない。頭も冷やしたいし、ちょっと出てくる。」
そう言って、匠は私から手を離して、上着を羽織り、カバンをかけて、玄関から出て行った。
匠がこんな風に、私を突き放すのは初めてのことだった。一年以上、音信不通にしながら、それでも私を待ち続けていてくれた匠を、私はこんな風にひとりよがりに傷つける。やっと、涙の止まった私は、のろのろと玄関に行って、鍵をかける。
いつもうるさいぐらい、戸締り、戸締り、と言っていた匠が、何も言わず部屋から出て行ったのは初めてだった。もう、匠は戻ってきてくれないかもしれないな、私はそう考えて唇を噛む。膝を抱えて、私は昼食も取らず、匠をひたすら待ち続けた。
夕方、暗くなるころ、インターフォンが鳴る。のろのろとカメラを確認すると、匠だった。玄関の施錠を外すと、
「ただいま。ちゃんと鍵かけてたね、えらいえらい。」
と、ごく当たり前の顔で匠が入ってくる。今日の午前中の怒りは微塵も見えない、ふつうの表情の匠を私はぼんやり見つめる。
「夕飯、まだ?」
「ごめん、匠が帰ってくるって思わなかったから、何も作ってない。」
私がそう言うと、匠はちょっと思案するふうを見せて、
「じゃ、今日は中華丼にしようか。すぐ作れるし、野菜も肉も一品で摂れるしな。楓は座っといて。俺が作る。」
そう言って手を洗うと、すぐにキッチンに立つ。私はその後ろに立って、黙って作業している匠に抱きつく。
「どうした?楓。動きにくいよ。」
「だって、もう匠、帰ってきてくれないかと思ってた。」
私は匠の背中に顔を押しつけて、くぐもった声で言う。
「そっか、俺、まだ信用ないな。」
そう言って、匠はくくっと笑い声を立てた。
「どこにも行かないから、ソファーに座っておいて。すぐにできる。」
「やだ。」
ますます強くしがみつくと、あきれたように匠は私をソファーに手を引いて、連れて行った。
「ほら、ここでクッションでも抱いて、いい子にしてて。あとで、話があるから。」
そう言って、匠はクッションを一つ私に渡して、頭を優しく撫でると、さっさとキッチンに戻ってしまった。仕方ないので、私はクッションを抱えて、ソファーに横になる。待ちくたびれた長い時間のあと、ちゃんと匠が帰ってきてくれた安心感で、私はほっとしてうとうとする。
「かえで、楓、できたよ。起きて。」
匠が私をゆり起こす。匠が用意してくれた中華丼を、私は口にする。昼から何も食べてないから、いつも以上に美味しく感じる。
「美味しい…。」
小さな声で言うと、よかった、と匠は優しい笑顔を見せてくれる。食後、キッチンをきっちり磨き上げて、匠は私を膝の間に座らせる。
「楓、聞いて、俺の話。」
「やだ。」
「どうして?」
「匠が離れていっちゃいそうだから。」
「俺、そんなこと言うと思う?」
「だって……私、一緒にいるだけで、匠を傷つけるから。ほんとは一緒にいちゃいけないんじゃないかって思う。……でも、離れたくない。」
「確かに、楓がアイツのことを忘れない限り、俺はつらいよ。でも、一緒にいられない、顔も見られない期間のほうが、もっと俺は傷ついたよ。」
匠は静かに言った。
「楓がいないと、誰を描く気も起らなくて、似顔絵描きはほとんど断った。予備校の課題や師匠の課題はやってたけど、クラスの女の子とか公園の似顔絵描きも、全部やめてた。それで、ノートに楓ばっかり描いてた。」
そう言われて、泣きながら凛音に電話した日のことを思い出す。
「雪が降れば、綺麗だと思うけど、楓と一緒に見たかったって思うし、雨が降れば、また楓が濡れて、風邪ひくんじゃないかとか気になるし。……こんなに楓のこと俺は考えてるけど、楓は、とっくにもう誰かと幸せになってるかもしれないし、と思うと余計に落ち込んだ。」
そう言って、匠は私を後ろから抱きしめる。
「……なんで、ちゃんと楓を好きって言わなかったんだろう、なんでちゃんとつなぎとめておかなかったんだろう、そう思って過去の自分を殴りたかった。春になって、このマンションに明かりがともった日、俺は、窓から楓のシルエットが見えないか、ずっとマンションの下で待ってた。」
そう言って、匠は私の顎を持って、自分のほうを向かせて深く口づける。
「……楓、俺になら、束縛されてもいいんだよな?」
「うん。私は匠なら、何をされても嬉しいし、怖くない。」
「そっか。……今日、俺、部屋、決めてきた。一緒に暮らそう。俺のアトリエと、楓の部屋がちゃんとある部屋。明日、その部屋、一緒に見に行こう。」
「嬉しい。」
私は、匠のほうに身体を向けてしがみつく。
「……でも、私、家賃とか払えないんだけど…。貧乏学生だから。」
「楓はそんなこと気にしなくていい。俺の部屋に、勝手に楓を持ち帰るだけなんだから。」
そう言って匠は笑った。
「楓はこれから、勉強とかも大変になって、夜も遅くなるだろうし、だから、食事は全部俺が作る。楓に手は出させない。」
匠はいたずらっぽく笑ってそう言う。
「疲れて帰ってきたら、俺が風呂に入れて、楓を全部洗ってやる。全身マッサージもしてやる。勉強が大変だとか、先輩や教授にいじめられたりとかしたら、その愚痴も全部聞いてやる。」
そう言って、匠はまた私に軽い口づけを与える。
「そうして、世界で一番、ドロドロにベタベタに、楓を甘やかす。楓には、何にもさせない。楓を、俺なしでは生きていけないぐらい、一生甘やかしてやる。」
そう言いながら、匠は私の喉を、猫のように撫でる。
「何年もそうやって、楓を甘やかして、そして、楓が何にもできなくなって、俺を頼らないと生きられないようになったら。」
匠は言葉をいったん切った。そして、私の目を見てにっこり笑った。
「……そうしたら、一回だけ、アイツに会わせてやってもいいよ。」
私の目から、熱い涙がこぼれてきて、何にも言えなくなって、匠の胸に顔を押し当てる。
「言っとくけど、一回だけだからな。あと、屋内で二人きりは無しだぞ。外で、一回だけだからな。」
匠の焦ったような声が聞こえる。私は匠の胸に額を押し当てたまま、何度もうなずいた。
「楓、世界で一番、愛してる。だから、絶対、俺のところに帰ってこいよ。」
匠の優しい言葉が、私の耳の中で、甘く溶けていく……。
三月最後の日曜日、私は匠と公園の遊歩道を歩いていた。
「もう、ここに似顔絵描きに来ること無い?」
私は匠に尋ねる。
「ないだろうな。楓がここにいてこそ、ここで描く意味があったんだし。それに、これから嫌っていうほど絵は描かされる。」
「そうなんだね。」
匠の進む芸大がどんなカリキュラムなのか、私には見当もつかない。
「やっぱり、過酷なんだろうね、匠の大学も。」
「どうだろう。楓ほどじゃないと思うよ。」
匠はそう言って笑う。
「こうやって、ゆっくり楓とここを歩くのも、もうなかなか無いかもな。」
匠はそう言って、水辺の柵に寄りかかる。
「……最後に、カップルらしく、あのボートに乗っておく?」
うららかな春の日の午後、公園の大きな池には幾艘ものボートが浮かんでいた。
「やだ、ひっくり返って沈んだら怖い。」
私が言うと、匠が笑った。
「まだ泳ぐには寒い季節だしな。楓、カナヅチ?」
「うん。」
「そっか……。船が沈むっていえば、『タイタニック』って映画あるじゃん?」
「うん……。」
私の口は重くなる。あの映画の主人公とヒロインに、駆と私をなぞらえて、さんざん心をかき乱された挙句、タケルに初めてのキスを奪われて以降、あまり良い印象がない映画だ。
「詳しいストーリーは忘れたけど、あの主人公が、ヒロインのヌードを描くシーンがあるんだよな。俺、それ見て、最後は沈んでしまうにしても、コイツはなんて幸せなヤツなんだろう、って思ったわ。最後に描く絵が、恋人のヌードなんて。」
「はあ。」
匠らしい感想に、私はあきれる。
「……だからさ、俺にもいつか、描かせてよ。楓のヌード。」
「どこまで行っても、……匠は匠だね。」
「なんだそれ。否定しないってことは、描かせてくれるの?」
「そうじゃない。」
私は笑った。
「死ぬ間際、ってことは、私、結構よぼよぼになってる年なんだけど、そんな裸を描きたいの?」
「そうか、じゃ、今すぐ描かせて。」
「絶対イヤ。」
「ケチ。」
匠は本気でふくれる。私はその顔を見て、また笑った。
「私を残して、先に死なないって言うなら、いつかね。それで満足して、先に逝かれたら、私生きていけない。……だって、私は匠無しでは生きていけなくなるんでしょ?」
そう言うと、匠も笑った。
「大丈夫、俺には絶対的な信頼のおける主治医ができるから、そう簡単には死ねないと思う。」
「そっか。責任重大だ、私。」
「そうだよ。俺を生かすも殺すも、楓しだい。」
「がんばろう。」
「無理しすぎるな。疲れたらいつでも癒してやるから。」
「ありがとう。」
会話を続けながら、私たちはゆっくりと最後の公園の道を、駅に向かって歩く。新しい家では、駆の絵と、太郎と、サボ太郎たちが出迎えてくれる……。




